SYMPTOM


 槌を振り下ろす度に、弾け飛ぶ火花。
 時と共に鍛冶師の目を灼きかねない燿き。
 一瞬一瞬、生まれては消える様が迸る命のように美しく感じられる瞬間がある……。

 真赤に爛れた鉄を水に入れると、凄まじい蒸気が立ち昇る。熱気は全身を襲い、額には玉のような汗が浮かんでは流れた。ぽとりと落ちた汗がまた、ジュッと音を立てて、一瞬で蒸発する。
 無論、そんなことには気も止めずに、ジャードは焼きを入れた鉄を凝と見据えた。
 そこにアンナが入ってくる。
「ジャード。そろそろ、食事にしない? もう日が……」
 言われて、窓の外を見ると、とっくに日は暮れている。そこで、漸く空腹を覚えた。
「そうだな。もう少しで仕上がるから、そうしたら、戻るよ」
 どうせ、アンナも日没間際まで、畑で働いていたに違いない。今直ぐ戻っても、食卓には夕飯はまだ並んでいない。
 すっかり、互いの呼吸というか、仕事の間なども掴めるようになっていた。何十年と連れ添った夫婦のようにとまではいえなくとも──出会ってから、まだ片手で足りる程度だが、二人は結婚し、夫婦となっていた。
 クリアン老人の鍛冶場も引き継ぎ──命の恩人であり、師匠ともなった老鍛冶師は頑固一徹ながら、筋を通した一生を全うしていた。孫娘の未来もジャードに託し……。
 自分を一途に想ってくれるアンナがジャードも愛おしいし、クリアン老人の遺した言葉のように、幸せにしたい。だが、考えるほどに『その言葉』は重い。何故なら……、

「とても熱心だけど、それは何? 注文の仕事じゃないわよね」
「え? あぁ…。一寸実験を」
「実験?」
「ん…。少しでも鉄の強度を上げられないかとね」
 デル周辺の土地は嘗てはともかく、今は決して豊かとはいえない。荒れ果て、痩せた土地が殆どだ。土も硬く、掘り起こすのも一苦労。当然、農具も傷みやすかった。
 鍛冶屋に持ち込まれる仕事の多くが田畑を耕す農具の類──鋤、鍬、牛馬に引かせる犂《すき》の他、鎌や鉈、荷を運ぶ馬の蹄鉄などの、それも修繕だった。
 新品の依頼も稀にはあるが、デルの民は道具が少し壊れたからといって、即、捨てたりはしない。直して直して、何度でも直して──本当に使えなくなるまで、使い倒すのだ。

 だが、そもそもの農具の刃の強度を上げられれば、長持ちするし、農作業も楽になり、捗るはずだ。
 ジャードはそのための研究を仕事の合間に進めていたのだ。勿論、鉄もふんだんに余っているわけではないので、少しずつ少しずつ……。
 話を聞いたアンナが笑みを零す。
「それでだったのね」
「ん?」
「最近、良く常連さんに言われるのよ。うちの品は丈夫で、土に負けないから助かるって。他の人に紹介してくれたりしてね」
「……そうか。それじゃ、少しは役に立ってるんだな」
 ホッとしたように呟くと、何故か、笑われた。
「そうよ。ジャードはちゃーんと、皆の役に立ってるわ。だから、根を詰めすぎないで、キリのいいところで切り上げてね」
 夕食の準備に戻っていくアンナの細い後姿を見送り、ジャードは微かに溜息をついた。
 彼女の存在に、本当に助けられている。救われているのだ。だから、その分、幸せにしたいと思っている。クリアン老人に言われるまでもなく。
 だが、ジャードには何よりも、やらなければならないことがある。それを察した上でのアンナの笑顔を見る度に、本当に一緒になって、良かったのだろうかと考えることもある。
 もしかしたら、将来、彼女を大変なことに巻き込んでしまうかもしれないと……。

 ジャードは頭を振り、仕上げの作業に取り掛かった。忘れたかったわけではないが、今は作業に没頭した。



 この日、ジャードは鉄鉱石の仕入れに出ていた。一頭立ての馬車を借り、序に遠地からの依頼の品も届けるのだ。
 城にいた頃には、乗馬の心得もあったが、一発で正式な訓練を受けたことが露見してしまう乗り方なので、直接馬に乗ることは避けていた。まぁ、荷物もあるわけだし……。

「どうですか」
「むぅ。あぁ、良い品だ。代金の一部は、こいつで賄っていいぞ」
「──有難うございます」
 ジャードはホッと息をつき、揃えた農具を納めた。
 師匠の薫陶宜しく、ジャードも仕事の報酬を無理に取ったりはしなかった。田畑で採れた農作物やら、それでも無理なら、長いこと待ってやったり──勿論、そればかりでは立ち行かなくなってしまう。アンナの薬草や織物やらでの収入と合わせて、何とか遣り繰りしているのだ。
 鉄鉱石を馬車に運んだジャードは隅の方に山になっている鉱石を見付けた。見れば、鉄の含有率が低い、いわゆる屑鉱石だ。だが、
「あの、これは捨ててしまうんですか」
「あー、そいつか。間違って、送られてきたんだよ。使い物にならんからな」
「でしたら、戴いても構いませんか」
「そりゃ、構わんが……。そんなモン、碌に鉄は採れんぞ」
 言いつつも、置いておいても邪魔なだけ、自分で処分するのも運ぶのも面倒──片付けてくれるのなら有り難い、と譲ってくれた。

「おぁ、ジャード」
 屑鉱石も運んでいるところに、声を掛けられた。見返せば、顔見知りの鍛冶屋仲間が笑顔で近付いてきた。尤も、仲間といっても、父親ほどの年ではあるが。クリアン老人の後を継いで間もないジャードは仲間内では勿論、最年少の一人だ。
「何だ、いつの間にか、髭なんぞ蓄えて。似合っとらんぞ」
「悪かったですね」
 実際のところ、似合うに合わないの問題ではなかった。未だに、城の人間に見つかるのではないかと用心しているのだ。
 城にいた頃は王家の者は城外《そと》に出ることを掟で禁じられており、エンドン王子の親友のジャードも準ずる扱いを受けていた。
 だが、考えてみるまでもなく、城内だけで、あの城の生活を維持できるはずもない。有り余るほどの食事も、真更な衣料品、豪勢な家具類……。あの鍛冶場で打っていた鉄とて、鉄鉱石を外から運び込まなければ、生み出されはしないのだ。
 現に、今でも時には衛兵の姿も見かける。
〈彼らは、城外の状況を知っているはずなのに、きっと今でも、エンドンの耳にまでは届いていない……〉
 あの主席顧問官──ジャードにあらぬ罪を着せ、城から追いやったプランディンの画策に違いない。王を補佐するべき主席顧問官が、もしかしたら、『影の大王』の手先かもしれないとは!?

 あの日、クリアンがジャードの着ていた服を海に捨て、衛兵も発見したと言っていた。ジャードは海で溺れ死んだと思わせるのに成功したのか、その後は探しているような様子はなかったが、それでも、用心に越したことはない。
 あれから、何年も経ち、少年だったジャードは逞しい青年に成長し、面立ちも変わった。更に髭で顔を隠せば、簡単に『エンドン王の親友だったジャード』と結びつくことはないだろう。名前もそれほど、珍しいものではない。
 ある日、突然、クリアンの元に転がり込んだ謎の少年だが、良く働くこともあり、他の鍛冶師たちにも大して疑われることもなく受け容れられ、可愛がられるようにもなっていた。

「うちの息子なんぞ、鍛冶屋なぞ、熱くて疲れるから、やってられんとか言いやがってな。お前さんのような後継ぎに恵まれて、クリアンの爺さんが羨ましいよ」
 満更、冗談でもなさそうに、そんな繰言を言う。アディン王以来、聖職とも称されてきた鍛冶仕事も随分と嫌われたものだ。
「それより、先日はわざわざ、家にまで来て下さって、有難うございました」
「いや、何。あのくらい、当然だよ。お前さんから、貰ったものに比べればな」
 ジャードは安定して、多少なりとも強度を上げられるようになった製法を他の鍛冶師にも伝えたのだ。
「まぁ、まだまだ、お前さんほどには質を揃えられないんだがな。それでも、客の評判はいい。お陰で、いっそのことと新調してくれる客もいてなぁ」
「そうですか。それは良かった」
 他にもそういう声は聞いている。ジャードは特に、製法を教えた礼金なども求めなかったので、自主的にお礼を持ってくる仲間も多かったのだ。
 彼もその一人で、先日、家を訪ねてきた。尤も、ジャードは家を空けていたので、アンナが応対したのだが。
「しかし、お前さんも奇特というか、馬鹿というか」
「馬鹿、ですか?」
「苦労して、編み出した製法なんだろう? 俺なら、簡単に人に教えたりしないがなぁ。強く長持ちする刃を作る奴がいるって、口伝てに広がりゃあ、どんどん客が増えるんじゃないか」
「……でも、一人で出来ることには限りがありますよ。それより、一人でも多くの鍛冶師が作った方が、より良い道具が大勢の人に行き渡るし、広い土地を拓くことができます」
「ジャード…、お前って奴はぁ、本ットにいい子だなぁ」
 いきなり、ガッシリと首を抱え込まれ、さすがに苦しい。若いジャードの方が体力もあるが、しかし、鉄を鍛える腕なのだ。生半可な力ではない。
「ちょっ…、絞め殺す気ですか」
「ハハッ、悪い悪い。しっかし、アンナ譲ちゃんの言った通りだな」
「アンナ?」
 礼に来た際、同じことをアンナにも言ったらしい。すると、今のジャードと殆ど同じことをアンナも返したのだそうだ。
「アンナが、そんなことを」
「話したわけじゃなかったのかい? フ〜ン、譲ちゃんはお前さんのことを良ぉく解かってるんだなぁ」
 今度は馬鹿力でバンバンと背中を叩かれ、咳き込んだが、何とも言いようのない気持ちになった。本当に、その通りだと思う。
 それはジャードにとっても、とても幸運なことだった。


☆         ★         ☆         ★         ☆


「それじゃ、お先に」
「おぅ、またな。ジャード」
 荷を積み込み終わると、仲間に声を掛け、御者台に上がり、手綱を取った。
 だが、手綱を当てても動く気配がない。それどころか、不意に落ち着きを失い、騒ぎ始めた。慌てて、手綱を引くが、まるで効果がないのに、飛び降り、馬に駆け寄る。
「よしよし、大丈夫だ。どうした?」
 首筋を撫でて、宥める。幸いにも、馬は静かになり、落ち着きを取り戻したようだ。
 他の馬たちも同様に、騒いでいる。中には棹立ちになり、暴れているものもいる。それでも、走り出したりはしていないのが不思議だが。まるで、逃げ場がないような様子にも思えて……。
〈怯えている?〉
 元来、馬は臆病な生き物だが、借りた馬は良く人にも馴らされていて、主以外の命令にも素直に従ってくれる。なのに、この怯えは何だろう。全身が緊張しているようでもある。

バサバサバサッ……

 近くの森で、一斉に鳥が飛び立った。幾種もの鳥の羽ばたきが重なり合い、怯える馬の嘶きに被る。人々の不安が一層、掻き立てられた。
 鳥たちは群れを為すでもなく、ギャーギャーと啼きながら、好き勝手に上空を旋回している。整然さは全くなく、混乱しているようだ。
 そこにはやはり、何かに対する怯えがある?
 馬を宥めつつ、ジャードは鳥たちを注視し、意識を集中する……。

……ナニカガ、クル
オソロシイモノガ、チカヅイテイル……
ニゲロ、ニゲロ──……

 まるで、互いに増幅させたような恐怖が流れ込んでくる。肌が粟立つような感覚に、ジャードは慌てて、鳥たちから意識を逸らした。
 恐怖に駆られてか、本当に逃げ出したのか、飛び去っていく一群が空の豆粒になる頃、漸く馬たちの興奮も鎮められたようだ。
「何なんだ、一体。何か、最近、こういうことが多くないか?」
「そういや、いきなり、動物が騒ぎ出すようなことがあるなぁ」
 馬がもう少し落ち着くまで、留まっていたジャードの耳にも、人々の会話が届く。いや、馬というよりも自分がだ。鳥たちに引きずられそうになって、未だに動悸が治まらない。
 何かが近付いている。その何かに、鳥たちは怯えていた。

「ジャード、まだいたのか」
「え? えぇ。鉱石が散らばってしまって」
 馬が少し暴れた弾みで、荷台の荷が崩れたのだ。纏めて、譲られた屑鉱石の山が。
「そういや、そんな屑石、どうするんだ」
 碌に鉄なんて採れないだろう、と同じことを言われるが、
「確かに売り物にはなりませんけど、研究用には使えますよ」
「お前さん…、本ットに本当に熱心だなぁ」
 また抱え込まれそうになったので、飛び退って、避けた。
 だが、陽気さに触れたお陰で、動悸は鎮まっていた。


☆         ★         ☆         ★         ☆


 ガタガタガタ…
 決して、走りやすいとはいえない道を馬車で進む。振動も激しく、速度も余り上げられない。尤も、そう飛ばしたい気分でもなかった。
 思い返しても慄然《ゾッ》とする、あの感覚……。
 ジャードは馬の走るままに任せ、空を見上げた。夕焼けに染まる雲が流れるだけで、翼の気配はない。

 嘗て、ジャードの生家はデル城に於いて、伝達鳥を世話する役目を預かっていた。他の都市や各部族との火急の連絡を取るための伝達使に鳥が使われていたのだ。
 だが、次第に外との交流も途絶え、役目そのものが廃れてしまった。父の代にはデル城には伝達鳥としての鳥はおらず、籠や部屋の中で飼われているだけだった。そして、父も王の騎士に任じられていた。
 だからといって、完全には失われないものもあった。
 役目故か、力故か。ジャードの家系には鳥と意思の疎通を為し得る者が多く生まれたのだ。
 古《いにしえ》には鳥ばかりか、あらゆる生き物──動植物の全てと語り合えるほどの強い力の持ち主もいたと伝えられている。
 とはいえ、時代を追うごとに、力は弱まり、父には殆ど力はないに等しかった。精々、機嫌が察せられる程度だったらしい。
 ところが、ジャードは今の時代には珍しく比較的、強い力を具えていた。それこそ、人の言葉を話すよりも、鳥を纏わせ、遊ぶ方が早かったそうだ。
 幼い息子が鳥と意識を交わせることに気付いた父は、物心つく前から、重ねて言い聞かせた。

『役目もなく、人にない力とは忌まれるものだ。
必要とされる時まで、無闇に人前に曝さないようにするのだぞ』

 四歳で亡くした父の記憶は、殆どがこの力と結びついたものだ。その戒めは強く、このことだけは城にいた頃も、あの親友にも教えなかったし、今もまた、妻にも秘密にしたままだ。
 尤も、アンナには何れ、話さなければとは思っている。子供でも生まれれば、その子にも引き継がれる可能性があるからだ。

パタパタ…

 二羽の小鳥がじゃれ合うような飛び方をして、頭上を渡っていく。そこには緊張感や恐れなどは感じられない。
 ジャードは無意識に手綱を引き、馬を止めていた。
 彼らは何も感じていないのだろうか?
 先刻は鳥たちの強い恐怖に引きずられたが、今度は意識して、集中する。だが、鳥は呼びかけに応じず、そのまま何処かへと飛び去ってしまった。
 肩の力を抜くと、知らず、溜息が零れた。
「……使わない力は、錆びつくものだと言うがな」
 日々を過ごすのに精一杯で、忘れかけていた。だが、他に何も持たないジャードには、どんなものでも抱えたものが全てだ。
 父に言われたように、役に立つ日も来るかもしれないのなら、取り戻すべきだった。錆びた剣とて、根気良く研ぎ直せば、使えるようになるだろう。

 ヒヒン… 急かすように馬が嘶いたので、気を取り直し、手綱を当てた。
 馬車は動き出し、家路につく。

 途中、デル城の影が夕焼けの中に沈んでいた。相も変らぬ霧の中に聳える城の中は嘘のように明るい世界だった。あの中で暮らしていたことがあったなんて、それこそが夢のようにも思えてしまう時がある。
 だが、あれは現実だった。夢のような現実に、今も親友は浸っているのだろうか。それとも、少しは取り巻く『世界』を疑うことがあるのだろうか。
 ただただ、待ち続けるということは、とても苦しく、寂しくもあった。



 家に着いたのは日も暮れる寸前だった。春先とはいえ、夕方にもなると、まだまだ冷える。馬車の音を聞きつけ、アンナが出迎えに出てくる。
「お帰りなさい。遅かったわね」
「あぁ、一寸ね」
 色々重なり、予定より遅れたので、心配をかけたようだ。
 現在のデルは飢えた貧しい町なので、寧ろ、被害は少ないが、それでも、街道沿いには未だに盗賊も出没している。
 鉄鉱石は簡単に捌ける代物ではないので、狙われにくいとは思うが、
〈鍛冶屋が盗賊の背後につきでもしたら、話は別だが……〉
 今のところ、仲間内で、そういう被害に遭ったという話も聞いていない。それでも、できるだけ日中に移動するようにしている。

 馬車は明日まで借りることになっているので、荷を降ろすと、荷車を外し、馬は鍛冶場脇の馬小屋に繋ぐ。用意しておいた飼葉と水をたっぷりと与える。
「お疲れ」
 首筋を撫でると、ヒン、と応えるように嘶き、水を飲み始めた。
 その様子を暫く眺めていたが、もうジャードのことなど眼中にないようで、一心不乱でお食事中だった;;;
「ジャード」
 夕食の用意が出来たのだろう。アンナの呼びかけに「今行く」と答え、すっかり寛いでもいる馬の鬣を撫で、ジャードは家に戻った。


 食卓に着くと、普段より随分と豪勢な料理が並んでいた。
「どうしたんだい」
「うん、一寸ね」
 はにかんだ様子の妻を見返す。
 このところ、体調を崩していて、横になっていることも多かった──いや、少し目を離すと、直ぐに動き出してしまうのをジャードが無理やり、休ませていたのだが。今日も多分、人がいないのといいことに、あれやこれやとやっていたに違いない。
「アンナ、頼むから、具合の悪い時はちゃんと休んでくれ」
 取り返しのつかないことになってからでは遅いのだ。
「解かってるわ、ジャード。でもね、今日は特別なの。具合が悪かったのも別に病気じゃなかったのよ、私」
「は…、病気じゃないって?」
「あ、でも、気を付けなきゃいけないってことは同じだけどね」
「何? 謎掛けかい」
 苦笑しつつ尋ねると、マジマジと見返された上に、溜息までつかれた。さすがに頭の中に、はてなマークが飛び交う。
「ジャードって、色々気付いてくれるのに、こういうことは、やっぱり疎いのね」
「何だよ、それ」
「だからね、私、できたのよ」
「できたって──」
 今度ばかりは、何が、とまでは言わずに済んだ。
「え…って、本当に?」
 立ち上がった拍子に椅子が倒れたのにも構わず、食卓を回り込み、妻に駆け寄る。
「間違いないのか」
「えぇ。秋には私たち、お父さんとお母さんよ」
「アンナ!!」
「ちょ…、ジャード。苦しいわ」
「あ、ゴ、ゴメン」
 それでも、今はまだ目立たないアンナのお腹に手を当てる。
 ここに──いるのだ。新しい命が……。



 親になる。愛する人との子供が生まれる。それは勿論、素晴らしいし、幸せなことだ。
 だが、一方で、不安も付き纏う。
 この子が生まれる秋の頃には、この国はどうなっているのだろう。
 今も決して楽とはいえないが、アンナと二人、穏やかで幸せな毎日には違いなかった。
 だが、それがいつまでも続くはずがないことを──この国の民では恐らく、ジャードだけが知っていた。

『影の大王、狐の如く狡猾で、諦めることを知らない』

 嘗て、アディン王に力押しで敗れた『影の大王』は長き時間をかけ、デルトラ王家と民の信頼を壊し、切り離そうとしている。いや、民の声を聞く限り、それは殆ど、成功してしまっているといってもいい。
 となれば、『影の大王』がいつまでもデルトラ王国を放置しておくとも思えない。どんな形でかは判らないが、本格的な侵攻が明日にでも始まるかもしれないのだ。
 そんな世界に生まれてくることは、果たして、幸せなことなのだろうか?


 何もかもが寝静まった真夜中、アンナも気持ちが浮き立っていた分、疲れたのだろう。そっとベッドを離れたジャードに、気付くことなく眠っていた。
 夢の中で、我が子を抱いているのだろうか。
 ジャードは一人、家を出た。真暗闇だが、通り慣れた木立の間を抜け、闇に埋もれたデル城を眺めていた。

 こんなに近くにいるのに、どうして、届かないのだろう。
 いつかは解かってくれるはずだというアンナの励ましに縋っても、待てど暮らせど、エンドンからの合図はない。
 後、どれだけ待てばいいのか。待ったとして、合図があったとして、果たして、この国のために、自分に何ができるのだろうか?
 不安は尽きない。明るい未来を、生まれてくる子供にはやりたいと願っても、余りにも見通しが利かなくて──……。

……ナニカガ、クル
オソロシイモノガ、チカヅイテイル……
ニゲロ、ニゲロ──……

 だが、翼を持たぬ人が飛んで、逃げることなど叶わないのだ。
 諦めてなるものか。一度は逃げたが、それはエンドンをいつか助けるためだ。この国のためだ。
 ジャードは影のような城を睨み据えた。ともすれば、怖気づきかねない心を奮い立たせ、まだ幾らか寒い風の中、立ち続けていた。

《了》



 『サイト開設七周年記念作』はめでたくも『デルトラクエスト』と相成りました☆
 例によって、オリ設定バリバリです。ジャードの生家が云々は完全に捏造。ただ、娘のジャスミンのあのスンバらしい能力の理由付け他に結び付けたという感じです。伝達使としての鳥も、原作では後のシリーズに復活登場し、結構、重要な役どころだったりしますからね。
 記憶喪失なジャード=ジョーカーには勿論、そんな能力ありません。忘れたから;;; ただし、オルの正体を見破れるとか、妙に勘が鋭い辺りなんかは関係がないでもないのかも。
 オル見破り方についても、原作だと『直感が発達していて』という先天的能力だったのに、アニメでは『見破る技を身に付けた』という後天的技術になってたなぁ。どんな技だよ、と突っ込みたかった^^;
 タイトル『SYMPTOM』『兆し』の意。それもどちらかというと、凶兆★ 動物たちの鋭い知覚力は確実に『その日』が迫っているのを感じ取っているのだ! という感じです。

2008.10.06.

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