TRANSITION

「エンドン」
 聞き慣れた呼び声に振り向けば、そこにいたのは予想通りの唯一人の親友。
「ジャード。どうしたんだい? 待ってたんだよ」
「そう…。それは悪かったね」
 僕は不思議に思った。何故か、彼は暗がりの中にいるから、顔もよく見えない。
「ジャード。どうして、そんな処にいるんだ。こっちに……明るい処に出てきてくれよ」
「……今、行くよ」
 ゆっくりと、ジャードが出てきて──僕は心底、魂消《たまげ》てしまった。
 ジャードの顔が…! 明かりの下なのに、どうしてか、見えないままで!?
「どうしたんだ、エンドン。そんな顔をして」
「顔って、君は…、君の顔が──」
「僕の顔が判らないのか? 酷いな。親友なのに」
 ククッとジャードが可笑しそうに笑った。その瞬間、背筋に寒気が走った。
 何だか、変だ。ジャードはこんな笑い方はしない。もっと明朗で快活さに溢れた笑い声の持ち主のはずだ。
「君は、本当にジャードなのか?」
 とうとう尋ねてしまった。

 すると、僅かにジャードも黙り込み、背を向けた。そして、
「ジャードさ。でも、君が知っているジャードじゃないかもしれないね」
 言いつつ、振り返った時──そこには顔があった! 笑ってなどいない。見たこともないような恐ろしい形相で、僕を見据えている。思わず、一歩二歩と後退ってしまう。
「どうしたんだい、エンドン」
 密やかに、囁くような声は酷く優しい。なのに、こんなにも震えがくるのは何故!?
「どうしたって──。ジャード、君こそ」
「あぁ…。やっと決心がついたんだよ」
「決心? 何の……」
「決まっているだろう」
 懐に忍び込ませた手が何かを引き出す。ギラリと鋭い輝きが目を灼いた。
「愚かな王を、抹殺するのさ」
 そして、ナイフが振り上げられた。



「────!?」
 跳ね起きたエンドンは心も呼吸も千々に乱れ、激しく咳き込んだ。
 まともに働かない頭で、何とか自分の状態を確かめる。
 ここはデル城の自分の寝室だ。寝汗をビッシリ掻いている。
 今のは夢──ただの夢だ。けれど、恐ろしい悪夢だった。
 エンドンは再び寝台に突っ伏してしまった。枕に顔を押し付けるが、目を閉じられない。瞼の裏に焼きついた、あの光景が甦ってしまいそうで……。
 その時だった。
「エンドン様…。お加減がお悪いのですか」
 傍らから、控え目な細い声がかけられた。
 疲れ果て、目だけを動かし、見出したのはまだ幼さの残る可憐な少女。
「……シャーン」
 つい最近、妻として娶った娘だ。初代アディン王以来の掟として、王妃はトーラ族出身の姫と定められている。シャーンもまた、トーラ族の出自だった。
 当然、閨《ねや》を共にしてはいるが、未だ本当の夫婦にはなっていない。勿論、世継ぎを設けることは王の重大な責務の一つであることは重々、承知しているが、エンドンもシャーンもまだ、若いというよりは幼かったのだ。
 況してや、毎日毎夜、悪夢に悩まされているのでは正直、それどころでもなかった。

「とても、お苦しそうでしたが」
「そうか…。いや、大事無い。済まない。貴方も起こしてしまったか」
「私《ワタクシ》は大丈夫ですわ」
 微笑む少女は十分に聡く、勘も良かった。魔力にも長けた者を多く輩出するトーラ族は精神的にも強靭な者が多い。
 悪夢に悩まされ、日々、心を衰弱させるエンドンをシャーンが支えるようになっていた。 
 心地好さを覚えながら、それでも、悪夢の内容だけは彼女にも話せずにいたが……。


 シャーンがデルに来る前のことだ。唯一の親友が自分を裏切り、殺そうと目論み、失敗すると、城を出奔した。あれ以来、彼の消息は知れない。
 暫くは城内でも、その噂で持ちきりだったが、話題にも上らなくなるのも、あっという間だった。まるで、彼など最初から、いなかったかのように、忘れるものすらないかのようだ。 
 本当のところはどうなのか。彼はどうなったのか。エンドンは誰もに確かめることもできず、今日まで……。
 そのためだろうか、いつしか、彼は夢に現れるようになった。なのに、顔も思い出せなくなってしまった嘗ての親友はナイフを振り上げる時だけ、鬼の如き形相で迫ってくる。
 ……本当に、あんな顔をしていただろうか? それさえ、よく分からない。本当に、理解らなくなってしまった!

「……シャーン」
「はい」
「私は…、何か言っていたか?」
「────いいえ」
 僅かな沈黙の間は何を意味するのだろう?
 だが、それを問い質すことは、どうしても、エンドンにはできなかった。



「それはこちらに。あぁ、もっと大事に扱って頂戴」
 女官たちにテキパキと指示を与えるのは女官頭のミン。エンドンが幼い頃から、世話役を務めていた女性だ。既にエンドンが即位してから数年を経て、さすがにその役目は解かれている。
「ミン」
「? ──これは王妃様。わざわざ、お出ましになられるとは。何か御用でしょうか」
「一寸、お尋ねしたいことがあるのですが」
「……私に、でございますか」
 ミンが不思議そうな顔をしたのも当然だろうか。世話役だったのはシャーンが嫁いでくる前のこと。普段は『余り表に出ないように』との掟もあり、王妃が姿を見せるのは式典の時くらいだったのだ。
 逆にいえば、余程のことがなければ、こうして、出てくることはないといえるだろう。
「王妃様。あの…、エンドン様に何か?」
 手は離れても、大切な御子だ。今一人の子と共に、目一杯、手を焼かされながらも、慈しんできた。その今一人の子は、もうこの城にはいないのだけれど──……。
 エンドンが王になられた今、幼き頃の世話役とはいえ、軽々しく近寄ることも、姿を見かけたからといって、声をかけることも望めなくなってしまった。
 それでも、いつも気にかけてはいた。最近、遠目にも少し窶れているように見えることも心配だった。
「御心配なく。エンドン様は大丈夫ですわ」
「それでは、一体……」
 余計、不安そうに顔を曇らせるミンに、シャーンは安心させるような笑顔を向けた。


☆         ★          ☆         ★         ☆


 その夜…、床に就いたものの、毎晩、碌に眠っていないエンドンは浅い眠りに落ちても、そこに待っていたのはやはり、おぞましき悪意の世界だった。もはや、抜け出すことも叶わない。

『ジャード…。それほど、私を恨んでいるのか』

 当然だろうか。親友を信じず、城から追いやった。
 いや…、だが、それは彼が裏切り、私を殺そうとしたからだ!
 顔の見えない嘗ての親友は毎夜毎夜、幾度となく、ナイフを振り上げてくるではないか。

『愚かな王など、存在するべきではないんだよ』

 その痛みは、夢の中では感じるはずのない体の痛みか。それとも、その度に傷だらけになっていく心の痛みなのだろうか。
「──ン様、エンドン様」
「……っ!」
 体を揺さぶられ、跳ね起きる前に呼び覚まされた。目の前には心配そうな妻の顔が。
「シャーン?」
「申し訳ありません。酷く魘《うな》されておいででしたので」
「いや……」
 当然だろうか。あの夢……余りにも惨く、余りにも辛い──余裕など、疾うに失せているエンドンがシャーンの変化に気付くこともなかった。

 ただただ、自らの思いに埋没していくエンドンを黙って、見つめているシャーン。彼女もまた、新たにした思いを抱えていたのだ。疲れきったこの人を、少しでも安らげるようにしてあげたい、と。
「エンドン様、また夢を──」
「……え?」
 驚かれるのも無理はない。今まで、シャーンは深入りを避けてきたのだから。ただ、これまでとて、夫を案じていないわけでもなかった。夢に苦しむその姿を、傍らで見続けてきたのだから。
「どのような夢か、お話下さいませんか」
「いや、夢など──覚えていない」
「そんなはずはありません。毎晩のように、繰り返し、見ておられるのに」
 僅かに困惑を浮かべるエンドンだが、二進も三進もいかない現状を無理にでも変えるだろう、契機になるかもしれない……とまでは、さすがに思い至るほどの余裕はない。
「──シャーン、一体、どうしたんだ」
「ジャードの、夢なのでしょう」
「!?」
 息を詰めたのは図星だったからだろう。それ以外に、どんな解があるというのか。
 案の定、その後にはかなり取り乱してしまったのも、解の正しさを示していよう。
「な、何のことか。ジャードなど」
「いつも、呼んでおられます。その名を」
 その告白に、エンドンが絶句する。今まで、決して触れることのなかった禁忌の如き名を口にしたシャーンの真意を測りかねているのだろうが、何より『やはり』という慨嘆の声が微かに漏れた。
「御親友でらしたのでしょう」
「誰に聞いた。いや、ミンだな。彼女しかおるまい」
「私がどうしてもと、話して貰ったのです。お責めにならないで下さい。ですが、エンドン様。ジャードという名は以前より時折、耳にしておりました」

『ジャードがいれば──』
 ヒソヒソと、憚るように語られる名──表に出ることの少ないシャーンの耳にすら、届いていた。
 シャーンに聞かれたかもしれない、と思った者たちは慌てて、離れていくのが常だった。 
 それでも、時を経れば、ジャードが何者か、それがエンドンにとって、特別な者であることもいつしか知った。
 更には、夫となった人の口から、毎夜の如く漏れるに至った事情も断片的ながら、想像できた。
 そうして、この日、シャーンはミンを訪ねたのだ。エンドンとその親友の世話役だった彼女なら、より詳しいことを知っているに違いないと思い。

「やんちゃが過ぎるところはありましたけど、ジャードはエンドン様とは兄弟同然で──エンドン様をとても大事にしていたんです。そんなあの子がエンドン様を……私にはとても考えられません。世話役だった者の贔屓目と言われるかもしれませんが、そんなこと、絶対にあるはずがないんです。きっと、他に何か──私たちの知らない事情《こと》があるに違いないんです」
 ミンは切々と訴えた。
「ジャードがそんなことをするなんて、信じられない」
 皆が口を揃えて、そう言う。城で働く中で、古い者はジャードをよく知っている。皆、そう思っていると。
 勿論、全てを鵜呑みにするのは危険かもしれない。皆が知らない姿をジャードは持っていたのかもしれない。
 だが、エンドンが夢で苦しむのは『親友が自分を殺そうとした』という『事実』とやらを受け入れられずにいるからに違いない。
 ならば、エンドンが信じるジャードの姿を今一度、見据えて貰いたかったのだ。そうでなければ、乗り越えることもできないだろう。
 何より、これ以上、夢に苦しめられる姿など、シャーンも見たくなかったのだ。

 しかし、親友の名を妻に持ち出されたエンドンは更に沈み込んだ。
「皆が…、ジャードのことを」
 彼の前では絶対に、ヒソヒソ話ですら持ち出したりしない。多分に主席顧問官が控えているためもあるのだろうが、皆、決してジャードを忘れたわけではなかったのだ。
「信じられない──私だって、そう思いたい。だが、ならば何故、ジャードは逃げたのだ。釈明の一つもせず、城から逃げ出したのだ」
 疚しさ故と、主席顧問官プランディンは断じた。
 確かに、その指摘には説得力があった。
 どうにか、城から逃げおせたらしいジャードを探しに、城外まで兵が出されたが、発見したかどうかまでは知らされなかった。エンドンもまた、怖くて、誰に質すこともできなかったのだ。
 もし、ジャードが見つかり、捕まっていれば──新王の暗殺未遂の罪で、極刑に処さねばなるまい。とすれば、その命もエンドンが出さねばならないのかもしれない。
 或いはプランディンが独断で為す、いや、既に為したかもしれない、と考えると正直、震えがくる。ジャードがもう生きていないかもしれない、と!?
 そうでなかったとしても、捕まっていれば? 密かにこの城に連れ戻され、酷い拷問を受け、死ぬまで責められ続けたかもしれない。虫の息で放置され、手当てまでして、少し体力が戻ったところで、また拷問する。そんな恐ろしいことが繰り返されているのかもしれない。
 恐ろしくも惨い想像は留まるところを知らなかった。
 もしかしたら、ジャードの罪の在り処は別にして、何も知らず、知ろうともせずに、そして、何もしないままの自らの罪の意識が、あの悪夢を見せ付けているようにすら思えた。

 凝然とエンドンを見つめていたシャーンが静かに口を開く。
「エンドン様」
「……何か」
「もう一度、よくお考え下さい。目を逸らさずに、よく思い出して下さい。そもそも、ジャードは本当に貴方様を害そうとしたのですか」
「本当、に?」
「はい。その目で確かに御覧になられたのですか。彼がナイフを手にした様を」
 エンドンが記憶を探るように表情を暗くした。本当は思い出したくもないのだろうが。

 白刃を振り上げるジャード、突きつけてくるジャード──しかし、それは……。全て夢の光景だ。あの時、目にしたものは何だった?
 思い出そうとすればするほど、体が震え出す。心が拒否しているようで──ベールに閉ざされた記憶は明瞭ではない。
「エンドン様、しっかりなさって下さい。これは重要なことです。ジャードは本当に、ナイフを握っていたのですか。貴方様に向かってきたのですか」
 必死にベールを剥ぎ取ろうとする。その向こうに見えたのは──!!

「……いや、見て、いない?」
 あの時、エンドンが見たのは庇うように覆い被さってきたプランディンの衣だけだ。細くとも、少年のエンドンよりは大きな体に隠され、ジャードの姿は全く見えなかった!?
 エンドンが目にしたジャードの最後の姿は逃げていく彼の後姿だけ──手に何か持っていたかなど、やはり記憶のどこを探しても、出てこない。

「では、何故、そう信じられたのですか」
「それは、プランディンが……」

『陛下! 奴はナイフを隠し持っておりますぞっ』
 そう叫び、庇うようにジャードとの間に割り込んだのだ。

「やはり、プランディンなのですね」
「どういうことだ。シャーン、何が言いたい」
「プランディンの謀《はかりごと》だったのではないかと」
 エンドンが、本当に絶句した。心底、驚いたのだろう。支えてくれる主席顧問官をエンドンは信頼しているのだ。
「何を言い出すんだ、シャーン。馬鹿なことを」
「そうでしょうか。辻褄は色々と合うと思うのですが」
「辻褄などと……。大体、何故、プランディンがそんな真似をしなくてはならないのだ」
「ジャードが邪魔だったのでしょう」
「そんな…。確かに、ジャードは奔放すぎるとか、父上にも言上していたことはあったが」
 だからといって、罪をでっち上げてまで、追い出そうとするほど、ジャードを邪魔者と思っていたとは考えにくい。高が、一人の子供を……。
「ですが、子供も時を経れば、大人になります。貴方様と共に……何れ、ジャードがこの城で力を持つことを、恐れたとしても不思議なことではございません」
「それは喜ぶべきことのはずだ! 共に私を支えてくれればいい。そうするはずではないのかっ」
「エンドン様……」
 訳の解からない怒りに囚われたのだろう。混乱が拍車をかけたとも言える。珍しく叫んだエンドンは、だが、直ぐに脱力したかに項垂れた。
「ジャードではなく、プランディンが私を裏切っていると言うのか? それとも、実は二人とも──」
「ですから、よく思い出して下さい。私は…、直接にはジャードを知りません。ミンたちの話は聞きましたが、それだけで、彼を知ったとも思いません。それでも、貴方様だけが御存知のジャードもいるはずです。自分で見たものだけを信じるのは危険ですが、そこから始まるものもあるはずです。況してや、見てもいないものを鵜呑みにするなどは──……」
 シャーンは口を噤んだ。既に考え込むような表情のエンドンが何かと真向かい始めているのに気付いたからだ。
 あれ以来、頑なに開けようとしなかった幾つもの記憶の引き出しを今、解き放とうとしていた。



 国王崩御──それは国にとっては最重要事だ。直ぐ様、立てられる新たな王によって、亡き先王の葬儀は執り行われる。
 つまり、エンドンが即、王の座に就かねばならないのだ。何かを考えている余裕もなく、殆ど流されるままに──……。
 それでも──即位を明日に控え、夜、独りになれば、自然に湧き上がる思いがある。

 国王崩御──エンドンにとっては『父が亡くなった』ということに他ならない。しかも、その一週間前には同じ熱病で、母も失っていた。
 唯一の王子たるエンドンにも感染《うつ》ることを恐れ、二人から隔離され、最期を看取ることはおろか、亡骸との対面さえ、未だ許されてはいないのだ。
「父上、母上……」
 こうして、思い出しても、ただ嘆き悲しむより、恐れが大きい。デルトラ王家に遺されたのは自分だけ。嫌でも、自分が負うしかないのだ。この国を……。
 王子として教育を受け、心構えも作ってはきたが、それでも、いざ直面するとなれば、気持ちも挫けそうになる。
 だが、王たる者が不安や懼れを露にするわけにはいかない。虚勢であっても、胸を張って、立たねばならないのだ。
 エンドンも気丈に振舞ってはいたが、それだけに疲労度も普段の比ではなかった。何より、エンドンはまだ若い。いや、幼かったのだ。
 両親を失った悲しみと、肩にかかる責任への恐れと、疲れからくる不安と──暗く憂鬱な気分に取り込まれてしまっていた。
 だが、

コツン…

 窓に何か当たる音がした。ただ、直ぐには気付かず、座り込んだままでいると、また音が──それもさっきより、幾らか大きな音がした。
「何?」
 不審気に窓に寄ると、いきなり、何かが目の前のバルコニーに飛び降りてきた。
「な…っ、ジャード!?」
「やぁ、エンドン」
 ニッコリと笑いかけてくれる唯一の親友。だが、今は即位前の潔斎で、会うことは禁じられていた。だから、外から木を登り、壁を伝い、忍び込んできたのだろう。
「危ないじゃないか。幾ら君でも、こんな夜更けに──万一、手を滑らしでもしたら、どうするんだ」
「そんなドジを、僕が踏むと思うか?」
 確かに、ジャードの身の軽さは自分とは比べ物にならないほどだ。
「それにしても、どうしたんだ。こんな時間にわざわざ」
「……君のことが心配だから、様子を見に来たんじゃないか」
 エンドンは目を瞬かせ、親友を見つめた。
 細いけれど、しなやかな手が頬に伸ばされてくる。
「ちゃんと、眠ってるかい」
 ただ「大丈夫か?」などと問われれば、相手がジャードでも虚勢を張るしかない。けれど、確認するかのような、その質問には口籠もってしまった。
 本当に、心から案じてくれているのが解かる。
「…………余り、眠れていないんだ」
「そっか。仕方ないよな。忙しすぎるし、それに、国王陛下や王妃様のこともあったし」
 両親のことを聞くと、顔を上げられなくなってしまう。泣いてしまいそうで……。
 でも、この先、先王のことを思い出して、一々泣いてなんかいられないのだ。だから!

 ところが、伊達に一緒にはいなかった親友は、そんな心の内も完全に見透かしてくれていた。
「僕の前でまで、我慢しなくてもいいよ、エンドン。泣きたいなら、泣けばいい」
「そんなこと──」
 弾かれるように顔を上げてしまったが、そこには優しい親友の顔があった。
「君の気持ちは僕にも解かるよ。母上のことは殆ど覚えていないけど、父上が死んだ時は、とても悲しかった。まだ、四歳だったけど、もういなくなってしまったということくらいは解かったから……」
「ジャード」
 ハッとして、見返す。
 父王オルトンの騎士だったジャードの父は、襲撃者と戦い、命を落としたのだ。 デルトラの王を狙った不届き者は或いは『影の大王』が差し向けた刺客ではないかとの噂もあったが、刺客も死んだため、真相は明らかになっていない。
 既に母親も亡くしていたジャードは父の死で、独りになってしまった。さすがに四歳の幼子に家名を継がせるわけにもいかず、縁者が継いだためもあり、ジャードは家を出て、王家の預かりとなった。同時にエンドン王子の遊び相手にも選ばれ、今日に至る。

「君は王になる。だから、王らしくあろうとする心構えは立派だよ。でも、エンドン。君はエンドンだよ。優しくて、ちょっと気弱で、泣き虫なくせに、結構、頑固なところもある僕の大切な親友だ」
「…………随分な、言い方じゃないか」
 エンドンは少しだけ苦笑したが、また俯いてしまう。顔が歪んでいくのを見られたくなかった。
「でも、当たってるだろう? 別に悪いことじゃないし。だから、エンドン」
 手をしっかりと握られる。
「僕の前では、ただのエンドンでいてもいいんだよ」
「──ただの?」
「そう。無理しないで、幾らでも泣いていいんだ」
 胸をつく言葉──誰もが「王らしく」「しっかり」と、言葉は丁寧でも若い彼を頼りなげに見て、励ますつもりで追い詰めてきた。

「大体、直ぐに王らしくなんて、無理に決まってるよ。そんなに言うなら、自分でやってみろってんだ。少しずつ、学んでいけばいいんだよ。王としてね」
「そうかな」
「そうだよ。僕も、手伝うからさ。そりゃ、今すぐってわけにはいかないけど、何年かしたら、必ず」
 王とは立場だ。年齢は関係ない。だが、他の役職にはさすがに少年のジャードが就けるはずもない。
「でも、それまでだって、変わらず友だちとして、傍にいることはできるよ」
 ジャードとて、オルトン王の計らいで、エンドンと一緒《とも》に、お世継ぎ教育を学んできたのだ。それは多分、長じて、ジャードがエンドンの補佐をするようにとの考えだったのだろう。
 それでも、この先暫くは一緒にいることのできる時間は更に減るだろう。だとしても、公務の後、この親友が笑顔で迎えてくれるなら、きっと──!!
 肩を震わせ、嗚咽が始まる。
「エンドン?」
 もう我慢ができなかった。ただのエンドンは、唯一の親友の肩口に顔を埋め、溢れる涙を留めることなく、泣き出した。両親の死後、初めて、声を上げて泣いた。
「仕様がないな。やっぱり、エンドンは泣き虫だな」
 揶揄うような声は、けれど、とても優しかった。小さい子供をあやすように、何度も髪を撫でてくれた。


★         ☆         ★          ☆         ★   


「……何故」
「エンドン様?」
 暫し、過去を彷徨っていたらしいエンドンの瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちるのに、シャーンは息を呑む。
「何故、忘れていたのだ。ジャードは私を、あれほど、案じてくれていたのに」

 あの夜、寝付くまで、ジャードは傍にいてくれた。前から、兄のように振舞うところはあったが、寧ろ、母親の如くだった。
 そして、両親の死後、初めてゆっくりと眠ることができた。
 翌朝、ミンの声に起こされると、ジャードの姿はなかった。熟睡しているのを確かめて、戻ったのだろう。
 そして、即位式──勿論、緊張はあったが、お陰で寝不足で倒れるような真似だけはしなかった。
 一世一代の式の場には正装した親友の姿もあった。直ぐ傍らに立つことはできなくても、見守ってくれていたのだ。
 それだけで、励まされた。

 ……ところが、式の後、葬儀が執り行われるまでのチャペルでの先王の亡骸との対面の場に現れたジャードは、エンドンと同じように眠っていないらしく、先夜とは打って変わった焦った様子で、思いかけないことを言い出したのだ。

「デルトラのベルトをつけて、城の外に出るんだ」
「影の大王はまだ、この国を狙っている」
「代が替わる度に、デルトラの王は弱くなっているんだ」
「君がそれを止めるんだ!」

 だが、王家の者が城外に出るのは掟に反することだ。突然の御法度破りの誘いに、混乱している間に、主席顧問官が現れ──そして、ジャードは逃亡した。


「ジャード…、私が碌に考えもせずに、プランディンの言葉を鵜呑みにしたから──」
 衛兵に追われ、どうにか城からは抜け出したが、その消息すら不明だ。
「少なくとも、ミンの話ではその後、捕らえられたということもないようですわ」
 ミンの息子は今、衛兵隊に属しているという。無論、当時はその息子も衛兵ではなかったが、古株の衛兵から聞き出したので、確からしい。海岸で、打ち上げられた衣服が発見されただけだと。
「海だと? まさか、ジャードは海に落ちて!?」
 酷く取り乱したエンドンをシャーンは宥める。
「ミンは信じておりませんでした。ジャードはとても、運動能力が高かったそうですね」
「それは……だが、泳ぎだけは大した経験がないんだ。城の水場と海では勝手が違いすぎるはずだ。それに、服のまま泳ぐのは、とても難しいと聞いたことがある。やはり!」
「悪い方にばかり考えないで下さい。これを……」
 シャーンは懐から取り出したものをエンドンに差し出した。何やら、古びた紙切れだ。
「何だね」
「御覧になって下さい」
 恐る恐る開き、息を詰める。慌てて走り書きしたような文字が連なっているが、これは間違いなくジャードの筆跡だった。いや、筆跡云々を語る必要はない。『これ』を使うのはジャードと自分の二人だけ、だったから。

「子供の頃の暗号遊びだそうですね。ミンが言っていました」
「ミンが──何だ…、バレていたのか。……それもそうだな。こんなもの…、今見ると、バレバレの幼稚な遊びだ」
 口の中で呟き、苦笑するが、その目は紙切れに釘付けになっている。

『コズエニヤヲハナテ』

 解読すれば、そう読めた。
「何故、これをミンが?」
「城門前の木の洞で見付けたそうです。ミンが息子に調べさせたと」
 ジャードが如何にして、城からの脱出に成功したか? 当時、城外に出る荷馬車が城門を抜けていったことは判明《わか》っている。その木の真下を通ったことも──恐らくは木を伝い、荷馬車の上に降りたジャードは隙を見て、中に潜り込んだのだろうと考えられている。以来、荷馬車の改めも更に徹底されるようになったと。
 木への調べは当然、入ったが、小柄な者でも大人である衛兵たちは細かいところまで調べ切れなかったようだ。
 ミンは事態が落ち着いてから、息子に頼み、このメモを見付けたそうだ。だが、果たして、エンドンに渡して良いものかどうか迷い、今日まで手元に持ったままでいたと。
「そうか…。だが、これを残したからといって、海に落ちたのでは──」
「いいえ、エンドン様。ジャードは決して、諦めていなかったのです。貴方様が真実にお気付きになられる時を、決して!」
「シャーン?」
「そんなジャードが迂闊に海で溺れ死ぬなど、絶対にあり得ません。あってはならないのです」
 強い言葉を投げかけると、エンドンも改めて、親友の残したメモに目を落とした。
「梢とは、あの洞のある木のことですね。ジャードをお呼びになられては如何ですか」
 あの木の梢に、矢を放てば、きっとジャードは来てくれると。そして、話を!
 その想像に、体を震わせるエンドンが激しく首を振る。
「そんな──今更、どんな顔で会えと言うのだ。そんなことはできない」
「何を仰るのです。ジャードは待っているはずです。貴方様からの合図を」
「駄目だ、できない」
「エンドン様…。ジャードに、会いたくはないのですか」
 何度目かの絶句。心が揺れている。
 当然だ。会いたくないはずがない。それなのに!

「済まない、シャーン。もう少しだけ、時間をくれないか。今は…」
 消え入りそうな声が如実のエンドンの恐れを表している。
 本当に彼が生きているかも明らかではない今、合図を送っても、反応がなかった時、どう受け止めればいいのか? 親友の死を覚悟すべきなのか、それとも、さすがにデルを離れてしまったと考えるべきか?
 そう、唯一の親友が今も待ってくれているかもしれない期待と、それ以上の不安──唯一人の親友にさえ、もう見捨てられたかもしれないという不安に苛まれている。
 とはいえ、それを打ち破るのもまた、エンドン自身でしかない。こればかりは彼自身が乗り越えなければ!
 シャーンは無理強いはしなかった。まだ、時はある。そう言い聞かせ、彼の望むままに……。

 寝台に思い惑うエンドンを残し、バルコニーへと出る。夜風が彼女の長い艶やかな髪を撫でる。
 かなり夜も更けているが、見下ろせば、其処彼処に揺れる灯火が滲み、何やら幻想的ですらある。あの灯火の下に、民の日々の営みがある。そして、
「きっと…。あのデルの町のどこかで──」
 ジャードは待っているはず。そうでなければならないのだ。


 恐れを打ち消すのは、更なる恐れを齎すもの……。
 たとえ、どんな形であれ、恐る恐るであっても、足を踏み出す時は来る。

《了》



 今回はエンドンとシャーンの話となりました。ラストに、ジャードたちの現状を加えようかな、とも考えましたが、メインを掻っ攫われていきかねないので(爆)見送り^^; だって、余りにエンドンが…、ヘタレてもうて;;; それに引きかえ、シャーン様のお強いこと☆
 ジャードを名乗ってからのエンドンが確りしてきたのって、親友夫妻の犠牲的行為に報いるためとシャーン様のお陰としか言いようがないなぁ。『デルトラ』世界って、本当に女が強いっ。
 夢と回想ではジャードもきっちり登場しましたが、過去設定は殆ど独自設定です。確かなのは『父親が王の騎士(原語直訳だと『信頼する召使』…身も蓋もないぞ)で、王を守って死んだのは四歳の時』で、母親その他は不明。
 それにサラッと流されているけど、国王襲撃なんて謎な重大事件。王族は掟で決して、城外には出たことはないはず。となれば、城内で襲われたことになるし、警備も厳重だろう城に、どう忍び込み、どうやって、襲ったのか? とか、どこの手の者(影の王国──とは限らない?)とか、疑問も多い。
 大体、影の王国以外の他国も存在する可能性もあるし、交流もないとは言えない。また、七部族以外の部族もあるようだし、内紛めいた国内の争いもあったかも──などなど、考えれば考えるほど、色んな可能性が浮かんで、楽しい♪
 逃げたジャードを城外まで衛兵が探しにいく描写は原作由来ですが、つまり、彼らは城外のデルの町の惨憺たる有様を知っていることになります。けど、王まで情報は届かない。口止めではなく、記憶操作か? 或いは本当の『口止め』とか!?
 料理人や女官など、どうしたって、外から新人を招かなければやっていけないだろうけど、入ってくる時に町を見せないようにしているのかなぁ?
 さて、意外と謎な存在といえば、バルダの母親のミン。邦訳版では『乳母』になってるけど、いわゆる乳母は『実母の代わりに、赤子に乳を与えて、育てる』役目の女性で、当然、実子もいて、それが乳兄弟ともなる。
 ミンの実子はバルダだけど、年はエンドンより多分少し下。でも、乳兄弟に相当する兄や姉がいそうな気配もなし……。となると、やっぱり、乳母というよりは、ある程度成長してからの世話係といった感じかな、と。尤も、仮にも王子の世話係なら、それなりの身分があって、息子のバルダとも面識があって然るべきとも思うけど──その辺は拘るほどのこともないのかな、とか。ま、物語上の都合とゆーか。(バルダがエンドンの顔知ってたら、物語の大前提が崩れるからなぁ)
 何はともあれ、そう言う設定上の疑問を突いていくのが大好きだったりします^^

2008.07.16.

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