理 想


 警察署長の仕事の大半は書類の判子押しだ。来る日も来る日も、朝から晩まで、署長室の机に収まっている限りは押印し続ける。
 そうでなければ、幾多の物事が完結しないばかりか、署長の一日の仕事も終わらないからだ。無論、他にも仕事はある。外の様々な会合やらイベントやらに出向かねばならないことも多い。
 時間が削られるほどに、署にいる時はひたすら、押印、書類決裁に時間を費やす。何しろ、一日に七、八百ほどの決裁だ。就業時間八時間を丸々使えたとしても、一分一枚の決裁でも、終業までは間に合わない。
 裏技として、副署長の決済で済むものは代わりに任せ、減らしてはいるが、それでも、半分は残る。残業するか、何をやるにしても、押印しながら片づけるか──大森署署長・竜崎伸也は報告を聞く時も、自らが説明する時も、電話中ですら、押印の手を止めないのが常だった。……誰にでもできる芸当ではないが。
 この時もそうだった。始業から一時間ほどで、斉藤警務課長がやってきた。
「署長。宜しいですか」
 開けっ放しのドアをノックしながら、声をかけてくるのに、当然、顔も上げずに「何だ」と尋ねる。目は手元の書類に向けられている。
「会計検査院の方々がお見えになりました」
「会計……。あぁ、そうだったな。私が会う必要があるのか?」
 警務課長の用を察して、先回りして尋ねる。会計検査院の仕事は経理の調査だ。署長が立ち会う必要もないし、会うこともないと思ったのだ。
「署長が、我が署の責任者ですから」
 挨拶くらいは、ということか。
「了解った。通してくれ」
 この会話の合間も、印鑑を手放すことはなかった。


 程なくして、警務課長が二人の男女を連れてきた。会計検査院の調査官だろう。年かさの男の方が口を開いた。
「会計検査院第六局調査官、松平です。こちらは鳥居調査官」
「大森署署長の竜崎です」
 その時だけは席を立ったが、直ぐに座る。そして、印鑑を手に取った。
「──署長…!」
 斎藤警務課長の慌てて、咎めるような声を上げるが、無論、気にする竜崎ではない。既に視線は書類に向けられている。
「準備は滞りないか」
「は、はい。勿論です」
「では、宜しくお願いします。後は君に任せる」
 前者は調査官に、後者は警務課長に向けた言葉だ。勢い、言葉までが簡略化されていく。署員は慣れているが、調査官たちはさぞ、戸惑っているだろうと、警務課長がハラハラしていることなど、想像することもなかった。
「…………はい。どうぞ、こちらに」
 もう諦めているような口調だ。目を上げずとも、警務課長が困り果てているのは判断《わか》る。ただ、何故なのかは理解らなかった。だが、
「では、失礼します」
 全く揺らぎのない声が耳の奥に残った。おまけに、
「何か、凄いですね、副長。判子押しながらの御出迎えなんて、初めてですよね」
 女性調査官の声も恐ろしく、あっけらかんとしていた。

 三人が退出してから、数分もせぬ内に、貝沼副署長が現れた。
「署長、ちょっと、宜しいですか」
「何か?」
 相変わらずの様子に、軽く嘆息したようだ。既に、恒例の光景のはずなのに、溜息をつく理由も解らない。
「時間がないのは承知していますが……せめて、他官庁の方がお見えになられた時くらいはもう少し──」
「もう少し、何だ。話すこともないのに、時間を取るほど、無駄なこともないだろう」
「そうかもしれませんが、もう少し……。でないと、余計な軋轢を生むことにもなりかねないかと」
「互いに公務に就いているのに、軋轢も何もない。仮に私の態度が悪いとするなら、気を悪くして、厳しくすると? 愛想を振り向けば、手心を加えるとでも言うのかね? どんなことがあろうと、全力を尽くすことこそ、公務員のあるべき姿ではないのか」
「…………ごもっともです」
「そんな気を回すことはない。君も早く仕事に戻りたまえ」
 小さく嘆息を繰り返したのが少しだけ煩わしかった。
 その時、ふと思い出した。松平という調査官が少しも、苛立ったり、怒った様子を窺わせなかったことを。表情を見てたわけではないが──酷く冷静だったに違いない。そう思った。
 散々、経験済みだが、竜崎が仕事をしながら、話をすると、怒る人間がやたらと多い。外からの来訪者は大抵がそうだ。
 全く、気にした素振りすら見せなかったのは珍しい。あの調査官は『大抵の人間』ではないということだろうか。
 幾らか気になったが、押印を再開すると、会計検査院のことは忘れた。


☆          ★          ☆          ★          ☆


 決裁を続けている限り、キリがいいというところはないに等しい。時間を決めて、昼食を取るのが一番、合理的だった。
 昼食を済ませ、仕事を再開したところで、机の上に置いておいた携帯が振動した。呼び出しの相手は、本庁の刑事部長・伊丹俊太郎だった。
 今でこそ、立場が違うが、同期であり、しかも、小学生時代同級だった幼馴染みでもある。尤も、もっと根深い因縁もあるし、周囲が思っているような友人では決してない。
 その上、今は何かというと、竜崎に厄介事の相談を持ちかけてくるのだ。
 こちらも忙しいというのに──少しだけ、放っておこうかとも思ったが、個人的な関係はともかく、相手は警視庁の捜査畑を直接、統括する刑事部長だ。他の管内で、何か厄介な事件でも起きているのなら、話を聞くだけは聞いてやるのもいい。
「──何だ」
 相手が判っているので、前置きなしに聞くと、電話口の向こうで、伊丹が苦笑したようだ。
『変わりないようだな』
「用件は? 忙しいんだ」
『解ってるよ。ところで、今日、そっちに来てるんだろう。会計検査院が』
 何故、そんなことを知っているのか。いや、別にどうでもいいか。聞くほどのことはない。どうやら、早く切り上げた方がいいようだ。
 だが、伊丹は構わず、話している。
『本庁《うち》にも、ちょっと前に来たんだよ。エラい細かい上に厳しくてな。もう絞られた絞られた。さすがに俺も堪えたほどだ。お前んトコも気をつけろよ』
 相手が電話の向こうにいるとしても、眉を顰めた。
「今更、気をつけても仕方がない。やるべき対策《こと》は、それ以前にやっておくべきだ。問題を指摘されたのなら、真摯に受け止め、改善に力を尽くせばいいだけのことだ」
『……お前さんらしい言い方だな。どうせ、対策とやらも十分なんだろう』
「別に、会計検査院が来るから、講じていたわけじゃない。経理だけでなく、改めるべきところは改めるように努めてきただけだ」
『ハイハイ。で? 調査官は誰が来てるんだ』
「知って、どうする」
『どうってことはないが。もしかして、“鬼の松平”だったりしないかと思ってな』
「異名なんぞ知らんが、松平調査官であるのは確かだ。同名異人かもしれんが」
『第六局の副長だろう? 四十絡みの……間違いないな。覚悟しとけよ。追及が厳しいからな』
 そういえば、部下が副長と呼んでいたのを思い出したが、伊丹の言い様には呆れて、徒労感が募るばかりだ。刑事部長ともあろう者が、わざわざ、そんなことのために、電話してきたのか?
「人のことより、自分のことを見直すべきだな。要するに、検査報告の“打合せ”で、絞られたんだろう。刑事部の経費の使い方に問題ありだと。それは本庁《ホンブ》だけの問題ではないはずだぞ。いい機会だ。いつまでも、湯水の如く捜査費が使えるなどという幻想を持たぬように指導すべきだ」
『……う。解ってるって』
「用件がそれだけなら、もう切るぞ。忙しいんだ。全く、刑事部長が無駄話をしている暇があるのか。仕事はどうした」
『今は昼飯中だ』
「俺はもう仕事中だ。切るぞ」
『ちょっ…、待……』
 抗議の声は途切れた。構わず、通話を切ったからだ。
 通話中も判子押しは続けていたが、確実に、効率は落ちる。仏心を出して、電話に出た自分が腹立たしかった。



 今日は一度も外に出る用件がなく、仕事も捗った。
 南中した太陽が西へと傾きかけた頃、斎藤警務課長が会計検査院の調査が終わったことを報告に来た。
「何か、問題はあったのか」
「幾つかの指摘は受けましたが、大きな問題は特には」
「そうか。御苦労だった」
「ところで、署長。松平調査官が是非、お話をしたいと申し出られているのですが」
 竜崎は首を傾げた。今になって、朝の応対への文句を言いたいとも思えない。“打合せ”の報告なら、二度手間などせずに、その時に呼べば良かったはずだ。
 そこで、朝の反応が思い出された。大抵の人間が不愉快がる竜崎の応対に、まるで、動じなかった様子を。
 少し考え、通すように告げた。

 部屋の外で待っていたのか、調査官は直ぐに入ってきた。だが、部下の女性調査官の姿はない。
「鳥居調査官は?」
「次の検査先に向かわせました。予定が立て込んでいるものでして」
 つまり、彼らの方も決して、時間があり余っているわけではないということか。
 ともかく、部下でもない他の官庁の人間を立ちっ放しにはさすがにできない。ソファを勧め、話に入る。無論、押印と書類決裁は続けたままだったが、調査官はやはり、顔色一つ変えない。こちらも仕事に追われていると解っているのだろう。
「それで、お話とは。検査では、特に大きな問題はなかったとのことでしたが」
「はい。問題は殆ど、ありませんでした。無論、小さなミスなどは幾つか発見しましたが」
 人間のやることに完璧はない。それを承知の上で、慎重さを以て、物事に対処するように指示してはいる。構えや備えがあるとないとでは、実際に生じるミスの量も違うのだ。
 おかげで、大森署では経理に限らず、書類の不備などは激減の傾向にある。まぁ、最後に判を押す竜崎にしても、書類が多すぎて、全てに目を通すことはできないので、何重もの保険をかけるようにしただけのことだが。
 一人一人が少しでも留意すれば、ミスは発見しやすくなるのだ。
 しかし、松平調査官は何を言いたいのだろうか。本来、やるべきことを徹底させるようにしただけのことで、別段、珍しいことでもないと──竜崎は信じているのだが。

「ミスの少なさにも驚きましたが、何より、称賛に値するのは架空領収書の類が全くなかったことです。残念ながら、組織の規模が大きくなるほどに、増えるのが普通ですから。竜崎署長が徹底させていると聞きました」
「特別、称賛されるようなこととは思えませんが?」
 押印の手を止め、松平調査官の顔をマジマジと見返す。竜崎は本気で、「何故、称賛されるのか解らない」と思ったのだが、察したらしい調査官は苦笑した。
「それほど、横行しているのです。それも年々、巧妙になる。どんなに前回の検査で、厳しく追及しても、一度、検査が終われば、数年のブランクがあります。すると……」
「喉元過ぎれば、ということですか」
「……イタチごっこですね。しかし、ここにはなかった。そればかりか、署長が全面的に経費の使い方の見直しもさせたとか。かなりの経費節減を成功させたようですね」
「合理的なシステム運用を目指しているだけです。余分な贅肉を落とした方が人間も組織も動きやすい」
 しかし、それを嫌う者もいる。経費節減が可能となると、次の予算はそれで十分だろうと、削られかねないからだ。
 『何があるか分からない』のだからと、多くは予算を削られることを極端に嫌う。一度、削られれば、再び上げるのが難しい御時世だ。
 その結果、余剰金を裏金としてプールしておいたりする。その際に出るのが架空の領収書だ。
 それを警察の場合は『いざという時の捜査費』などに充てたりする。所轄が予算のために四苦八苦しているのは確かだし、その心理も竜崎とて、理解できないわけではない。
 何しろ、管轄内で大きな事件が起こり、本庁が出張る捜査本部でも設立されれば、予算が食い尽くされかねないのだ。
 だが、それなら、架空領収書など使わずに、予備費としてでも何でも、きちんと計上するべきではないか。
 そして、金食いの捜査本部だ。実のところ、本部を立てずとも対応できる事件も多いと竜崎は思っている。実際に、捜査本部を拒否し、情報収集の更なる活用により、事件解決という成果を出したこともあるほどだ。

「……しかし、他ではまだ、行われているのですか」
「数年前の二件の県警本部の裏金作りが内部告発によって、明るみに出て以来、大分、改められましたが……完全になくなったとは。年を追うごとに、戻っていっているように思えます」
 竜崎は顔を顰めた。その一件は無関係ではなかったからだ。警察庁で、マスコミ対策に追われたのは正しく竜崎自身だったのだ。
 あの時、警察庁は『事実として認めつつも、状況の改善を行うことに尽力する』方針を打ち出し、実際に行われたはずだ。それでも、完全には至らなかった。
 無論、何もかもが簡単に改まるなどと楽観はしていない。それでも、見直せるところは多々あるのに、何もせずに、楽な手段に走るなぞ、ただの怠慢でしかない。
 そんな信念に従い、竜崎は大森署への署長着任以来、様々な改善を行っていった。
 経費節減の最たるは人件費なのだが、それでも、大森署の犯罪検挙率は寧ろ、上がっている。金を注ぎ込めばいいというわけではないとの良い証左だろう。

「見事なほどです。せめて、警察だけでも、この大森署をモデルケースとしてくだされば、大きな効果を上げると思うのですが」
 思わぬ言葉だったが、松平調査官が話したかったのは、このことなのかと察せられた。
「評価いただき、恐縮ですが、私は一所轄の署長に過ぎませんので……」
 大森署以外のことに関しては何の決定権も持たない。嘗て、警察庁にいた頃はそうではなかったが──異動になって、久しく、もう忘れたと思ってたが、不意に失ったものの大きさを実感させられる時がある。

「直接の権限でなくとも、パイプは持っておられるのでありませんか?」
 竜崎はおや、と調査官を見返した。竜崎の身の上を知っているような口振りだ。
 家族の不祥事を理由に──実際にはもっと複雑な事情が絡んでいるが、警察庁長官官房の総務課長から所轄の署長へと降格人事を食らったことは警察内では結構、有名になっている。
 方面本部長や管理官よりも、年次や階級が上ときて、雲の上の刑事部長とは同期で、頼りにもされている署長なぞ、他にはいない。
 現場の人間には馬鹿にされやすい警察官僚《キャリア》だが、異動以来の改善案の多くは良い結果を大森署に齎し、更には実績も重ねている。
 今では署内だけでなく、近隣の所轄署からも当てにされたり、方面本部長の覚えもメデタいなどと、大森署署長・竜崎伸也の名を知らぬ者は警視庁内ではモグリとされているほどだ。
 しかし、他の官庁の人間にまで知られているとは思っていなかった。会計検査院の調査官はあちこちの官庁や企業、団体に出向くので、多種多様な情報を仕入れることも多いのかもしれない。

「私などが口出しをするより、会計検査院の方から改善案として、提出することはできないのですか」
「無論、できないわけではありません。ただ、御存知だと思いますが、我々には強制権がないのです」
 検査にしても、相手の認可が必要であるはずだった。有効な改善案を出しても、無視されれば、それまでだ。こんなに理屈の通らないこともないと思うが、そういうことは多いのだろう。
 調査官たちは日本中どころか世界までも飛び回っては国民の血税が少しでも、適切に使われるようにと指導しているのに、提案を無視されるのでは遣り切れないだろう。
 仕事だといわれれば、それまでだが、努力が報われないとするなら、悔しい思いに捕らわれもするに違いない。
 会計検査院の調査官もまた、竜崎と同じく国家公務員──国のため、ひいては国民のために尽くしているはずだ。
 無論、公僕なのだから、当然だというのは他人に言われるまでもなく、竜崎が信じ、実践しているところだが、それ故の姿勢を無に帰するような結果を突きつけられるのは堪らないと思う。
 少なくとも、竜崎にとって、国家公務員であり、警察官僚であり、今は警察署署長という職務は『単なる生活費を稼ぐための手段』ではないと──信念を以て、務めているのだ。

「──申し訳ない。些か愚痴のようになってしまいました」
 不意の松平調査官の言葉に顔を上げる。
 少しばかり、諦め口調にも思えたが──表情を見れば、決して、そうではないと判別《わか》る。仮に、今は無為に終わろうとも、次がある。そんな決意が垣間見えた。
 そういう努力を、竜崎も無駄にしたくはないと……。
「松平調査官」
「はい?」
「お話は、伝えられる者には伝えておきます。ただし、良い結果に繋がるとは確約できませんが……」
 伝えることしか、今の竜崎には許されていない。それでも、何もできないよりはマシなのかもしれない。
「有り難うございます」
 調査官は深々と頭を下げ、立ち上がった。

 互いに、時間を削っての話し合いは終わりということだ。竜崎は少しだけ、惜しいようにも感じている己に、意外さを覚えた。
「貴重なお時間を割いていただき、有り難うございました。では、私はこれで」
 竜崎も席を離れると、調査官の前に歩み出た。それが、とても珍しいことだとは──実は松平調査官も知っていた。ここの署長はとにかく、仕事第一の人物だと。
 朝の例の顔見せの後、検査に先立ち、警務課長から説明を受けていたのだ。多分に、言い訳に近かったのだろうが。
 そうとは知らぬ竜崎は手を差し出す──僅かに動きを止めたが、松平調査官はその手を握り返した。
 ただ、特に交わす言葉はなかった。


☆          ★          ☆          ★          ☆


 調査官が退出した直後、貝沼副署長が入室してくる。席に戻ろうとする竜崎に、如何にも驚いた顔を見せた。
「何だね」
「いえ。署長でも押印をせずに、お話をされることもあるのだな…、と」
「──時と場合と相手による」
 実は言われて、気付いた。いつの間にか、押印の手を止め、話していた。
 しかし、誰かさんの電話のせいで、効率が落ちるより、よほど、建設的な話ができたと思う。

「ところで、どんなお話をされたのですか」
「あぁ、大森署をモデルケースにできればいい、とか」
 当然、仕事を再開しながら、答える。
「モデルケースですか? それで、署長は何と」
「私には決定権など、ないだろう。もしかしたら、会計検査院の方から、何か本庁に提案されるかもしれんがな。一応、伊丹辺りには前もって、話しておくつもりだが」
「本当に改善案が通ると、宜しいですね。それにしても、あの“鬼の松平”がそこまで評価してくれるとは驚きです」
 シミジミと感心したように言うのに、竜崎は一度、目を上げた。
「伊丹もそんな呼び方をしていたが、有名なのか? 彼は」
「一部では。どこの署でも、会検さんの検査が入る時は“鬼の松平”だけは来ないでくれと、切実に祈っているでしょうな」
「何故だ。厳しいからか」
「はぁ。まぁ、そういうことです」
「……今回も、君たちは祈っていたわけか?」
 副署長の目が泳ぐ。竜崎は軽く嘆息した。
「やるべきことをきちんと果たしていれば、どんな相手が来ようと問題はないはずだぞ」
「解っております。ですから、今回は──確かに以前ほどは慌てずに済みました」
「当然のことだ。互いに公務なんだぞ。適当にお茶を濁して、済ませられるわけがない」
「ごもっともです」
「次長。他に用件は?」
「あ、これだけです」
 手にしていた書類を未決済に追加すると、一礼し、退室していった。
 特に見送るわけでもなく、仕事が増えたことにも無頓着な様子の竜崎だが、ふと苦笑が漏れた。
「……“鬼の松平”ね」
 それだけで、松平調査官の姿勢が分かるというものだ。何処に行っても、誰が相手でも、厳しく追及するのだろう。
 税金の費い道の調査という、世間的にも余り知られていない地道な職務だが、誇りを持っているに違いない。
 強い芯の通った調査官の鑑──国家公務員としても、竜崎に通ずる姿勢を持っているといえるだろうか。
 もう少し、話をしてみたかった気もする。
 次に大森署に会計検査院が来るのは三年以降は後になるだろう。その時、竜崎がまだ、ここの署長に留まっているかは判らない。
 また、松平調査官が来るとも限らない。
 だが、逆に異動先で、思いもかけず会う可能性もないとはいえない。正に一期一会という趣だが、そんな偶然を楽しみにするのも良いかもしれない。

 笑いを納めると、再び、押印作業に取りかかるべく、書類に目を通し始めた。



 後日、昼食時に伊丹からの電話があった。
『今、昼飯中か?』
 どうやら、見計らって、かけてきたようだ。それでも、「用件は」と淡々と尋ねる。
『例の会計検査院からの提案、届いたぞ』
「そうか。それで、どうするつもりなんだ」
『これから、検討…、だそうだ』
 悠長な話だ。それとも、やはり無視する気なのか。少しばかり、嘆息するのを電話口が拾ったようだ。
『そう不機嫌になるなよ。お前の署が経費節減を成功させたのは分かっているが、だからって、全ての署に適応させられるわけじゃないだろう』
「当たり前だ。俺は、その問題にきちんと真向かうつもりがあるのかどうかということを言っているんだ」
 都内の警察署だけでも、その規模は様々だ。大森署と同じようにはいかないことなど、最初から承知しているのだ。
 それでも、何処の署も見直すことはできるはずだ。
「松平調査官は自分のやるべき職務を果たしている。その成果を警察《われわれ》が無視すれば、会計検査院の仕事を無駄にすることに等しい。つまり、税金の無駄遣いだな」
『そんなことまで……』
 無理難題をふっかけられているような反応に、竜崎は眉を顰めた。
「考えるべきだろう。少なくとも、俺たちは国家公務員だ。予算を如何に有効に使うかを考えるのも国のためとなる仕事の内だ。無関係でもないのに、他官庁のことなど知らんと言うのも、無責任だな」
『いや…、だから、別に無視するわけじゃ……。一応、俺の権限内で、刑事部と所轄の刑事課には見直しをするように通達したから』
「刑事部だけでは効果は半減以下だろうな。まぁ、やらないよりはマシだろうが」
『そういう言い方はないだろう』
「事実だから、仕方がない。ただ、それをきっかけに、署全体の見直しを始めるようになれば、いいのだがな」
 そこまでは竜崎にも刑事部長の伊丹ですら、関与はできない。他の署の署長がどう考えるかにもよるだろう。

『それにしても、随分と肩入れするんだな。もしかして、気に入ったのか? “鬼の松平”を。やっぱり、変わり者は変わり者同士、気が合うのかね』
 少しばかり、窺うような口調なのが癇に障った。気に入るも入らないもないものだ。
 ただ、伊丹が竜崎を変わり者呼ばわりするのはいつものことだが、松平調査官までというのは少しだけ気になる。
 思考の間を埋めるように、伊丹が話を続ける。
『知ってるか。彼な、I種試験をトップで合格したんだと』
 さすがに、これには驚いた。優秀な人間だとは思われたが、突破すること自体が難関な国家公務員採用I種試験受験者数万人、合格者は千数百人ほどの中でもトップの座はたった一人のものだ。
 竜崎も──当時は上級甲種試験だったが──合格するために必死に勉強した。それこそ、小学校時代からだ。それでも、さすがにトップ合格というわけではなかったが。
 そんな栄冠を勝ち取った者が当時の大蔵省などの中央省庁ではなく、会計検査院という世間的にも知られていない官庁に入るとは確かに意外だ……。
 官庁にも、格差というものが存在する。竜崎たちが属する警察庁や警視庁といった『庁』よりも『省』の方が格上に見られるように。況してや、省庁ですらない官庁は更に下に見られる。
『……俺と同じで、私大卒なのかね。それでも、トップ合格者なら、中央からのお声がかかりそうなもんだがな』
 伊丹が何か言っているが、殆ど聞いていなかった。思い返すのは松平調査官の姿勢だ。“鬼の松平”などと称されるほどの仕事に対する真摯な有り様だ。
「恐らく…、自ら選んだのだろうな。会計検査院を。拘りでもあったのではないか」
『何で、解る? やっぱり、同類ってことか』
 同類などという一括りな言い方に、カチンときた。松平調査官と似ている、と言われるのは悪い気はしないが、これ以上、話をする気にもなれなかった。「お前には関係ない」と、冷淡なまでに、きっぱりと言い放つと、何故か伊丹は黙り込んでしまった。
「話は解った。後は様子を見るしかないわけだな。では、切るぞ」
『──おい、竜…!』
 構わず、通話を終えると、食事の残りを平らげにかかった。

 ──もしかして、気に入ったのか?

 ふざけた伊丹の台詞が突然、蘇り、箸を止めた。
 気になる人物だったのは間違いない。調査官としての姿勢も尊敬に値する。
 竜崎自身は当然だと思っている公務員の務めだが、他人が必ずしも、そう思っていないことも楽をしたがることも分かってはいる。
 納得しておらずとも、事実としては認識しているのだ。だから、自らの務めと真摯に取り組んでいるだけでも、記憶に残りそうな相手だった。
 だが、それを伊丹に指摘されるのは正直、面白くない。あいつに、俺の何が解るのかという気持ちが強いからだ。
 面白くないのは取りも直さず、図星だったから……ということなのかもしれない。
 そんな風に思うと、また不愉快になりそうだったので、考えるのを止めた。

 食事を済ませ、最後のコーヒーを口にした時だった。また、携帯が振動した。まさか、また伊丹じゃあるまいな、と顔を顰めつつ、確認すると、副署長からだった。即座に出る。
「どうした」
『緊急配備《キンパイ》がかかりました』
「直ぐに戻る」
 コーヒーは諦め、席を立つ。
 周囲でも同様に携帯が鳴り始めた。更には全署へと放送での通達があった。緊急配備となると、全署員が緊急時体勢に入る。これから、食事を取るはずだった署員が恨み言を吐きつつ、駆け出していく。
 別に竜崎がいるからではない。職務への取り組みようは確実に深くなっている。それこそが検挙率を上げる要因にもなっているのだ。
 高まりつつある緊張感を肌で感じつつ、竜崎は署長室へと急いだ。

《了》



 「いきなり何?」と思われそうですが、メインは『隠蔽捜査』です。でもっての『with プリンセストヨトミ』;;; 申告がなかった111111記念作つーことで☆
 『隠蔽捜査』は『ハンチョウ』こと『安積班シリーズ』作者・今野敏氏の作品──と、警察物好きには言うまでもない作品ですね。1巻が吉川英治文学賞受賞、2巻が山本周五郎賞&日本推理作家協会賞ダブル受賞の傑作と評判……読むまで、輝は知りませんでしたが。そんな作品と行き会った経緯なんぞは→日誌にでも^^
 とにかく、久々に買いに走った『隠蔽捜査』はとかく、ドラマでも小説でも厄介者扱いされがちな警察官僚《キャリア》が主人公というだけでも珍しい。その主人公・竜崎伸也がまた、変わっている^^; 本人はそうは思っていないけど、読者も「こんな官僚、いるのかねぇ」(つまり、いそうにないだろうなぁ)と思うような人物。登場直後は如何にも偏見の強そうな官僚じみた、いけ好かない奴っぽいのに、話が進むにつれ、芯の通った姿勢や言動が窺え、実に魅力的な人間に見えてくるから不思議。
 因みに、年齢は初登場時で46歳……;;; 『プリトヨ』の松平さんでもギリ30代だったのに、一気に40代半ばか!? お気に年齢がどんどん、上がって……高じて、一本書いてしまった次第。しかも、『プリトヨ』とのコラボで。
 『with SP』でも会検が警視庁に検査に入ってる最中ですが、共通の世界ではありません。あくまで、コラボ相手は『プリトヨ』だけ。『with SP』の警視庁には伊丹さんはいません。
 とにかく、公務員は「国と国民のために尽くす公僕である」と本気で信じて、実践している、ある意味、型破りキャリアな竜崎さんですが、「人にどう思われようと、原理原則を第一として、行動し、本音も建前も一緒」な辺りが、「検査に当たっては自分の評判など気にせず、職務に忠実に、厳しく相手を追及する」松平さんと公務員としての姿勢がちょっと、似てるかな…と思ってしまったもので。それで、共演させてみたくなったと。署長が他人に興味を持つかな? という基本的な疑問はありますけどね。
 とりあえず、文庫化済みの二巻まで読んだとこで書き始め、単行本はチマチマ立ち読み^^;してたら、短編集『初陣』で、裏金問題ネタが出てきたもんで、慌てて、それに併せて、手直ししたり……。結局、最新刊まで立ち読みで読破★ 他にも細々と修正しつつ、書き上げました。

 さて、この『隠蔽捜査』 実は現在只今、舞台上演中☆ んで! 今週、観に行ってきや〜す☆ まだチケット残ってたもんで♪ それも傑作の誉れ高い『果断 隠蔽捜査2』です。楽しみ楽しみ。もう舞台なんて、超久し振りです。因みに主演は『遺留捜査』の上川隆也さん。原作の署長に比べると若くて、二枚目過ぎるよなー^^;;; → 舞台感想☆
 最後に『TSUTAYA CLUB MAGAZINE』11月号に、『プリトヨ』の記事が! いよいよ、発売が迫ってます♪♪♪

2011.10.23.

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