風 炎 「ハァ、アッチィなぁ〜」 「本当に、今日はいつになく厳しいですね」 「風も全然ないしなぁ」 一同は開け放たれた窓を見遣り、溜息をついた。カラッと晴れ渡る青空が見える。だが、窓辺のカーテンはそよとも動かない。 「ったく、仕事する気になんねぇ」 パタパタと襟元を寛げ、手近に置いてあったファイルで扇ぐが、大した涼とはならない。 「ハボック少尉、それは団扇じゃないわよ」 「うわ…っ。スンマセン、ホークアイ中尉」 上官に窘められたハボックは慌てて、ファイルをトントンと揃えて、元の場所に戻す。 「早く扇風機、戻ってこないですかね」 「まぁ、フュリーに任せておけば、大丈夫だろう」 この部屋で唯一、涼を取れる扇風機が壊れたのか、突然、止まってしまったのが一時間ほど前だった。 機械関係には強いフュリー曹長が修理にいったのだが──たった一時間で、皆が汗だくになってしまった。
「遅いっ! ちょっと様子を見に──」 「ハボック少尉。まだ休憩時間ではないわよ」 サクッとホークアイ中尉の制止がかかる。 「貴方が行ったところで、修理が早く済むわけでもないでしょう」、 「で、ですけどね、中尉。こう暑くっちゃ、仕事にも身が入ら──」 懸命に抗弁しようとした時、いきなりドアが開いた。ノックもなく、入室してきたのは彼らの上官にして、ここ東方司令部の実質的司令官と目される人物だった。 「何を騒いでいるんだ」 きっちりと青い軍服を隙なく着込み、汗一つ、かいていないのには感心するべきだろうか。 一同は席を立ち、マスタング大佐を敬礼で迎える。 「大佐こそ、わざわざ、こちらに出向かれるとは何か?」 「序でだ。将軍の用を済ませてきたところでね」 「……今日は、勝てましたか?」 返答はなかった。乱れのない黒髪を軽く掻き回し、肩を竦める。どうやら、チェス勝負の軍配はまたもや、正真正銘の司令官たる将軍に上がったようだ。 「で、何の騒ぎだ」 「騒ぎというほどでは。ただ、扇風機が壊れているだけです」 「そういえば、ここは少し暑いな」 「少しって……、全っ然! 少しじゃないですよっ!!」 「おい、ハボ。落ち着けっての。この程度で錯乱して、どーする」 さすがに煩く感じたのか、ブレダ少尉が宥めようとするが、大した効果はなかった。 「フュリー曹長がそろそろ、戻ってくると思うんですが」 早く戻ってきて貰いたいという響きがファルマン准尉の言葉には感じられる。それはやはり暑いからなのか、煩いハボック少尉を静かにさせたいからなのか……。 だが、マスタング大佐はわざとらしいほどの盛大な溜息をつき、 「全く、この程度の暑さも我慢できんとは情けない」 「ムカッ。大佐はいいですよ。空調の効いた部屋にいたんですから」 将軍の部屋には扇風機なぞはなく、もっと上等な冷風機が備えられている。大佐の執務室とて、同様のはずだった。 「あら、でも、冷風機は使っていないわよ。経費節減のお達しがきているから」 「い゛…。そ、そうなんスか? でも──」 改めて、マスタング大佐を見返すが、まるで暑そうにしていない。確かにこの部屋に来てからも、汗一つ、かかないというのはある意味では異常に映る。 「大佐、どっか悪いんじゃないんスか」 「誰がだ。心構えの差だな。軍人たる者、いつ如何なる時でも冷静さを保たねばならない。そう、気持ちで負けて、どうする。暑さが何だ。心頭滅却すれば、火もまた凉しと言うだろうが」 この大佐ときたら、時々、どこで仕入れたのかも怪しい、異国の諺などを持ち出してくる。 ポカンとした顔で見返してくる部下たち。少しは感心したかとマスタング大佐は胸を張るが、 「ハァ〜、何つーか、嘘くせ〜ぇ」 プチッ……いつ如何なる時でも冷静に??? 「暑さなぞ、感じないようにしてやろうか」 と白い手袋を右手に嵌める……。 勿論、ハボック少尉が椅子から飛び上がり、エラい勢いで後退ったのはいうまでもない。 「ま、待った、大佐! いや、待って下さい!!」 「遠慮するな。飛び切り熱いのをお見舞いしてやろう」 暑いとか、熱いとか、もう違いなぞ、理解している状況ではなかった。生きた心地もしないとはこのことか。 尤も、他の部下たちもいる執務室で、焔を発したりするはずもないのだが……。 それこそ、暑さで思考力も半減しているのかもしれない。マジに半泣きになるハボック少尉。 脇ではホークアイ中尉たちが心底からの嘆息の三重奏を奏でる。 後ろの壁に行き当たり、下がれなくなったハボック少尉の前に突き付けられるマスタング大佐の右手が今正に、擦り合わされる!? 「か、勘弁して下さい★」 本気で哀願してしまった自分に、その後暫く、ハボック少尉は立ち直れなかったという。 パチン…… という、化学反応を起こさせる音は響かなかった。だが、目を瞑ってしまったハボック少尉はいきなり周囲に風が巻き、髪を弄られるのを感じた。 「…………へ?」 恐る恐る目を開くと、右手をヒラヒラさせている大佐の姿が眼前にはある。 「どうだ、涼しくなっただろう」 得意げというよりは意地の悪そうな顔だ。何が起きたのは咄嗟に理解できなかったハボック少尉だが、その恐るべき凶器であるはずの右手に目を止め、一瞬、絶句した。 発火布だと思った、その白手袋にはサラマンダーの錬成陣が記されていなかったのだ。何の変哲もない、ただの白手袋なのだと。 「たっ、大佐〜〜TT」 今度こそ、マジに泣きが入る。涼しいどころか、肝が冷えた。まさかと思いながら、どこかで恐怖を感じずにはいられない。それが“焔の錬金術師”なのだと識っていたからだ。 「涼しくなったところで、仕事しろ」 「大佐も、そろそろ執務室にお戻りになって下さい」 「……解っているよ、中尉」 序でに、ホークアイ中尉は新たにマスタング大佐の決裁を必要とする書類を手に、その後に続く。 部屋を出る時、さめざめと泣くハボック少尉をブレダ少尉とファルマン准尉が気の毒そーに肩を叩きながら、宥めていた。 それから十分後、待望の扇風機……いや、修理を済ませたフュリー曹長が戻ってきた。 「お待たせして、申し訳ありません」 「あぁ、曹長。待ってたぜ」 「あれ、風が出てきたんですね」 扇風機を定位置に設置しながら、フュリー曹長が呟く。 言われてみて、三人は緩やかな風が肌にを感じられるのに気付いた。 だが、今も窓辺のカーテンは揺れていない。
マスタング大佐の執務室の暑さも部下たちのそれと大して変わることはなかった。 「仕事に集中できるのですか」 「おや、特別扱いして貰えるのかな?」 返事を解っていて、これだ。確かに腹立たしく思う時もある。この上官の意地の悪さには。 「君も中々、涼しい顔をしているね。訓練で汗を止めることもできるのかな」 「必要な時もありますので」 ホークアイ中尉は狙撃手だ。じっと動かず、標的に狙いを定める時、汗が目に入るような事態を避けねばならない。ある程度のコントロールはできた。 だが、マスタング大佐の場合は彼女とは異なっていた。 「大したものだね。だが、とりあえず、ここは戦場じゃない」 「そうですね。だからといって、部下で遊ぶのは感心しません」 「遊んでなどいないよ。暑い暑いと煩いから、涼しくしてやったのさ。いい上官だろう?」 眉根を寄せたホークアイ中尉は決裁の済んだ書類を引き上げ、ビシッと端正な敬礼を施し、執務室を辞した。
「……やれやれ。焔でも溶けず、風にも動かない。難敵だな」 マスタング大佐は左手を繁々と眺め、呟いた。その白手袋にはサラマンダーの錬成陣がある。 右手を添えると、執務室を風が吹き抜けた。 錬金術師に生み出された風は窓を抜け、青空へと消えていった。
果たして、アメストリスに『団扇』はあるのかっ!? えーと、新作ではありません。もう随分、以前の作品で、『空のワルツ』様主催による『2005年度・夏企画』参加作品です。参加しておきながら、うちには格納してなかったんだよなぁ、ずっと^^; 輝の印象としての『部下達の中ではハボックが一番、苛められ役かな?っと』てな当時のコメントが──現在の原作状況からはとても言えない台詞;;; また、タイトルの『風炎』は意味としては『フェーン現象』のことですが、字面と響きの良さで決めたので、意味は忘れて下さい。どちらかというか、まんま『炎の風』的なものかな。きっと、アメストリス語ではそうなんだと☆ 物語中で、風が起きたのは大佐が起こしたものです。ちょい判りにくいかもだけど、右手はダミーで左手で──うちの大佐は勿論、“焔の錬金術師”だけど、『その実体は気体練成』に重点、置いてますので。実は液体も扱うのが得意、とか。 夏の話には早い時季だけど、昨日・夏日で今日・真夏日だから、OK?
2009.05.10. |