ファーストネーム チャポン……
耳に快い音が反響する。湯気に煙《けぶ》る面には波紋が広がり、静かな心にも漣を立てる。 「……確かに、好い気分にはなるよなぁ」 全てに囚われず、何もかもを忘れていられるのなら、これほど、心地好い瞬間もないかもしれない。この解放感──……。しかし、 「……しっかし、バジルールがいたら、どんな顔をするかねぇ」 呟きに湯も震えた。手足を伸ばすと、ザアッと岩の湯舟を越え、溢れた湯が更に視界を白く霞ませる。 ここはアークエンジェル内に新設された“セントー”だか“オンセン”だった。その名も『天使湯』ときたもんだ。 全く誰の発案で、誰の決定で、誰の命名なんだか──気にしても始まらないか。戸口には御丁寧に『暖簾』までが作られ、下がっている。 東洋に『暖簾に腕押し』なる格言があるが、その意味が実感として理解できたものだ。 それはともかく、 「戦艦内に風呂だもんなぁ」 正に笑い話である。噂で聞いても、絶対に信じないと思う。この目にしてさえ、こうして、ゆったりと湯に浸かっていてさえも、どこかで夢ではないかと疑ってしまう。 あの過酷な戦いを辛うじて生き延びた戦艦に、風呂とは!? ノイマンは口許まで湯に浸かり、目を閉じた。 瞼の裏に、堅物副長の渋い顔が蘇る。彼の人が健在であったら、こんなものの存在を知ったら──想像では済まないだろうに。 「……あぁ、埒もないよな」 苦い笑いに、また湯が震えた。 正に埒もない想像だ。彼の人は、既に亡いのだ。 一度、バシャンと顔をつけて、息を止める。勢いよく顔を上げ、息を整えると、少しだけ頭が冴えた。 解放感に浸って、心身ともに弛緩すると、余計なことを考えてしまうらしい。そろそろ、上がるかと立ち上がりかけ時だった。 「ノイマン君。大丈夫?」 いきなり声をかけられ、反射的に湯舟に戻っていた。 その呼びかけは隣の女湯から発せられている。 この『天使湯』──さすがに混浴ではなく、男湯と女湯に分かれてはいるが、湯舟は仕切りの下で繋がっている。仕切りには石鹸やらを通せる程度の隙間はあるので、声も良く通る。 ノイマンはここまで忠実に『銭湯』なるものを再現しなくてもと思ったものだ。 仮にも閉鎖空間の戦艦(しかも、このところ、海底に潜みッ放し;;;)で、異性を余りに近く感じられる場所というのは拙いのではないかと……。 尤も、そんな風に感じたのはノイマンくらいのようだが。他の男性陣には、ラッキー♪とばかりに受けが良かった。 いや、そんなことはどうでもいい。 「か、艦長? いつから、そこに」 慌てるのも当然か。その声の主は『上官』たるマリュー・ラミアス艦長だった。 こういう状況では一番、勘弁願いたい相手だった。仕切りの向こうで互いに見えないとはいえ、当然、風呂に入るからには素っ裸だ。嫌でも、想像してしまうではないか。 元々、本艦の艤装も監督していたという彼女は整備班と、ツナギ姿で働いていたこともあると聞く。意外と自分に無頓着なところがあるようだが、何せ、鼻血もののナイスバディな上に……いやいや! 何を考えているんだ。アーノルド・ノイマン! 仮にも相手は上官だぞっ。 しかし、男としては勝手に体が反応してしまうというか、何というか──うわぁ、助けてくれTT「ノイマン君? のぼせてるんじゃない」 「いっ、いえ。何でもありません! あ、いや。はい、のぼせそうです」 「え? 何を言ってるの」 変な人ね、と湯を掻き混ぜながら、笑っている。 いや、変なんじゃなくて、健全なだけです。などと心の中でひっそりと言い訳をする。全く、自分の魅力に自覚がないんだろうか? マズい。非常にマズい。出るに出られないというか、立ち上がれなくなってしまう;;; が、辛うじて、理性は保ってくれたらしい。不意に別のことに気付いた。 「艦長、ブリッジは」 「チャンドラ君が見てくれているわ。キラ君とカガリさんもいるし」 尤も、海の底に潜んでいる今、シフトなど、あってなきが如しではある。それでも、前大戦以来のアークエンジェル乗員で、数少ない士官だったマリューとノイマン、そして、奇妙な縁によるザフトからの転向者たるアンドリュー・バルトフェルト隊長。三人の内、何れか一人は艦橋に詰めているようにしていた。 但し、バルトフェルトはプラントに向かった歌姫と共に艦を離れたので、二人ともいない時間も幾らかは生じてしまう。現状では半舷直など無理をする必要もない。 無理なことをしていた時期もあったが……朧気に浮かぶ顔は決して、泣き言など言わなかった。どんなに疲れていても、愚痴一つ言わず、確実に任務をこなしていたものだ。 黙り込んでしまったノイマンに、マリューは僅かに言いよどんだが、 「ナタルを、思い出すわね」 同じような連想をしたらしい。我に返させるには十二分な言霊……。目の前にいれば、ノイマンはマリューを凝視していただろうか。 この二年、顔を合わせても、努めて触れないようにしてきた。 あの戦いで、彼の人──ナタル・バジルールが指揮していた艦ドミニオンとアークエンジェルは矛を交えた。激戦の果てに、双方は少なくない犠牲を出した。 その中には、ドミニオンの最後の攻撃を自ら盾となって、防ぎきったMSストライクもあった。 艦橋にある愛する人々を守りために散っていったのはマリューにとって、掛け替えのない人だったのだ。 眼前で愛する人を失った激情のままに、反撃の命を下したマリューが、それ故の後悔の念を抱いているのは知っている。 今ではドミニオンでも騒動があり、オブザーバーとやらとナタルがあの攻撃の直前に争っていたらしいのも判明っていた。だからこそ、あれがナタルの指令でも意志でもなかったのではないか? との疑念がついて回った。 あの戦いの激しさ、その経緯からも仕方がなかったのだと信じようとしても、疑いは僅かな隙から湧き上がり、潜り込んでこようとする。 ノイマンもまた、何一つできなかった己の無力さに虚しさと憤りを覚えたものだ。そして、彼女が、ナタルが死んだという現実を受け容れるのを躊躇った。 操舵席の前に広がる暗黒の海に、彼女の艦は沈んでいったものを……。 「ノイマン君」 「……あ、ハイ?」 湯をも打つような静けさの中、呼びかけはやけに大きく響く。 「ずっと聞きたかったんだけど、聞くのが怖くてね」 何を? それは解っていた。いつ尋ねられるかと思いながら、二年──このままでも別に構うまい、そうも思っていた。マリューが熱い空気を吸い込んだのが判る。 「私を、恨んでいない?」 「恨む? バジルール中尉を撃ったからですか」 「だって、貴方とナタルは──」 言葉を濁すのに、少しだけ苦笑する。どうやら、誤解しているらしい。多分、チャンドラ辺りもそう信じているのではなかろうか。少しだけ、意地が悪くなる。 「俺とバジルールが、何です?」 「何ですって……だから、その。付き合ってたんじゃないの?」 後々からでも思い返すと、彼ら二人の間の空気が他の者とは幾らか違っているのは明らかだった。 正に四角四面、生真面目なナタルは艦の重石役を担ってはいたが、杓子定規が過ぎるためもあり、クルーには近寄り難い存在だった。もっと言ってしまえば、煙たがられていたのだ。 そんな副長とマリュー他の艦橋要員の間を取り持っていたのが、直属の部下という触れ込みのノイマンだった。ナタルの一歩後ろに控えているのが実に自然だったため、当時は誰もが当てにはしても、それ以上の勘繰りなぞしようともしなかった。 お堅い副長も直属の部下を心底から信頼しているのだろうと思われていた。 だが、あの優しい空気はそれだけでは説明がつかない。今では、そう考えられている。事実、ノイマンは単なる下士官でもなかったのだ。少なくとも、ナタルとは対等になれる関係だったのは、ノイマンも既に隠していなかった。 そこからの大多数の連想だが、これまで、誰も当人に質したことはなかった。皆の前で変わらず平静で、仕事もこなしていたが、それでも、一時期は恐ろしく寡黙になっていた。 やはり事実なのか。であれば、マリュー同様の傷を心に負っていないはずがない。全てが終わった今、面と向かって問うのは憚られたのだ。 マリューはある意味、当事者の一人であるから、その枠からは外れている。唯一、暗黙の了解を越えられる人物といえた。勿論、それでも尚、その問いを発するには長い逡巡があったが。そして、非常な勇気をも要した。ノイマンの返答如何では、現アークエンジェルの幹部間に亀裂が生じかねないのだから。 だから、聞くべきではなかったかもしれない──再び迷いと悔いに苛まれそうになった瞬間、仕切りの向こうから忍び笑いが聞こえた。それは次第に大きくなった。 「ノ、ノイマン君?」 「ス、スミマセン。いや、艦長。そんな一世一代の覚悟を決めたような深刻な声で聞かないで下さい」 笑いを収めたものの、苦笑は隠しきれない。 「確かに付き合いは長かったですよ。尤も、艦長が思っているような付き合いじゃなかったですけどね」 「え…、違うの? 私、てっきり──本当に?」 「皆、そんな風に勘繰ってるんでしょう。生憎と本当ですよ。友人以上の関係じゃなかった。……何せ、お互いに名前で呼び合ったこともないくらいですからね」 「そ、そうなの?」 これ又、意外だ。長い付き合いなら、『そういう仲』ではなくとも、親しくファースト・ネームで呼び合うようになるのではないか? 「苦手だったんでしょうね。そういうのが。誰が相手でも、そうだったでしょう? 特に軍では」 確かに、マリューも最後まで、名前で呼ばれることはなかった。 一方のマリューは幾らか馴染んできた頃には何度か「ナタル」と呼んでいたはずだが。それは軍という組織にあっては望ましくないことかもしれない。そういえば、特に反論はしなかったが、余りいい顔もしていなかった記憶がある。 だが、そういう姿勢は壁の高さを弥が上にも感じさせる。 「任務を離れても、そうだったの?」 「任務外で会うことはそうはなかったですしね。……でも、だからといって、隔意があったわけじゃないですよ。それが壁を作ってることになるなんて、思わないでほしいんです」 ノイマンは一旦言葉を切って、嘆息した。 「ただ、あいつはそういう表現が人より下手だっただけですから。何も感じていないわけじゃなかった」 堅苦しい言動の影に見え隠れする親愛のニュアンスは確かにあったのだ。 ノイマンは本当にナタルを理解しているのだろう。 マリューも頷く。『鉄の女』などは評されていたのはマリューの耳にも伝わっていた。彼女とはぶつかることも多かったが、単なる冷血漢などではないのはノイマンに劣らず、マリューもよく知っていた。 ただ、彼女は艦を守りたかったのだ。クルーを守りたかったのだ。そのために、全力を尽くしていただけなのだ。 なのに、最期は──嘗て守ろうとした艦と戦い、命をも落としたのだ。 やはり、悔いは残る。自分の下した判断は間違ってはいなかったか? 唇を噛みしめる。 「……でも、そうだな」 マリューの思いには気付いていないのか、話しかける様子ではなく、自分に問うような口調。 「ナタル、か。もし、そう呼んでいたら、何か変わっていたんですかね」 ノイマンの口から、その名を聞くのは初めてだった。初めての響きが何と切ないことか。 これで本当に、この男は『何もなかった』と言うのだろうか? ……いや、何もなかったのだ。 秘めた想いは自身にさえ気付かせないほどのものだったのかもしれない。今尚、そして、この先も『掛け替えのない友人』であり続けるのだろう。 その逆も然りだ。ナタルがノイマンをファースト・ネームで呼んだとしたら、如何なる響きを持っていただろうか? それは確めようのないことだ。その瞬間『何か』が変わっていただろうか? そうかもしれないし、変わらなかったかもしれない。 ならば、悔やんでも致し方ないのだ。 「恨む恨まないより、艦長。俺達があいつの死を踏み越えて、今ここにあることこそを、受け止めるべきじゃありませんか」 「ノイマン君……」 「何より俺には艦長を恨む資格はありません。あいつと戦ったのは貴方だけじゃない」 それはナタルだけではない、生きるために踏み越えてきた数多の命──その果てに、彼らは今も生きていることを許されたのだ。 そして、再び苛烈さを増そうとしている戦乱の渦。 地球連合とプラント、ナチュラルとコーディネーター──憎悪が憎悪を生み、命を散らそうとしている。 政治理念などではなく、その痛みこそを念頭に置き、小さいながらも第三勢力であろうとしている彼らの行動は双方の陣営から見れば、不可解にも過ぎるものだろう。 理念でなく、ある意味では感情に従っているといっても過言ではない。 正直、最初は行動を共にするのは迷ったものだ。 それでも、最後は見捨てられるはずがなかった。 『宜しく頼む』というナタルの残した言葉だけではない。 この艦に刻まれた『痛み』の記憶そのものが、そうさせるのかもしれなかった。 何よりナタル・バジルールという『存在』に繋がる記憶が……。 バシャンと一際、大きな水音が上がり、続いてバシャバシャと湯の中でもがく音とノイマンのくぐもった声が交じり合った。 「どうしたの? 大丈夫?」 はっきり言って、溺れているとしか思えない。咳き込む声は苦しそうだ。 「う…、ゲホッ。だ、大丈夫です。本当にのぼせたかな」 今度こそ、立ち上がる。最初、慌てふためていたのも嘘のようだ。 「お先に失礼します、艦長。ごゆっくり。あ、艦長ものぼせないように」 「気をつけるわ」 ザバンと湯舟を後にすると、シャワーの音が少しだけ続いた。冷水を浴びて、熱を冷ましているのだろう。 いつしか、その水音も止み、ノイマンは出ていったようだった。 気が付くと、男湯が静かになっていた。マリューは顎まで湯に浸かって、目を閉じた。 亡くした人の面影はいつでも思い出せるけど、何も語ってはくれない。『君は正しい』と、言ってほしいのかもしれなかった。 「ねぇ、ムウ。何が正しいのか……。それは後世、決められるのかしらね」 とんでもない馬鹿な真似をしでかした愚かな集団と記憶されるかもしれない。だが、後世の批評を気にしてはいなかった。 彼女もまた、『痛み』を知っている。そんな『痛み』を増殖させたくない一心だったのだ。 「……でも、ナタル。貴方なら、感情だけに引きずられたりはしないかしら」 もっと良い方法を見出せただろうか。 問いかけても、記憶の中の彼女が答えるはずもない──今、この世界に在るのは彼女一人だけのように……。
ノイナタじゃなくて、ノイマリュ? うおっ、非難の集中砲火を浴びてしまいそうだっ★ 長かった。途中で筆が止まってしまって、その間に種2はエラい展開になってるし。……正直、追っかけるのが苦しくなってきましたTT 見るのが辛い──なのに何で、見てるかって? そりゃ勿論、ノイマン君の行末とフラマリュの…(爆) そうそう、書けなくなっている内に『一応兄貴生存確定』しちまいましたよ。まぁ、記憶吹っ飛びの元兄貴ですがね。でも、アレで、マジにどーやって助かったんよ? 顔に傷作ってる段階で胡散臭いぞ。(顔に傷→メット損傷→宇宙なのに???) その辺はスルーでオシマイかなぁ;;; 『ファースト・ネーム』なるタイトルも一部にチラッで、全然語ってることがチャイます。やっぱ、ネタな『天使湯』とAA行動規範の超好意的解釈……苦しいです。自分でも思いっきり苦しい解釈だと思います。だから、責めないでくり★ しかし、あの神業スーパー機動回避は素晴らしすぎ。さすがにスーパーナチュラル?操舵士の面目躍如☆ AAの飛行システムが愈々謎だけどねー。
2005.06.12. |