プライド


 冥界にも花は咲くらしい。何という花だろうか。
 ここに来て、どれほどの時が流れたのか……初めて、その花の名が気になった。もう他に、考えることもなくなってしまったのかもしれない。
「おい、いつまで、こうしているつもりだ」
 不意に出現した気配は猛きもの。自由に出入りできるからといって、こちらに全く気遣いを見せようとはしない、傲岸な男。
 それは自らへの絶対の自信から来るのだろう。ここまで堂々としていると、腹も立たないのだから、不思議だ。
 口にしたのは別のことだ。
「……そちらこそ、いつまで、オレをこんな処に留めておくのだ」
 見渡せば、戦士には不釣合いとしか見えない花の園。美しいとは思う。死者を慰める美しさなのだろうか? ぼんやりと考えはしたが、力のある言葉に意識を引き戻される。
「お前が聖域に戻る気になるまでだ」
 言い切る男を横目に見遣り、盛大に溜息をつく。
「戻る気はない、と何度、言ったら解かるのだ」
「知るか。こちらもお前がその気になるまで、此処を出す気はないと何度も言ったはずだ」
 どこまでも平行線でしかない会話を一体、どれほど繰り返してきただろう。
 男から目を逸らし、花園を見渡す。一面の花園の前に立つのは獅子座のアイオリア。女神アテナに仕える黄金聖闘士の一人。
 いや、今はアイオリアだった者の魂というべきか。


☆        ★        ☆        ★        ☆


 此処は冥界の一角。先だってまで繰り広げられていた聖戦にて、アテナのために落命した聖闘士たちも人であることに違いはない。
 人に非ずと思われるほどの力を持った最強の闘士たちであろうと、死を迎えれば、『死の国』──冥界へと赴くことになる。それは正しく、それまで敵対していた冥王ハーデスの統べる世界へと落ちることでもある。
 故に、アテナの聖闘士は『神への叛逆者』として、氷地獄《コキュートス》に落とされ、転生も叶わず、未来永劫苦しむものとされた。
 だが、此度の聖戦は違った。地上を統べる女神が人の身に降臨したからだけでなく、人として成長したことも影響していたのかもしれない。神としての思考から、少々、外れている…といってもいい。

 とにかく、勝者とでもいうべきアテナは冥界を立て直すことを望んだ。そのために、戦いに散った闘士《もの》たちの助力をも願ったのだ。聖域には聖闘士を、海界には海闘士を、そして、冥界には冥闘士を……。
 戦い合い、命果てた者たち──だからこそ、今度は復興のために、各界、戦うのではなく協力し、世界を──全ての界を立ち直らせようと呼びかけたのだ。
 アテナに封じられた海皇《ポセイドン》も剣を受けた冥王《ハーデス》も思うところはあったらしい。ともかく、その条件を呑み、和平協定のようなものまで結ばれた。 真なる思惑はどうあれ、神の御名による協定だ。そのものが身を縛るものとなる。反すれば、自らの名の戒めにより、報いを受けることとなる。
 新たな抜け道でも見付からぬ限りは、各界の和平は半永久的に成ったと信じられもした。
 そして、各界の闘士たちも甦り、夫々の復興のために己が力を傾けていた。

 但し、復活したのは全ての闘士ではなかった。極僅かではあるが、望まぬ者もいたのだ。新たなる生に興味を持てなかったのか、再び、いつか訪れる死を嫌ったのか──とにかく、各界にほんの数名だけ、神に乞われても首を縦には振らなかったのだ。
 幾度かは説得も試みられたが、必要以上に無理強いをすることもなかった。元々、死者を復活させること自体が本来の理に反しているのだから……。
 それでも、彼らは暫し、冥界に留め置かれていた。
 現世への思いが強すぎる余りに、直ぐに成仏できない魂もある。そんな魂が時を慰めるのが今、アイオリアが立つ花園なのだろう。
 アイオリアと同じように甦りを望まぬ者たちも一人、二人と減り、今ではアイオリアのみが残されている。
 彼は望まなかった。今一度《ひとたび》の生を……。
 それでも、勿論、アテナが簡単に諦めるはずもなく、説得は続けられている。
 どちらも譲らぬまま、時が過ぎ、聖戦から、どれほど経ったのかも既に判らぬほどだった。尤も、地上と冥界とでは時間の流れ方すらも異なるのかもしれないが。
 その時間の殆どを、アイオリアはこの花園周辺で過ごしていた。特に何をするでもなく……。
 現世では、必死に生きてきた。生きることが、全てだった。戦いに彩られた人生でも──死は、アイオリアにとっては負けることでもあった。
 それは冥王に対してではない。寧ろ、彼を取り巻いていた聖域に対してであったろう。
 そうして、生きた結果、彼は死に招かれたのだ。ただ、最早、聖域の戒めからは脱した後でもあった。真なる女神によって……。

 そのためか、死を迎えても、もう負けたとは思わなかった。次なる生に向かっても良いと心底から、思っている。獅子座のアイオリアという己に、拘りもなかったのだ。
 だが、当人を除いた殆どの者が“獅子座のアイオリア”にこそ、特別な拘りを持っているようだった。それは彼の兄であった者の横死と、それ故の不遇の時代に対する贖罪にも似た思い故なのだろう。
 アイオリア自身はそんなものを望んではいないが。必死に生きてきた十三年を否定するに等しいのだと、何故、誰も気付かないのだろう。
 ……いや、兄だけは気付いているかもしれない。

 十三年前、年若い少年の身でありながら、命を賭して、女神を救った兄アイオロス。その兄は甦りを受け入れた。どんな思いで、そう選択したのか……。
 その兄とは『嘆きの壁』の前で交わした会話が全てだ。蘇りを待つまでも、特に此方でも語り合うこともなく……、会うこともないままに、兄は現世へと戻っていった。
 兄は、弟も当たり前のように蘇りを選ぶと信じていたんだろうか? だが、説得の使者に兄が現れることはなかった。ならば、やはり──……。

 それにしても、『逆賊』『逆賊』と蔑み続けてきた射手座の黄金聖闘士に対し、聖域の連中はどんな顔で、どんな態度で臨んでいるのだろう。
「……どうでもいいか。もう俺には関係がない」
 兄には兄の思いがあり、判断がある。嘗て、身を捨ててまで、アテナを救ったようにだ。
「アテナのために、か」
 『アテナのために』兄は甦ったのだ。恐らくは──だが、アイオリアにはもう、それほどの情熱を抱けなかった。この時点で、最早、聖闘士としては失格だろうとも思う。
 ところが、周囲はそれを認めてくれない。自分に向けられる拘りの深さを、嫌でも考えさせられる瞬間だ。

 しかし、何故だ。目の前のこの男が──最強の冥闘士の一人、三巨頭にも数えられるワイバーンのラダンマティスが何故、やたらと自分に絡んでくるのかが理解できない。
 冥王第一で、冥界復興のためにも先頭に立って、働いているはずで、とても忙しいはずの男が、頻繁に現れては翻意を促すのだ。
 まさか、アテナがハーデスに頼んだとか……? いや、それにしては嫌々という感じがない。
 待たされるのにも飽きた。この顔に適当ながらにも応じるのにも──だから、尋ねたのだ。この時、初めて──……。
「解からんか」
「解からぬから、尋いている」
 互いに大真面目に尋ねていた。
 傲慢な男は、些か気分を害したような表情で──といっても、常に不機嫌そうな顔をしているとアイオリアは思うが──睨みつけてきた。
「暇なわけでもあるまい」
「当たり前だ。俺は多忙の極みにあるというのに、貴様がいつまでも、こんな処で、無聊《ぶりょう》な日々を送っているなど、許せるか」
「……別に、お前に許して貰う必要のあることでもないがな」
「そうではない! 今一度、貴様とは一戦を交えねば、俺の矜持が保てんっ」
 それこそ、顔を引き攣らせて、唸るラダンマティスだが、アイオリアは首を傾げるばかりだ。
「……何を言っている」
 大体、個人的にこの男の矜持を傷付けたようなことがあっただろうか? アイオリアがこの男と関わったことといえば、ただの一度。ムウ、ミロと共に冥界に突入した際にかち合い──そして、氷地獄《コキュートス》に叩き落されたのだ。ハーデスの結界のために、力を殺がれるのは覚悟の上とはいえ、聖闘士筆頭の黄金聖闘士が手もなく、捻られたのだ。寧ろ、矜持を傷付けられたのはアイオリアたちの方ではないのか。
 だが、
「それが最初から、狙いだったのだろう」
「…………」
 更に低い、ドスの利いた問いかけには一瞬、詰まる。

 確かに作戦だった。ハーデスの結界の中でも、冥闘士の実力者が相手でなければ、突破できる。そうでなければ──先に冥界に向かった女神に一刻も早く追いつくためにも、最下層へと一気に辿り着く方法がある。そして、その目論見は見事に当たった。
 逆に、ワイバーンのラダンマティスは黄金聖闘士たちを冥王に更に近付く地へと送り込んだともいえるわけだ。聖闘士たちに利用されたなど、冥王第一の忠臣には耐え難いことだろう。しかし、
「……そんな話、誰に聞いた」
 尋ねてみたが、答えは知っていた。実情を知っている者は突入した三人だけのはずだからだ。案の定、
「スコーピオンだ」
「…………あの、バカ」
 余計なことを、しかも、余計な相手《ヤツ》に言ったものだ。
 あっけらかんとしていても、プライドも高い。それが黄金聖闘士の末弟だ。納得尽くでの経緯《こと》とはいえ、実情を知らぬ者にでも指摘でもされたら、向かっ腹を立てるに決まっている。
 そして、ラダンマティスの耳にも入ってしまった、と。
 この男は別にアイオリアに興味があるわけではないのだ。『矜持が保てん』との言葉にも表れている。ただ、利用されたような過去を少しでも払拭したいがため──その一点に尽きる。
 ただ、それがアイオリアに向けられるとは、全く面倒この上ない。

 ミロとは既に接触している。となると、もしや、ムウとも? 尤も、信じ難いほどに誇り高い男だが、その自らの誇りすらも信念の為には呑み込んでしまえる男だ。多分、相手にもしなかっただろう。
 しかも、聖域と冥界とに別れているのだ。だから、冥界に留まっているアイオリアに矛先が向けられた、ということか。

「過ぎたことは確かに覆せん。受け容れるよりない。しかし、お前たちに利用された上、ハーデス様の結界のお陰で勝てたなどと言われては無視はできん!!」
「…………誰が、そんな……」
 やっとのことで尋ねると、間髪入れずに返ってくる。
「カノンだっ!」
 ……本ッ当に、どこまでも余計なことを!
「過去は覆せずとも、真なる力ならば、今でも見せることができるのだ」
 そして、忌むべき過去を塗り替えようというのか? だが、全てはアテナとハーデス、聖域と冥界との間に生じる『聖戦』に於いてのことだ。聖闘士と冥闘士も互いに思惑があり、目指すものもあった。そのために、数多の兵も戦ったのだ。誰もが全力を尽くし──戦いに敗れたとしても、プライドが傷付いたと思うことはないだろうに。

 そう言っても、ラダンマティスが納得することはない。寧ろ、疑問を深めたようだ。
「何故だ、レオ。黄金聖闘士たる者が全力も出せずに、俺に打ち据えられ、それでも、矜持が傷付かぬと言うのか」
「…………そんなことでは傷など付かない。いや、ある意味では俺には矜持などない。生きることが全てだった俺には」
 そう、プライドなぞ、元より傷だらけで、これ以上、傷付きようがなかったのだ。
 アイオリアにとってのプライドとは『諦めない』ことだ。どれほど、不利な状況にあっても、諦めずに生きて、戦うために──立ち上がり、立ち向かう。どんな強敵であっても……。
「だから、ラダンマティス。済まないが、たとえ、甦っても、俺はお前と戦うことはない。今一度、聖戦でも起こらぬ限りはな。……だが、そんな機会も二度とはあるまい」
 甦った闘士たちが再びの生を全うするまで、あのアテナ沙織が、そんな状況を作り出すとは考えられない。絶対にあり得ないのだ。
「ミロとは再戦したのか」
「──あぁ」
「ならば、それで満足してくれ。あいつも強かっただろう」
「……まぁな」
 聖闘士も冥闘士もただ、戦うためだけに存在するわけではない。夫々に、様々のものを背負い、戦うのだ。ただただ、命を懸けるだけの、力を傾けるだけの戦いなど、何の意味も持たない。
「そうではないか」
 沈黙が雄弁に語ることもある。三巨頭ともなれば、負うものも大きかろう。矜持と天秤にかけて、揺らぐのも解かる気はする。といって、応えることはできない。
 だが、そんなラダンマティスも今は少しばかり、頭に血が上っているような状態なのだ。冷めれば、納得もするようになるだろう。
 それまでは少々、睨まれようが、聞き流すだけのことだ。

 暫し、美しい花の園に沈黙が流れる。
「……俺には理解《わか》らん。何故、今一度の機会を」
「俺は為すべきことは為した。それに満足しているのだ。水を注さないで貰いたいな」
 あしらうように言い放つと、ラダンマティスが顔を顰めた。だが、口を開いた時は案外に冷静に見えた。
「お前の矜持は本当に傷付かんのか。確か、こう言ったな。生きることが全てだったと」
「それが?」
「ならば、何故、生きようとしない!?」
「……生きることが必要だったというだけのことだ。だが、今となっては、それも必要とはいえない。聖域には──」
 言いさしたが、その意味するところは明らかだった。

 射手座のアイオロス。逆賊と、その名にすら鞭を打たれ続けた兄が……正しく、英雄として、在るのだから。

 三巨頭たる男が信じ難いという顔で見下ろしてくる。
「……兄のため、だったと言うのか? お前の矜持は全て兄のためだけにあるものなのか」
「そうだ」
 全く躊躇いもなく、肯定の言葉が口を突いた。睨みつけていたはずのラダンマティスですらが呆気に取られたような顔になっていた。
 だが、あの十三年……アイオリアはアイオロスの影だった。死した兄の代わりに罵られ、打たれ、蹴られ──憎しみの生きた捌け口だった。
 それでも、聖域に留まり続けた。僅かなりとも兄の名誉を復するため……取り戻せたものなど、殆どないに等しかったが、真なるアテナの帰還と続く聖戦によって、焦がれんばかりだった真実をアイオリアは知ることができた。
 明かされた真実が兄の名誉を取り戻したのだ。
 そればかりか、兄は真に甦った。本当に……。
 最早、影たる弟など、無理に甦ることなどないのだ。

「影など……。お前はお前ではないのか」
 何を言い出すのか。いや、もう忘れていたほどに遠い昔、同じことを誰かに言われたのだった。
 遠い記憶を彷徨っていたアイオリアには、ラダンマティスの心中など察することもできなかった。

 そう…、ハーデスの結界の中で力を殺がれても、放たれた光速拳は冥界へと続く冥《くら》き地を眩く照らし出していた。
 確かに彼らに裏を掻かれたことへの憤りはある。それ故に再戦を望んでもいる。だが、決して、そればかりでもないのだと──アイオリアは気付いていない。



「──また、来る」
 不意に告げるラダンマティスに目を遣ると、漆黒の大きな翼が離れていくところだ。表情を見ることはできなかった。
「来たところで、俺の返事は変わらんぞ」
「それでも、来る。諦めんぞ。俺は」
 鬱陶しい宣言に、さすがに眉を顰めたが、言ってくれるというのなら、何か言って、引き止めることはない。高すぎるプライド故の拘りとしか、受け取らなかったためもあるが……。

 独りになったアイオリアは花園を見渡す。後、どれほどの時を此処で過ごすことになるのか。それでも、この…、ある種の決意は決して揺らがない。
 そう…、矜持がどうのというわけでもない。生きてきた──過酷な生にすら、立ち向かっていった、その在り様こそが獅子座の黄金聖闘士の矜持だったのだ。
 どう、疑問に思われようが、誰かに理解して貰おうとも思わない。
「……戻るか」
 未だ、魂の傷を癒しきれずに眠る星矢もいることだし、今少し、此処に留まるのもいいだろう。しかし、その星矢の受けた傷……冥王より受けたためか、予想以上に深いようだ。未だに目も覚めず……、最早、回復は望めないのかもしれない。
 だとしたら──そろそろ、選択するべき時なのかもしれない。
「次代の者を守る。……それも、また」
 重き務めであり、それが叶った時、彼の矜持もまた、保たれるのだ。



 プライドの在り様…………てなわけで、星矢キャラでも最もプライドの高そうなラダンマティスに登場を願いました。プライドと矜持──微妙に感覚が違うようにも思いますがね。
 しかし、後半が進まず、エライ時間を食ってしまいました。スランプというか、集中しきれなくて……。
 ラストに星矢にチラッと触れていますが、『星影篇』に続く『アイオリアが甦らない設定』話でもあったりします。

2010.02.01.

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