失ったもの


 『十二宮の戦い』──そう呼ばれるようになった戦い。それは十二宮を守護《まも》る黄金聖闘士《ゴールドセイント》と真なる女神《アテナ》を奉じ、教皇宮まで突破した数人の青銅聖闘士《ブロンズセイント》との戦いである。
 戦いと呼ぶには局地的でありながら、これほどに影響力の大きなものはない、紛れもなく厳しくも激しい死闘だった。
 突入した青銅聖闘士の悉くが倒れ、健在だった十一人の黄金聖闘士は、その半数にまで減じたのだから……。

 真なる女神──日本で育った城戸沙織なる十三歳の少女は当然のあどけなさを残しつつも、成程、全てが詳《つまび》らかにされれば、誰もが納得する雄大なる慈愛の小宇宙《コスモ》を有していた。
 明らかにされたのは女神ばかりではない──その女神を十三年前に救った一人の聖闘士。
 女神の命を狙い、失敗した挙句に聖域《サンクチュアリ》を出奔の末、粛清された黄金聖闘士・射手座《サジタリアス》のアイオロス。
 長らく、憎悪の対象として、“逆賊”と呼ばれた彼の黄金聖闘士こそが、実は女神を恐るべき魔手から救ったのだと……。
 逆賊は一転、英雄と讃えられた。
 とはいえ、アイオロスは既に亡い。あらん限りの讃辞を受けようと、どれほどの栄誉が与えられようと、失われた命が甦るわけでもない。
 辛うじて慰みになるものといえば、唯一、慰霊地に墓が立てられたくらいなものだった。

“サジタリアスのアイオロス”

 十三年も前に没したにも拘らず、真新しい……だが、中は空でしかない墓に刻まれた名。
 誰憚ることなく、悼むことができる。幾らでも泣いて、悲しみを溢れさせても、誰も文句など言わない。だが、今や、その真新しい墓の前に立っても、涙は流れなかった。
〈……兄さん〉
 ひっそりと心の中で呼びかける。最早、口にすることも適わぬほどに、身についた習い性は今更に拭え切れるものではなかった。誰も咎めまいと解っていても……。
 十三年という歳月故に、粉々に砕かれた感情は物言わぬ墓を前にした程度では微塵にも動かなかった。獅子座《レオ》のアイオリアはただ兄の墓をじっと見下ろし、立ち尽くしていた。
 亡兄と同じく黄金聖闘士に名を連ねる彼は──だが、つい最近まで、その身分を明かさぬままにいた。
 聖域に在る時の彼は決して、聖衣《クロス》を身に纏わなかったし、小宇宙も完璧に制御し、抑え込んでいた。それでも、彼が高位の聖闘士であろうことは立居振舞いからも、察せられたのだが、何よりも彼アイオリアを称するものは“逆賊の弟”だったのだ。
 真なる女神の出現は、そんなアイオリアの身辺をも一変させた。

 聖域での“逆賊”アイオロスへの憎悪は当人が誅殺されたため、そのまま、その弟に向けられた。当時、まだ七歳と幼かったアイオリアに為す術などなく、それから十三年──憎悪も侮蔑も憤怒も一身に浴びなければならなかったのだ。
 彼の中に憎むべき逆賊の面影を見出し、多くの者は一瞬、嫌悪を浮かべた目を向け、直ぐにその目を逸らし、彼を無視した。当然、それだけでは済まない場合も多々あった。
 幼くとも、獅子座を拝命していた彼が本気になれば、火の粉を振り払うことなど容易かっただろう。だが、彼は決して、抵抗はしなかった。密かに小宇宙で防御するに留め、全てを受け止め、堪えたのだ。
 少年の頃は傷だらけだったが、彼が成長するに従い、それも減っていった。
 “銘”は判らずとも、彼が聖闘士であるのは間違いなかったし、時には聖域を出て、任務に当たっているようだとも噂された。兄の汚名を雪ぐために、弟が全身全霊を捧げて、尽くしていることは明らかだった。
 次第に周囲の反応は和らいでいったが、それでも、人の見る目がそうそうに変わるものではなかった……。

 そう、十三年かけても大して変わらなかったものが、ここで激変した。たった一人の少女の出現により──兄の汚名は雪がれ、彼は“英雄の弟”となり、周囲の目も態度も変わった。
 正しく劇的なまでに──……。
 ミロなどが余りの調子の良さに憤っていたほどの変化が齎された。
 だが、アイオリアは特には何も感じなかった。ただ、幾らか苦笑した程度だ。それほど、この変化は激しかった。
 アイオリア自身は何一つ、変わっていないものを……。聖闘士としての在り様も何も、彼が黄金聖闘士であることが明らかになった以外は全く何も変じてはいない。
 そう、蔑みも憎しみも、誉れも讃えも、全ては兄アイオロス故のものだ。どこまでも、彼は射手座のアイオロスの弟でしかないのかもしれない。だから、苦笑するよりなかったのだ。
 といって、それ自体に不満を覚えるわけでもなかった。アイオリアの聖闘士としての在り様は結局のところ、兄アイオロスの遺した姿を追い求めた結果でもあるのだから……。
 兄の名誉とやらが復され、こうして、黄金聖闘士として弔われた。ただ素直に喜べばいいのだろう。そして、女神に感謝すればいいのだ。己の無力さ加減など、この際、どうでもいいではないか、と。

 アイオリアは兄の墓から、周囲へと目を転じた。幾つかの同じく真新しい墓石に刻まれるのは『十二宮の戦い』で逝った黄金聖闘士達のものだ。
 数少ない友人の一人だったカミュの名には悼みを覚える。親友のミロとともに、逆賊の係累だったアイオリアを何くれとなく、気遣ってくれた。
〈お前は、優しすぎたのだな〉
 弟子持ちだったカミュは厳しい師匠だった反面、優しかった。いや、優しいが故に厳しくあろうとした。戦士である聖闘士として生き抜く力を身に付けさせるために……。
 あの『十二宮の戦い』にあって、唯一、水瓶座《アクエリアス》のカミュだけが全く違う思いで戦っていたようにさえ思える。女神のための聖闘士を、最後の最後まで育てようとしていたのではないかと。
 アイオリアは順に墓石に刻まれた名を追い、最後の一つに目を止める。いつもいつも、ここに来ては繰り返す、儀式の如く……。

 双子座《ジェミニ》のサガ──全ての元凶たる男。聖域を混乱の只中に叩き込んだ張本人。
 十三年前、真の教皇を害した上に成りすまし、女神を襲い、アイオロスを……。
 力を求め、揮い──だが、最後には破滅した。結局、何も得られなかった男。

「……お前は一体、何を欲していたのだ」
 幾度となく尋ねる。勿論、返る言葉などない。
 この地上世界を狙う幾多の神々から護るには、力が必要なのだと言った。女神などとはいえ、小娘など当てにならぬ、と……。
 だから、護れるだけの力ある者が地上の支配者には相応しいのだ、と。
 あの今一人のサガは確かに信じていたのだろう。己にはそれだけの力がある、と。
 故に、自分を次期教皇には推さなかった真の教皇を排し、女神を殺めんとし、止めに入ったアイオロスをも罪人として抹殺した。

「そうまでして、お前の護りたかったものは、何だったのだ」
 それがどうしても見えない。自分が立たねば、どうにもならなかったのか?
 『地上世界を護る』──それだけを聞けば、見事な聖闘士の努めであろうに。
 女神の御許では適わなかったのか。教皇に従ってはいけなかったのか。兄と協力することは無理だったのか? 
 全てを打ち壊してまで、一体、何を望んだのだ? その望みは適ったのか……。
 アイオリアにはそうは思えなかった。
 十三年前からの混乱によって、どれだけの得たものがあるというのか。
 寧ろ、喪失《うしな》ったものばかりが溢れ返る。
 女神と聖域は真なる教皇を喪った。黄金聖闘士を始め、聖闘士たちの犠牲も多かった。
 もっと個人的なことを語れば、ムウは師を奪われ、ミロは親友を見送り、シャイナは教え子を亡くした。
 聖闘士だけでなく、聖域にある者の全てが、その拠所を揺るがされた。
 せめてもの慰みは真なる女神の存在と、若き青銅聖闘士たちの未来に希望を持てることくらいか……。だが、その僅かなものを得るためにも、どれだけの犠牲を払ったのか。
 全てを齎したサガ自身、十三年の時と引きかえに、己を封じていたではないか。
 そして、アイオリアもまた──気が遠くなるような十三年の道程。その果てに得たのは幾許かの真実と兄の墓のみ……。
 後は只々、この静かな場で、答の出ない問いを繰り返すのだ。



 どのくらい経ったろうか、不意に慰霊地の気配が乱れた。遠慮したような、怯えたような気配に微かに息をつく。
 このまま立ち尽くしていても仕方がない。答など出ぬことは解りきっているのだ。
「あ、あの、アイオリア様」
 背後に近付いた気配が恐る恐るといった態で、呼びかけてくる。
 アイオリアは振り返らず、返事もしなかった。沈黙こそが返しになるはずだったが、その者達は余り察しも良くなかったようだ。
「アイオリア様。あの……ムウ様がお呼びなのですが」
 呼ばれているのは解っていた。先刻から引っ切り無しに小宇宙で呼びかけられていたが、遮断していた。ここでは静かに考えたかったからだが、ムウは出ない答を今、求めても仕方がないと断ずるだろう。
 あれで中々、思い切りがいい男だ。似たような境遇にありながら、あれほど前向きになれるのには驚嘆する。
〈俺は……同じ場所に足踏みしているだけか〉
 それでも、後向きにならないだけ、まだマシだと、ムウならば、言うだろうか。
「あの……アイオ──」
「今行く」
 短く言い捨てた声に苛立ちが含まれているのに、自分で驚いた。伝令役の雑兵など、雷にでも打たれたかのように身を竦めた。別に殺気を纏っているわけでもないものを……。
 尤も、これも十三年間に降り積もった“呪”の如きものか。
 だが、さすがに煩わしさを感じ、踵《きびす》を返す。

 少しだけ離れて、ついてくる二人──この聖域にある殆ど全ての者が見せるその反応。
 『真実』とやらは全くの正反対だった。兄の罪がために、十三年もの長き時を打擲《ちょうちゃく》され続けた弟に、返報されかねないと……。
 アイオリアの為人《ひととなり》からすれば、あり得ないのだが、人というものは自分の物差しで他人を計るものだ。それ故に慌て、戸惑い、距離を取ることは結局、変わらない。
 元々、“逆賊の弟”ではなく、聖闘士であろうアイオリア個人の誠実さを慕う者もいないではなかったが、彼らも状況の変化についていけずにいた。
 また中には妙に擦り寄り、媚び諂うような者もいるが、アイオリアの周囲はやはり、真空の空白地帯のようだ。
 だが、それで構わない。今更、人に囲まれようなどと思わない。

 苦笑が零れる。何よりも自分がなくしたものは、この心にこそ、あるらしい。
 嘗ては確かに焦がれていた兄──でも、今は何も感じない。失った悲しみも、苦しみも、残された恨みも怒りも、何一つ……。全く、何も──……。
 苦笑が失笑に変わった。砕かれつつも、僅かに残った心の欠片が確かに痛みを覚えた。
 だが、それさえも振り払うように、アイオリアは跳んだ。

 前を行っていた獅子座の黄金聖闘士の姿が瞬時に掻き消えたのに、おずおずと付いてきていた伝令達は固まった。テレポートしてしまったらしいと思い至っても、暫くは動けなかった。
 アイオリアが消えた辺りには虚しく風が吹き抜けるだけだった。



 『星矢お題』続きます。アイオリア独白チックで、舞台は『十二宮の戦い』直後です。
 今までで、一番、暗いですね。十三年間、逆境にあったわりには原作でもアニメでも、アイオリアは真直ぐな青年なのですが、内面はどうでしょう? という感じを狙ってみました☆
 アニメの方が『兄ちゃん絡み』のオリジナル・エピがある為か、若干、抱えているものが大きい感じもしたかな。もち、田中さんの絶妙な演技の賜物でもありましょう♪

2007.03.10.

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