君を想う


 高所から叩き付けられた体は、あちこちが痛んだ。相当に傷付いた聖衣だった割には良く保ってくれた。それとも、あの時、星矢に向けて小宇宙を放ったことが、ある程度はこの身も護ってくれたのだろうか。
 冷たい岩肌を肌に感じながら、漠然と思う。

……まだ、生きてる

 ならば、この身が動く限りは女神《アテナ》のために……。そのためには星矢たちに加勢しなければ……!
 なのに、全く自分の体ではないように動きが取れない。
〈くっ…、星矢……〉
 暗い意識の中で、弟子の小宇宙を探る。六年間、指導する中で育まれた小宇宙──でも、今では比べ物にならないほどに巨きくなった。けど、確かに慣れ親しんだ小宇宙を感じた。
〈まだ、生きてる。前へ、進んでいるんだね。星矢〉
 なのに、この自分は身動き一つ、指先一つ動かせない、この体たらく振り……。
〈小宇宙を……燃やすんだ。まだ、私の中に、あるのなら──〉
 だけど、意識が更に深い闇に呑み込まれそうになる。駄目かもしれない、心が弱くなる刹那だった。周囲が突然、明るくなった。
 不意に全身が温かくなる。冷え切り、滞っていた血が爆発するように流れ出したように感じた。突然の変化に、心臓が悲鳴を上げるほどだ。ところが、それさえも直ぐに鎮められていく。 
 脈動を促す小宇宙を感じる。同時に走り抜ける心臓を鷲掴みにするような痛みを和らげる小宇宙……。私のものではない、誰か他の──確かに私の知っている暖かな小宇宙。巨きく毅く、それでいて穏やかな小宇宙は──、
〈……誰?〉
 知っているはずなのに、どこか遠い、この小宇宙は──掴みかけたその瞬間、私は目を開いた。仮面越しに、木々の緑を透過した真青な空が視界に飛び込んでくる。

 体の隅々に意識を向ける。あれほど、重かった体が動くようになっている。それでも、無理をかけないように気遣いながら、ゆっくりと起き上がる。大丈夫、多少は痛みも残っているが、これなら動ける。
 改めて、周囲を見回すが、人の姿はなかった。
「夢? いや、違う。確かに誰かがヒーリングを」
 僅かに、その感触が残っている。チリチリと纏わる小宇宙の残滓の影響で、痛みばかりか疲れも少しずつ引いていく。ヒーリングの効果が持続している証拠だ。
「……ヒーリングか」
 ふと、ヒーリング能力に秀でた友人を思い起こした。私を包んでくれたあの小宇宙……夢の中のような感覚で、はっきりしないが、それでも、彼のものに似てはいなかったか?
「まさかね。あいつは十二宮のはず──」
 そこで又、思い出してしまった。とんでもなく下らない、思い出したくもないようなことを。崖下に落ちるハメになった、あのクソ野郎(そういえば、どこにも転がっていないな?)は「星矢は獅子宮で殺される」とか、信じ難いことをほざいていた。
「星矢は──」
 夢の中でも求めていた気がする。聖矢の小宇宙を改めて、辿ってみる。
 更に成長を感じさせるような小宇宙は、だが、常の生気に欠け、脈打っているように感じられる。それでも、星矢と……あれは紫龍か? 二人の小宇宙は天蠍宮から発せられている。
「蠍座《スコーピオン》のミロが相手、ということか」
 生半可な相手ではないが、ならば、三宮下の獅子宮は無事に通過したのではないか。
「全く、ジャキの野郎。下らない世迷い事で、私を動揺させる魂胆だったか」
 毒づいてみたが、何がどう私を動じさせるのか、と自分の言葉が引っかかった。

『獅子宮を守るあいつが、星矢を殺す』

 星矢が殺されること? それとも、あいつが敵に回ること?
 暫し考え込んでしまったが、頭を振る。
「もう、どうでもいいじゃないか。そんな有り得ないこと」
 現実に、星矢たちは獅子宮を抜けて、天蠍宮まで達しているのだから!
 私は殆ど無意識の内に、獅子宮周辺の小宇宙を探った。私とは比べるべくもない力の持ち主、最高位の黄金聖闘士ではあるが、確かに数少ない友人と呼べる男の小宇宙を──……。 「……え?」
 ……感じられない?
 慌てて、意識を獅子宮に集中する。だが、やはり──獅子宮には誰もいない。少なくとも、生者は。
「そ、そんな馬鹿な。まさか、星矢がアイオリアを──」
 それこそ、有り得ない。あいつは、アイオリアは私の弟子の星矢を弟のように可愛がってくれたし、時には私以上に熱心に指導もしてくれた。
 星矢の方も、そんなアイオリアを「兄貴みたいだ」なんて言って、何かというとくっ付いていたし、仮にも師匠の私の言葉には文句ばかりの癖に、アイオリアの言うことは結構、素直に従っていた。
 大体、あの二人が『殺し合い』『戦う』なんて考えられない。日本では既に一戦交えたとは聞いていても、やはり想像がつかなかった。

 けど、本当に、何らかの事情でアイオリアが星矢たちの十二宮突破を許すまいとしたら?
 どうあっても、星矢たちが通ろうとしたら?
 死に瀕した女神のために、星矢もアイオリアと戦うことを躊躇いはしないだろう。
 本気になった黄金聖闘士のアイオリアに、星矢が敵うとは思えないが、あの子の火事場の馬鹿力は時々、信じ難い力を発揮する。それで、万が一億が一にも──!

 瞬間的に思いついてしまったら、居ても立っても居られなくなった。
 まだ残る痛みを押して、立ち上がると、平衡感覚が鈍っているらしく、ふらついた。誰かのヒーリングを受けていても、ダメージは相当に大きかったようだ。
 それでも、倒れそうになるのは堪えたが──、


☆        ★        ☆        ★        ☆


「俺がどうかしたか」
 気配も何もなく、いきなり背後から声をかけられれば、大抵の者は動じるだろう。冷静沈着さに於いては白銀聖闘士随一と自負する私も、さすがに仰天した。
 気配や小宇宙の探知も得意で、背後《うしろ》を取られることなどないと信じていただけに、衝撃も大きかった。
 慌てて、振り向こうとして、バランスを崩した。
「魔鈴!」
 倒れそうになったが、腕を取られ、抱え込まれた。視界に弾けた黄金の輝きに眩暈を起こしかける。
「大丈夫か」
「……アイオリア」
 息が漏れた。今の今まで案じていた相手が、いるはずのない、こんな場所に現れれば、驚くやら戸惑うやら……。
 普段なら、信頼する友人とはいえ、いつまでも手を借りたりしないのに、些か呆けていたようで、アイオリアも不安そうに顔を覗き込んできた。
「魔鈴?」
「あぁ…、大丈夫。それより、小宇宙を抑えて、いきなり後ろに立たないでよ」
「え? ス、スマン。つい……」
 不覚を取ったくせに、八当たりに近かった。習い性なのも解っている。アイオリアは自らの“銘”を隠していたから、常に小宇宙は抑えていた。
 なのに、律儀に謝ってきた。それほどに、彼の目には私が驚いていたと映ったからか。

「何で、こんなトコにいんのよ。獅子宮を離れてもいいの」
「あぁ…。一寸、用があってな。今、戻るところだ」
 尤も、戻ったところで、待機するだけなんだが、と付け加えるアイオリアはいつものように穏やかだ。星矢たちと争い、戦ったとはやはり、思えない。
「アイオリア、星矢たちは無事に獅子宮を抜けたんだろう?」
「……あぁ。今は天蠍宮だな」
「そうだね。それじゃ、やっぱりガセだったんだ」
 アイオリアが訝しげな目を向けてきた。その目を、仮面越しに見据え、
「あんたが、獅子座のアイオリアが、星矢を殺す……そんな馬鹿な話を聞いたんだがね」
「…………」
「でも、ガセだったね、やっぱり。そうだよね。そんな馬鹿げた話は──」
「嘘じゃない」
 静かに、アイオリアが言った。呟きといえる小さな声だったけど、はっきりと耳にした。
「アイオリア?」
「確かに俺は、星矢を殺そうとした。カシオスがいなければ、間違いなく、そうなっていた」
「カシオス? シャイナの弟子のかい」
 何故、その名前が出てくるのかもよく理解らなかった。あの師弟は日本人の私らを忌み嫌っていて、何かというと突っかかってきた。
 弟子同士が共にペガサスを守護星座としていたのも不運だった。そして、宿星を持っていたのが星矢だったことも……。
 いや、それはともかくとして、本当にアイオリアが星矢を?
「何故、そんな……」
「それは……いや、理由になど意味はない。俺は星矢を、お前の弟子を殺そうとして、適わなかった。それだけだ」
 自分自身も弟子のように目をかけ、弟のように可愛がっていてくれた星矢を手にかけようとした──そこには何か事情があるに違いない。全てを負う覚悟で、そうしようとしたのか?
 けれど、アイオリアにはそこまで説明する気はないようだった。
「怒らないのか、魔鈴」
「怒る? 何故」
「何故って、だから、俺は──」
「あんたの立場も、あの馬鹿がやろうとしていることも私は解っているつもりだよ」
 そう仕向けたのは私でもあるのだしね。

『星矢、女神を護りなさい』

 何の説明もなく、その言葉だけを残したのは私だ。
「立場か。それだけなら、どれほど……」
 不意に小宇宙が揺らいだ。どんなことがあろうと、誰に何を言われようと、何をされようと、小揺るぎもしなかったアイオリアの小宇宙が、こんなにも大きく揺らぐのを初めて感じた。
「一寸、大丈夫?」
 よくよく見れば、顔色も良いとはいえない。私にヒーリングなんかしている場合ではないんじゃないのか?
 まさか、星矢との戦いの後遺症か何かか? あの星矢が獅子座のアイオリアすらも苦しめるほどに急成長したということなのか。
 だとしたら、師として喜んでやるべきかもしれないが──今は目の前のアイオリアの方が問題だ。頭を押さえ、唇を噛みしめるアイオリアの額に汗が浮かんでくる。
「く……」
 何かが違う。小宇宙の感触が──よく知っていた彼のものとは微妙に異なる。一体、何があったのか。彼の中で、何が起こっているのか。
 呼吸も乱れ、そのまま膝をついてしまったのに仰天する。私の前で、彼がこんな弱みを見せるような真似をしたことは一度としてない。

「ちょっ…、しっかりして、アイオリア。あの馬鹿弟子とやり合ったくらいで、どうかなるような、あんたじゃないだろう? あんたは、獅子座の黄金聖闘士なんだよ」
 どうやら、私が聖域にいない間に触れが出されたらしいけど、殆どの者には知られていなかったアイオリアの身分──最高最強の黄金聖闘士の一人であることは何より、彼を支えていたはずだった。獅子座の黄金聖衣が、そう認めたことこそが、彼の誇りであるはずなのに!
「……獅子座の黄金聖闘士か。それが聖衣さえ持たない、一介の雑兵に拳を振るい、死に至らしめるとは」
「アイオリア」
「カシオスだけではない。白銀聖闘士たちも……俺は」
 その言葉の意味はよく解らなかった。多分、私がいない間に、他の白銀聖闘士とも何かあったのだろうけど、そこまで頓着している場合でもなかった。
「魔鈴。俺は、自分が恐ろしい。常に、己に戒めていたはずなのに──」

戒め──力持てし者としての戒め
力なき者を守ること
力なき者に故なく、いや、故あったとしても
力を揮うような真似など、潔しとせぬこと

 アイオリアが誰に何をされても、何と罵られようとも、されるがままで受け止めるだけだったのは“逆賊の弟”という境遇に甘んじていたためだけではなかった。
 それが“力ある者”としてのアイオリアの矜持だったんだ。そして、それを支えるだけの毅き心、強靭な精神力を彼は備えているはずだった。
 なのに、その彼が、力なき雑兵を、あのカシオスを殺した?
「……力とは、恐ろしい。己を超えた力の前には誰もが無力だ。戒めなど、何の意味もなさない。俺は、抗し切れなかった。あの衝動に……。何もかもを破壊しろ。目の前の、敵を殺せと。……思うままに力を揮うことが、何一つ抑えずに解放することが、途轍もなく楽で、心地好くさえあって──……」
 紡ぎ出される言葉に、ふと初めて聖衣を身に纏った時のことを思い出した。それまでとは比べ物にならない力を揮えるようになった瞬間、自分は何でもできると錯覚さえしてしまう者もいるほどだ。


★        ☆        ★        ☆        ★


「──痛ッ」
 いきなり痛みに思考を断ち切られる。まるで縋るように、両手が伸ばされていた。絞り出される声と同じく、小刻みに震える手が……。
 見たくなどない。聞きたくもなかった。聖闘士として尊敬さえしていた。届くはずのない高みにいても尚、目標だった。友人と認められたことが誇らしくもあった獅子座の黄金聖闘士。
 どれほど、辛かろうが苦しかろうが、泣き言一つ愚痴一つ零さずに真直ぐに前を見据え、立っていた姿は美しくさえあって、目を逸らせなかった。
 そんな彼が弱音を吐くなど、到底認め難い!
 私は……そんな彼も、やはり一人の人間に過ぎないということを忘れていた。美しい夢に、ただただ縋りたかったのは私なのかもしれない。

「今も、頭の中で、声がする。心の奥底で、もう一人の俺が囁くんだ。もう、力を抑える必要などない。見せ付けてやれ、と……。今まで──お前を虐げてきた者どもに……」
 思えば、アイオリアにはいつでも、それが可能だったんだ。そんな最悪の事態を免れていたのは偏に、アイオリア自身の意思の強さによるもので、彼を打ち据えていた連中は薄氷の上に立っていることなど、考えもしなかっただろうさ。
〈それも、極寒の海かもね〉
 極寒の海なら、氷は厚く、薄氷などではないだろうけど。
 ともかく、そうはならなかった。アイオリアの兄アイオロスが横死し、“逆賊”にと落とされてから、十三年余──アイオリアは決して、己を見失わなかった。逆風を物ともせず、立ち続けてきたじゃないかっ。
 それは、雑兵に過ぎないカシオスを手にかけてしまったのは、誇りある黄金聖闘士たるアイオリアには痛手だろうとは解る。
 それがアイオリア自身の決断の上でのことならば、これほど、彼も苦悶せずに済んだだろう。実際、黄金聖闘士と同等以上の敵手《もの》など、限られている。これまでのアイオリアの任務は厳しいものが多かったはずだけど、それでも、力劣る者を倒してきたこととてあったはずだ。
 日本でアイオリアが星矢と戦ったという話も──今ならば、信じられる。そして、その時のアイオリアは己の意思で選択したに違いない。星矢と戦い、始末をつけることまでも!
 けれど、獅子宮では違った……。
「俺の弱さが…、星矢を傷付け、カシオスを殺し……アテナまでも…っ」
 あぁ、貴重な時間を奪って、女神を余計な危険に曝したことも、あんたの聖闘士の誇りを傷付けたんだね。
 でもね、あんたが乗り越えられないはずがない。乗り越えて貰わないと、困るじゃないかっ。
 あんたに憧れさえ抱いていた、私の立場はどうなるのさっ!
 相当に好き勝手なことを、当然の権利のように思い、私は喚いていた。

「しっかりしなよっ」
「情けないっ」
「それでも、黄金聖闘士かいっっ」
「黄金聖衣が泣いてるよ!」

 冷静沈着をモットーとしていたはずが、次から次へと罵倒するが如き言葉が飛び出した。
 私は……あんたに怒って貰いたかったんだ。「勝手なことを言うな」でも「お前に何が解る」でも何でもいいから、あんたを怒らせたかった。
 なのに、あんたは怒るどころか、自嘲気味に自分自身を罰するんだ。
「……黄金聖衣か。今の俺には、酷く…重い」
「馬鹿言わないでよ。獅子座の黄金聖衣はまだ、あんたを護ってるじゃないのさっ。応えてらなくて、どうするんだいっ」
「…………」
 それでも、アイオリアは顔を上げない。それほど、カシオスを殺した、という現実は彼には重かったということなんだ。
 聖闘士であっても、一人の人間──そして、アイオリアは人としての痛みをちゃんと知っている奴なんだ。だからこそ、他人を、特に弱者を傷つけることを恐れるんだ。

 ……だったら、何も心配することも全然ないんだ。一度くらい箍を外したからって、何だい! そもそも、あんたは我慢しすぎるんだよ。力じゃない、心を抑える必要なんて、ないじゃないかっ!!
「いいじゃないか。痛みを知る必要があるのは他の連中だよ。この際、教えてやったら?」
「……魔鈴? 何を──」
 自分でも乱暴なことを言っている自覚はあった。黄金聖闘士が抑制せずに力を揮えば、どうなるか? 想像するに難くはない。
 アイオリアはこれまで、私や星矢や候補生相手の手合わせに付き合ってくれたけど、それはあくまでも、指導する者としてでしかない。本気の欠片もない──といったら、アイオリアに失礼だろうな。全く、別のことなのだから。

「痛みを、教えてやれって言ってんのさ。十年以上も言われなき罪で、あんたを散々に足蹴にしてきた連中だよ。何の遠慮があるってんだい。赦してやるなんて、お人好しもいいトコだよ」
「…………そんなことは、できない」
 小さく、弱々しく抗するアイオリアに腹が立つ。私如きの言葉に、獅子座の黄金聖闘士が何、動揺してんのさ。それくらいなら!
「何故さ、黄金聖闘士の面子かい?」
「魔鈴……」
「最高最強の黄金聖闘士が、格下相手に本気になるのは沽券に関わるから? だから、されるがままだってのかいっ」
「それは──だが……」
 否定しない。否定できない。当然だね。でも、私には解らない。至高の聖闘士の誇りなんて、下賎の者には解らないんだろうさっ!
「それが何さっ。あんた自身の、人としての矜持はどうなるのさ。いつだって、ゴミみたいに扱われて、蔑まれて──怒らない方がどうかしてるよ!! あいつらに今更、文句が言えるもんか。幾らだって、報復してやりゃいいんだよ」
「……できない」
「どうしてだよっ」
「俺が望まないからだっ!!」
 アイオリアが、叫んだ。彼の叫びなぞ、ついぞ聞いた覚えはない。初めてのことに、私も言葉を切り、暫くはそんな彼を見つめていた。。

 確認するように問うたのは、どれほど経ってからだったろう。
「望まない?」
「そうだ…。そんなことは、望んでいない…っ」
 顔を伏せたまま、ただ、絞り出されるような声で繰り返すだけなのには溜息しか出てこない。
 本当に、人を傷つけるのが嫌なんだね。黄金聖闘士のくせに、最強の戦士の一人のくせに、あんたは──、
「……そう。あんたは、優しいね」
 弾かれたようにアイオリアが顔を上げた。思いもかけないことを言われたかに。そう、あれだ。鳩が豆鉄砲食らったような顔、って奴だ。うっかり可愛い、とか思っちまったじゃないか。
「だったら、アイオリア。やっぱり心配することなんてないじゃないか。あんたは、望まない限り、人を傷つけたりはしない。そんなことは、できないんだからね。……そして、あんたが、そんなことを望むはずもないんだ」
 これは暗示みたいなものかもしれない。
「だから、大丈夫だよ。大体ね、そんな声は私にだって、時々、聞こえるよ。あの憎ったらしい星矢をいっそ蹴り殺しちまえと何度、囁かれたことか」
「マ、魔鈴;;;」
 さすがにアイオリアが苦笑した。あぁ、良かった。漸く、いつものアイオリアだ。
「……大丈夫か、俺は」
「そう、大丈夫だよ」
「魔鈴…、もう一度、言ってくれ」
「? あんたは、大丈夫だよ」
「……もう一度」
「獅子座のアイオリア。あんたはもう、揺るがない。だから、心配はいらない」
 本当に暗示をかけている気分になってきた。
 黄金聖衣を纏った黄金聖闘士が私なんかの腕の中で、目を閉じて、私の言葉に聞き入っている──傍で見れば、妙な光景だろうなぁ、とぼんやりと思う。
「大丈夫……。俺は、大丈夫だな?」
「百回くらい、言ってやろうか」
「いや…、もう十分だ」
 顔を上げたアイオリアが身を引いた。腕の中から消えていく、その質感に僅かに残念だな、とか思ってしまうのは何故だろう。

「そっ。んじゃ、お願いがあるんだけど」
「何だ?」
「いい加減、手を離してくれない?」
「え゛? ──スッ、済まん!」
 慌てて、離してくれたのに、フゥと一息つく。あぁ、マジに折れるかと思った。アイオリアは大して力を入れたつもりはなかったかもしれないけど、何しろ、黄金聖衣まで着けているのだから、これ以上はヤバかったかも。
 ヒラヒラさせていると、申し訳なさそうに窺ってくる。
「痛むか?」
「一寸、ヒリヒリするだけよ。一応、小宇宙で防御はしていたからね」
 局部に小宇宙を集中させて、防御する技はアイオリアに教えて貰ったものだ。
「ヒーリングするか」
「大したことないって。それより、あんた。獅子宮に戻るトコだったんでしょう」
「あぁ…。魔鈴はこれから、どうするつもりなんだ。星矢を追うのか?」
「そうだねぇ……」
 とはいえ、あの馬鹿はもう天蠍宮まで行っているし、大体、疾うに白銀聖闘士の小宇宙をも越えている星矢に助勢できるとも思えない。
 それより、この機会に気になることでも調べてみようか。星矢たちのお陰で聖域中が浮足立っている今がチャンスかもしれない。
「気になる?」
「教皇のことさ。前々から噂されていたけど、やっぱり何らかの秘密がありそうだしね」
 アイオリアが不自然に黙り込んだことに、この時の私は気付かなかった。
「スターヒルにでも登ってみようかな」
「スターヒルだって? あそこは」
「教皇のための“星見の丘”……。丘というよりは険しい山だけどね」
「立ち入れるのは教皇だけだ。道を知っている者など」
「だから、文字通り登ってやろうかと思ってるのさ」
「攀じ登るつもりか。道なき道を」
 呆れたようなアイオリアの言葉に肩を竦めながらも、頷いてみせる。
「教皇だけが立ち入れるってことは、何があろうと、他の誰も気付かずにいるってことだろう?」
 止めても無駄、とか思っているのかもしれない。一つ溜息をついたアイオリアに、いきなり引き寄せられる。
「な…っ!?」
 確りと抱き込まれて、身動きが取れなくなる。さっき、倒れそうになったのを支えられたのとは違う。理由《わけ》も解らず、さすがに狼狽える。仮面の下で頬が熱くなるのを感じた。
「ちょ…、アイオリア?」
「同調してくれ。もう一度、ヒーリングする」
「え?」
「さすがに同調せずにやるのは今は無理なんだ」
 何だ、ヒーリングか。私は、何を考えたんだろう? 何となく、気恥ずかしさを覚え、考えを振り払って、小宇宙の同調に意識を向ける。ヒーリングの同調も施療者だけでやるのと、双方が同調するのでは効果が違うし、施療者側の負担も減る。
 けど、少し気にかかる。今も「同調せずにヒーリングするのは無理」とか言っていた。こちらが同調しないでも、簡単に相手とのヒーリング同調を行うどころか、同調なしの『傷を引き受ける』ことまで可能なアイオリアなのに……。
 でも、本当に暖かい。陽の光のように、暖かい小宇宙は酷く心地好い。
 思えば、殺伐とした聖域で、温かさを覚えたのはアイオリアや星矢と接する時くらいだったな。何だかんだで、あの馬鹿弟子を迎えてからは私も随分と救われたような気がする。多分、アイオリアも……。
「……どうだ」
「ん…。楽になった。ありがとう」
「あぁ」
 暖かな小宇宙は鎮められ、直ぐにアイオリアも離れた。あぁ、まただ。何だって、こんなに胸が痛むんだろう。

「…ッ」
 不意にアイオリアが顔を歪め、額に手をやったのに我に返る。今度は胸が騒ぐ。不安で、心配なんだと思うけど。
「どうしたの」
「あぁ、いや。ムウだ」
「ムウ? 牡羊座《アリエス》のムウかい。何かあったの」
「いや…。ヒーリングしたのがバレた」
「バレた? バレたからって、何が」
 わざわざ、テレパシーで文句でも言ったきたってこと? そこで思いつく。
「一寸! まさか、ヒーリングを使うなとか言われてるの!?」
「え? あー、まぁ、そんなこともあった……かな?」
「誤魔化しなさんな! そんなに調子悪いわけっ?」
 自分だけでのヒーリング同調も難しいほどに? 目を逸らすな、この馬鹿っ!
「いや、だが、お前も相当に危なかったんだぞ。見付けた時は」
 あ、そうだった。忘れてたよ。崖から落ちて──やっぱし結構、危険な状態だったんだ。アイオリアのお陰で、今更、他人事みたいだ。
「そりゃ、礼を言うべきなのは解ってるけど、さっきのは余計だよ。少しは自分の心配もしな」
 説教しつつも、無駄になるような気分で一杯だ。こういう奴なんだよな。本トに……。
「だが、スターヒルを登るのだろう。本調子でないと難しいぞ」
「……そうだね。有り難う。後で会うことがあったら、私からアリエスに謝っておくよ」
「あんまり、意味ないぞ。多分」
 苦笑するアイオリアは本当にいつもと変わらない様子に戻っていた。一寸だけ、淋しいかも……とか思ってしまう。

 アイオリアが弱みを見せる相手がどれだけ、いるのかは解らない。というより、殆どいないんじゃないかと信じているくらいだ。アイオリアをずっと気遣ってきたスコーピオンにすら──余計に気遣わせてしまうからこそ、絶対に弱みなんて感じさせないような気がする。
 そんなアイオリアが、今回だけだとしても私に──この一度限りだとしても弱音を吐いたのは、貴重な体験には違いないし、これで、少しでもアイオリアの力になれたのなら、十分だと思えた。……思うしかないね。
 本当は、もっと、もっともっと、力になりたいのに。これまで、あんたが私の力になってくれた、せめて半分……。いいや、半分とはいわない。ほんの一部でもいいから、返してやりたい。そう思うけど、あんたは独りで立ち続けるんだろうね。
 それは、一寸だけなんてものじゃないな。本当に、淋しいよ……。



「それじゃ、魔鈴。気を付けてな」
 あんたが私を止めないのは、やっぱり「止めても無駄」とか思ってるから? それとも、私を信じてくれているから?
「……あんたもね。あんまり無茶しないで、獅子宮で大人しくしてな」
「それは星矢たち次第だがな。場合によっては教皇と一戦交えねばならん」
「アイオリア」
「今度は、負けない。“彼”にはもう屈しない」
 止めても無駄、なのは寧ろ、あんたの方だね。アリエスにヒーリングさえ止められている状態なのに、教皇と戦うってのかい?
「……尤も、その必要もないかもしれんがな」
 小さく付け加え、私を見て微笑んだ。
「お前の弟子は、大きな奴だな。星矢なら、彼らなら、アテナを救えるだろう」
「あんまり煽てないでよね。あの馬鹿が付け上がるから」
 本当に、アイオリアに褒められると、いつだって舞い上がっていたもんだ。調子に乗りすぎて、ハメ外したりもしてたけど。
「相変わらず、厳しいな。魔鈴は」
 苦笑するアイオリアがもう獅子宮で、最上級の褒め言葉を星矢(たち)に贈ったことなんて、この時の私は知る由もなくて──ただ、そんな弟子の成長を頼もしくも、嬉しく思う反面、やっぱり少しだけ癪に障った。
 あんたに友人として認められるのは確かに誇らしい。けど、聖闘士としてはどう見られているんだろうって。
「それじゃ、気を付けてな」
 さっきと同じ注意をもう一度するってのはアイオリアには私が危なっかしく見えるってことなのかね。
 私は一度、空を仰いでから、去っていくアイオリアを見送った。今回は任務ではないけど、こんな風に見送ったことは何度もあった。

いつだって、独りで行く獅子座の黄金聖闘士
独りで、歩み行く
立ち続ける
……誰の支えも必要としない毅い人

 理解ってるんだよ、そんなことは。
 それでも、そんなあんたが誰かの手を必要とする瞬間《とき》があるのなら、その手を差し伸べるのは他の誰でもなく、私でありたい。
「フッ…。黄金聖闘士の支えになりたいだなんて、傲慢かねぇ」
 傲慢でも何でもいいさ。ただ、私が望むことに過ぎないから……。
 次第に離れていく彼の小宇宙はもう揺るぎない。その小宇宙が、また揺らぐことは二度とないかもしれない。そんな次の機会なんて、もう訪れないかもしれない。
 でも、来るかもしれない。その瞬間には、この手を取って欲しいから……。
 変だね。あんたの弱さなんか見たくもない。けど、見せるのなら、私にだけ──そんな風に思うなんて、矛盾もいいトコさ。
 でも、それが今の私の偽ざる気持ちって奴だ。

 アイオリアの小宇宙が感じられなくなった。勿論、意識を向けて探れば、獅子宮に向かっているのは察知できるだろうけど、かなり離れたってことか。
「さてと、それじゃ、山登りといきますか」
 気分を切り替えて、歩き出した私は、迂闊にも気付かなかった。疾うに獅子宮へと戻っていってしまったと思っていたアイオリアがまだ近くにいたことに。
 小宇宙を極限まで抑えるのは殆ど十八番《オハコ》なんだろうけどね。
「……本当に、気をつけていけよ。魔鈴」
 あんたが心配してくれるのは少しは私の存在が、あんたの役に立っているから、かね?
 どんな形でもいいから、あんたに必要とされるのなら、それでいいのかもしれないね。



 魔鈴さん語り第二弾☆ 結構、勇んで書き始めたのに、途中で上手く展開できなくなって、暫くほったらかし状態になってました。時間を置いて、何とか話を繋げられるようになったけど、落ちの纏めでまた一苦労^^;
 基本
『リア魔鈴』とはいえ、やはし甘々になりようがないっス。つーか、お前ら全然、『自覚』ないだろ!? と言いたい。自分で書いておきながら、酷い言い草やな。
 でも、アイオリアは心配してくれる相手には絶対に余計な心配はさせたくないから、弱みなんか見せないだろうなぁ、と。それは『復活後』も同じで、アイオロス兄さんには一番、隙なく接するんじゃないかと。『弟に甘えて欲しい』兄ちゃんの野望達成はいつになることやら^^
 魔鈴の立ち位置
『聖闘士としては格下』であり、しかも『女性』であるが故に、逆に一寸だけ弱音を吐くかも? とか思えます。……そーいや、アイオリアって、両親(特に母親)を知っているのかな? 二次創作物では『母親は彼の出産のために死んだ』とか『名前はアイオロスがつけた』とか『聖域で育った』とかが多いけど。兄貴は殆ど親代わりでもあったと。
 因みに、魔鈴が崖から落ちたり、アイオリアが獅子宮を出てきたり、というのはアニメ版展開より。勿論、アニメでもここで二人が会ってるなんてことはないですがね。
 『弱者に手を出さないアイオリア』も基本的には……つーことで;;; 実際、結構、手を出してます。シャイナさんとか、教皇宮の兵達とか……でも、本気じゃないので★ あれは一寸、撫でただけ、とか(爆) いや、でも、聖衣装着で生身の兵本気で吹き飛ばしたら、あんなもんじゃ済まんでしょう。スプラッタ確実^^;;;

2007.06.13.

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