信 念


 ある日を境に、それは珍しくもない光景となった。
 一人の少年が大勢に取り囲まれ、小突き回されている。陽光を弾く金髪が人垣の中に見え隠れする。俯いた顔からは表情は読み取れないが、唇はキツく噛みしめられている。
 だが、私には庇うつもりなど毛頭なく、傍らを通り過ぎる。
 魚座《ピスケス》の黄金聖闘士である私が通る時は取り繕うように、手出しをする者はいなかった。巧妙に、少年の姿を隠そうともしていた。勿論、小宇宙を感じられるのだから、無意味な行為なのだが、そんなことも解っていないのだろう。
 そして、私が背を見せた瞬間、背後の気配も一変した。
「この逆賊の弟が」
「聖闘士を目指そうだなんて、おこがましいんだよ」
「何様のつもりだ。この恥知らずが」
「いつまで、聖域《ここ》にいるつもりだ」
「とっとと死ね」
 ありとあらゆる罵詈雑言が飛びかっている。更にエスカレートしているのは明らかだ。
 だが、その金髪の少年の反応は弱い。殆ど声も漏らさない少年に、周囲は焦れたらしく、強い殴打音が届き始めた。
 その頃には私は大分、離れていたのだが、一度だけ振り返ってしまった。
 それが何故なのか、未だに理解できない。
 『力ある者が勝つ』──結局のところ、力を信奉する私にすれば、打たれるだけの子供など、見るべき価値なぞ、ないはずだったものを……。
 姿はもう見えなかった。だが、秘められた小宇宙は存在を示す。抑えられてはいても、その輝きは映る。私は、息を呑んでしまった。
「……アイオ、ロス?」
 今は殆どの者が口にすることを憚る禁忌の名が、零れた。

 射手座の小宇宙は消え失せたはずなのに、あの獅子座の小宇宙は何故、こうも──。
 道を戻ったのは確めてみたかったからだ。
 あの強く、気高くもあった射手座の黄金聖闘士──己の信ずるままに行動し、聖域中に追われ、弟を置いてでも、女神を救った。その命をも賭して……。
 そうして、女神は聖域から消え、射手座の黄金聖衣も消えた。
 今、どこにいて、どこにあるのか……。
 いつか……いつの日か、その両者がこの聖域に戻る時もあるのだろうか。
 その時は、私たちの“罪”とやらも白日の下に曝されるのだろうか。
「馬鹿なことを……」
 私は、恐れているのだろうか。それとも、期待しているのだろうか。
 そして、その射手座のアイオロスが、逆賊の汚名の他に聖域に残した唯一つの存在《もの》が、獅子座のアイオリア。今、他の候補生達に足蹴にされている少年、アイオロスの実弟だ。

 私が戻ったことに、暴行に夢中の連中は気付きもしなかった。
 黄金聖闘士の本来の小宇宙は他者には──黄金聖闘士に次ぐ白銀聖闘士であってさえも、巨大過ぎる余りに悪影響を及ぼすので、抑えられているため、仕方がないとはいえ、こいつらの周囲への無関心さはどうだ。 
 全く、「聖闘士を目指すなど、おこがましい」などと言っていたが、アイオリアが既に黄金聖闘士であることを、悟りもできない連中こそ、聖闘士になれる道理もあるわけがない。
 現に連中に囲まれて、転がされているアイオリアはこちらを見ていないにも拘らず、私が近づいたことに反応を示した。ただ、それだけだが。これで、私に助けを求めるように、顔でも上げれば、まだ可愛げもあるものを。
 尤も、そんなことをされたら、多分、私は腹立たしく思うだろう。

 暴行は続いている。殴る蹴るのしたい放題に、アイオリアは全く抵抗していない。……が、急所だけは巧く守っている。どれも大して、効いているようには見えなかった。
 罰を与えているつもりの馬鹿どもはやはり、全く気付いていない。笑えるな。要するに、この馬鹿どもはアイオリアに全然、相手にされていないということか。
 しかし、何と、醜悪な光景だろうか。無性に苛立たしさを覚え、僅かに小宇宙を高めた。
 打たれたように、有象無象どもが動きを止める。
「魚座《ピスケス》様」
「アフロディーテ様」
 慌てて、アイオリアから離れたが、蹲ったままで、顔を上げない。
「おい! 立てっ」
 無理矢理、引っ立てようとする姿に、虫唾が走る。
「見苦しいな」
 ポカンと馬鹿みたいに口を開くな。しかも、次には追従に走る。
「全くです。こいつときたら、薄汚い逆賊の弟で」
「形《なり》も汚いし」
「ピスケス様のお目汚しをして、申し訳も──」
 耳も汚れるとは斯くの如きか。

「勘違いをするな。私が見苦しいと言ったのは、お前たちのことだ」
 私の言葉の意味を、直ぐには理解できずにいるようだ。間抜けなこと他ならない。数瞬、遅れて、反応する。
「な、何を──」
「幾ら、ピスケス様でも、そのようなお言葉は」
「心外です!」
「我々は──」
「このような逆徒なぞを、庇われるのですか!?」
 よくもまぁ、次から次へと!
「囀《さえずる》るな、喧しい。相手が誰かなど関係はない。手出しをしてこないと判っている者を多勢で打ち据えるなぞ、醜悪もいいところだ」
「そんな! しかし、こいつはっ」
「お前達、言葉も理解できないとみえる。誰が相手でも、と言ったはずだぞ」
 馬鹿どもは言葉に詰まり、戸惑っている様子だった。
 私は勿論、“逆賊の弟”とやらを庇ったつもりはない。結果的に、そうなったとしても、私が文字通り、見ていられなかったのはこの馬鹿どもの行いそのものだ。
「消えてくれないか」
 ほんの僅か、威嚇の小宇宙を高めてみる。効果は覿面で、馬鹿どもは震え上がった。顔を見合わせ、誰からともなく背を向けると、駆け出した。
 全く、本当に見苦しい。黄金聖闘士がほんの少し小宇宙を高めただけで逃げ出すなぞ。聖闘士を目指すのも、おこがましいとは誰のことだ。
 これ以上、そんな馬鹿どものことを考えるのも時間の無駄遣いだ。思い出すのも御免だ。

 残された少年を見遣る。地に転がされたまま、動かない。気を失っている──わけでもない。暴行していたつもりの連中が信じるほど、効いていないのだから当然だ。
「往来の邪魔だ。いい加減、起きたまえ」
 少年は物憂げに体を起こし、ゆっくりと顔を上げた。私よりも二歳年下で、まだまだ幼いといえるのに、甘ったれた幼さを全く感じさせない。嘗て、彼の兄がいた頃にはあったにしても、完全に払拭されている。
 金の髪に隠されていた新緑の瞳は感情を帯びていない。ガラス玉のような瞳……。なのに、生気がないわけではなく、鋭く輝く。
〈あぁ…、だから、あの馬鹿どもも放っておけないのか〉
 聖域中から蔑まれても、打ち据えられても、怯みを見せない少年。力を抑えていようとも、黄金聖闘士だけのことはある。その存在感故に、無視も出来ずにちょっかいを出す馬鹿がいるわけか。
 アイオリアは特に私を意識もせず、立ち上がる。暫し観察していると、腕の傷を舐めているのには苦笑する。
「君は猫か」
 軽く目を瞠った金の毛並の仔猫は腕を下ろした。
 さて、この私も彼を放っておけないと思っているのだろうか?
「傷の手当をしてやろう。ついてきたまえ」
「────」
 アイオリアは訝しげに見返してきた。
 「何を言い出すのだ、こいつは」とでも言いたげな不審そうな顔だ。
 急に私は可笑しくなった。何だ、この辺は昔とそんなに変わっていない。面白いように、顔に出ていたあの頃と。
「さて、君も言葉を解さないのかな。手当をしてやると言っているんだ」
 さぁ、どう出る?
「必要ありません。大した怪我ではありませんから」
 久々に耳にした声は、まだ声変わりはしていないのに、すっかり大人の如き響きを持つ。自分を守るためにか、急いで大人になろうとしているのだ。
「そのようだね。でもまぁ、付き合ってよ。お茶も御馳走しよう」
 私の申し出に、明らかな戸惑いが浮かぶ。
「どうして、構うのです?」
 逆賊の弟などに──言葉にならない問いは無視しても良かったが、
「ただの気紛れだよ」
「──なるほど。それは如何にも、貴方らしい」
 気紛れな魚座《ピスケス》と、聖域では言われている。いや、そう思わせているのは大分、浸透しているらしい。

☆        ★        ☆        ★        ☆

 連れ立って、歩いていたわけではない。とっとと進む私の後ろを、アイオリアは数歩だけ遅れて、ついてくる。
 普段なら、彼が聖域内を歩くだけで、罵詈雑言が飛び交うのだが、状況を見れば、私が連れているのは明らかだ。
 『魚座のアフロディーテが逆賊の弟を連れ歩いている』──それはそれで、想像を逞しくする連中は幾らでもいた。

『逆賊の弟が、何かしでかしたのか』
『ピスケス様は、何だって、あんな奴を──』
『十二宮に向かっているぞ』
『とうとう、教皇様が決断されたのではないか』
『やっと、聖域から追放されるんじゃないのか』

 切れ切れに届く推測は聞いている分には結構、面白い。しかし、然程にバリエーションはない。まぁ、余りにも馬鹿げた予想だけはしないで貰いたいが。
 十二宮へと至る階段付近まで来ると、人気がなくなる。この先は限られた者しか進めない。許可なく通れる者は尚更だ。我ら黄金聖闘士はその数少ない例だ。
 だが、その黄金聖闘士も本来の数からすれば、少ない。現在の十二宮は最低、五宮が無人の宮だ。その一つは後をついてくるアイオリアが本来、守るべき獅子宮だった。この数年“アイオロスの謀叛”以来、アイオリアは一度として、立ち入りを許されてはいないが。

 十二宮の玄関口、白羊宮は無人だった。
 現在、実質上の第一宮・金牛宮の守護者、牡牛座《タウルス》のアルデバランは常駐していた。前と後の宮が完全に無人なので、聖域にいることが殆どだ。宮におらずとも、他の聖闘士や兵などの指導を行っている。
 アイオリアとは同年の十歳のはずだが、年嵩の私などよりも余程、立派な体格をしている。久々に、アイオリアを十二宮で見て、驚きを隠さなかった。
「アフロディーテ。アイオリアが何か……。まさか、教皇様が──」
 遠目には青年ともいえる体なのに、やはり、声変わりはまだなのが妙に違和感がある。
「いや、私の気紛れだから、心配はしないでくれ」
「気紛れって──」
「君が証人になってくれると有り難いな。この子は私の気紛れに付き合って、十二宮に来てくれた、とね」
 私達が会話を交わしている間も、当のアイオリアは大した反応も見せずに、ただ凝と前方を、十二宮の上方を見上げている。彼が見ているのは獅子宮か、それとも、兄の宮か……。
 証人になることを請け負ってくれたアルデバランに礼を言い、上を目指す。
 アルデバランは気の良い奴だ。真直ぐで純朴で……戦士たる聖闘士にしては真直ぐすぎる嫌いもある。アイオリアに関わることで、場合によっては自らが不利になりかねないとは考えない。正しく、年齢に見合わぬ質実剛健な気質といえる。
 そこから獅子宮までの二宮は無人だった。続く双児宮は元々、守護者がない。巨蟹宮の悪友は任務に出ているはずだ。この子を連れているのを見られたら、何と言うだろうか。
 そして、それらを越えての獅子宮──アイオリアが守護すべき宮。

 アイオリアが絶句しているのが判る。背後の気配が覿面に変わった。ゆっくりと振り向き、その表情を確める。
 この子が、これほどに茫然としているところを久方振りに見た。
「……荒れているだろう?」
「────」
 白羊宮と双児宮、天秤宮に人馬宮、そして、獅子宮──様々な事情から守護者が不在の宮は程度はあれ、一様に荒れている。
 だが、私の目には獅子宮の荒れ様が一番、酷いと映る。完全に“光の結界”が失せており、聖域全体の“アテナ結界”までをも蝕んでいるようだからだ。
 これは守護者が近くにいるにも拘らず、長いこと宮に入らずに、結界維持を行っていないためだ。中途半端な結界保持がされた状態といえる。
 無人宮の内、白羊宮と天秤宮は遥か遠くに在る守護者が完全に機能を停止させてしまっている。守護者が喪失《うしな》われた人馬宮は死んだ状態だ。双児宮には──実は守護者がおり、それを秘するために、やはり機能停止している。
 故に、この四宮は“アテナ結界”に悪影響は与えない。獅子宮だけが『辛うじて、生きている』ために、逆に癌になりつつあるのだ。 聖域全体を覆う“アテナ結界”の中核は十二宮結界だ。守護者たる黄金聖闘士が宮に入り、小宇宙を同調させることで、各宮の結界が強化保持され、“アテナ結界”にも織り込まれ、相乗効果を得る。
 つまり、結界の強度は足していくというものではない。十二宮の半数近い五宮もの宮が無人宮では──況してや、アテナ神殿に御座すとされている女神《アテナ》が実は行方知れず、生死すら不明のままでは結界保持は心許ないといわざるを得ない。

 改めて、アイオリアを見遣る。守護すべき宮の無惨な有様に顔を歪めている。誰に罵詈雑言を浴びせられ、激しく殴打されても、顔色一つ変えなかった少年が、こんなにも動揺し、辛そうな顔をしている。
 呼応するかのように、獅子宮が仄かな光を帯びた。それは黄金聖闘士や優れた高位神官の力がなければ、目にすることは叶わないが、久方振りに主が現れたことに、獅子宮が喜んでいるのだ。
〈あぁ…。やはり、この子こそがこの宮の守護者だ〉
 聖域の思惑も、アイオリアの境遇も何も関係はない。獅子座のための宮も聖衣も、それを認めているのだから……。
 やはり、これは潮時なのだ。
 クスリと笑んで、私は決めた。
「お茶は止めだ。アイオリア、獅子宮に入って、守護結界を修復し、強化していくといい」
「……え?」
 アイオリアの反応が遅れた。弾かれたように振り向き、私を見返す。ガラス玉のようだった瞳に忽ち生気が漲る。そして、僅かに浮かんだ嬉しそうな微笑……。
 だが、それらは瞬時に掻き消された。何という精神力だろう。我に返って、理性で抑え込んだのだ。
「そのような命令は、受けておりません」
 彼は教皇からの直接命令なくしては何一つ、己の意志では何も行えない。そして、この数年、教皇はアイオリアを放置し、聖闘士としての命など、何も与えてはいない。獅子宮の守護者としての命すらも……。
 それも当然か。“アイオロスの謀叛”の際、アイオリアは形式上では獅子座の黄金聖闘士としての資格を剥奪されている。無論、獅子座の黄金聖衣も返上させられ、今は此処獅子宮に安置されている。
 だが、もう潮時だ。成行半分で、私がこの子を獅子宮《ここ》に連れてきてしまった──改めて、獅子座の黄金聖衣がこの子を主だと選ぶことになるのだ。
「うん、解っている。それは私から、教皇様に申し上げておくよ」
「でも……」
 言葉を呑み込むのは私の勧めに抗い難い魅力を感じているからだろう。
「さぁ、早く。結界の綻びを直したら、お茶を御馳走しよう」
 お茶のことなど、本当はどうでもいい。今はこの子が聖衣を身に纏い、その小宇宙の高まりを見たかった。
 アイオロスに良く似た──それでいて、全く異なる輝きを放つだろう獅子の小宇宙を……。
「さぁ、呼んでごらん。獅子座《レオ》の聖衣を」
 応えるだろうか? いや、そんなことは最初から決まっている。疾うに獅子座の黄金聖衣は選んでいる。
 聖域のしがらみが奪おうとしても、宿星の在り様が変わらない限りは、そこに輝いている。
 そして、その輝きそのものをアイオリアから奪うことなど、誰にもできなかったのだ。
「さぁ、呼びなさい」
 私の声など、届いていないのかもしれない。だが、獅子宮を凝視していた少年がその瞳を閉じた──瞬間、眩い光が弾け飛ぶ。反射的に腕を上げ、目を眇める。
「──お美事」
 そこには確りと獅子座の黄金聖衣を纏った黄金聖闘士がいた。
 正しく、獅子座の黄金聖闘士の誕生だ……。

 聖衣の装着は聖闘士の心身を昂揚させる──久々の感覚に、少年の顔が上気している。
「さぁ、獅子座のアイオリア。結界を」
 僅かに途惑いを見せたのは一瞬。正式の教皇の命を受けたわけではないのだから、無理もない。だが、数年振りに聖衣を纏い、しかも、光を喪失った自宮を眼前にして、無為のままではいられまい。
 獅子座のアイオリアはゆっくりと獅子宮へと入っていった。

★        ☆        ★        ☆        ★

 私は動かず、静かに様子を見守る。
 我々、黄金聖闘士は十二宮の守護者。無論、物理的な攻撃にも対処するが、より平常的な役目が各宮の守護結界を維持し、“アテナ結界”に同調させることに他ならない。
 その『作業』は酷く面倒だが、感覚的なものでもある。聖域全体を守護する大いなる“アテナ結界”に織り込むように拡げていく。
 アイオリアにはこの『作業』も当然ながら、久し振りだが……。心配など無用だった。程なく、爆発的な光芒が獅子宮中央部から立ち昇ったのだ。
「これは──凄いな」
 この数年は碌な訓練も受けていないはず。だが、この小宇宙の高まりはどうだ!?
 黄金聖衣を纏っただけで、強くなれるわけでも、強大な力を揮えるわけでもない。逆に聖衣に振り回されれば、ただの重荷にしかならないのだ。
 だが、あの幼い獅子座は黄金聖衣を完全に己のものとしている。この数年、決して鍛錬を怠ってはいなかったのだ。
「心の毅さ……ということか」
 あれほどの逆境の中でも揺るぐことなく、己を保っている。そこまで、彼を支えているのはある意味では彼をそのような境遇に追い込んだ兄であろうことは皮肉なのか?

 見る間に、天空をも貫いた光条は広がりを見せ、獅子宮一帯を覆うように包み込んだ。忽ちの内に、獅子宮結界の綻びが繕われ、失せていく。久々の『作業』だというのに、全く迷いがない。聖衣も手助けしているのだろうが。
「見ているか、アイオロス」
 獅子座の小宇宙に煽られているのは私も同じか。
「貴方の弟は、貴方の総てを受け継いだのか?」
 不意に笑いが込み上げる。聖域の総意の如く、“逆賊”などと貶められても、その弟の中に確かに残っているのだ。あの射手座の姿が、小宇宙が──しかも、輝かしいばかりの姿で……。
 聖闘士の鑑とまで呼ばれた翼持て黄金聖闘士が確かに!

「もう、止められないでしょうね」
 誰にも──たとえ、貴方にでも……。
 私は背後を振り向いた。遥か上方の教皇宮は『教皇の間』に座しているはずの人が、教皇その人が立っていた。獅子宮の『目覚め』を知り、“抜け道”でも使ったのだろう。
「どういうことか。アフロディーテ」
「見ての通りです。“教皇猊下”?」
 僅かに“教皇”の怒りを感じた。私の勝手な振舞いに対するものか、それに乗ったアイオリアへのものか。
 とはいえ、“彼”は十分に理知的な人間でもある。黄金聖闘士二人を揃って、罰するなどという愚かしい真似をするはずもない。
「潮時、とは思いませんか」
 仮面の下の素顔が見えれば、眉を顰めていることだろう。
「結局のところ、アイオリア以上の獅子座の宿星の持ち主は現れなかった」
「今後、現れるかもしれぬぞ」
「そうですね。しかし、それを聖闘士として、それも最強の黄金聖闘士として鍛えるのに如何ほどの時間を要すると?」
 一旦、言葉を切った私は獅子宮を見返した。光は収斂し、獅子宮の姿は再び見えるようになったが、相変わらず、キラキラと光の残滓が取り巻いている。
 この獅子宮の『目覚め』は既に聖域中に知れ渡っているに違いない。それほどに強烈な小宇宙の爆発と、急激な結界の修復が為された。普段は感じられないような“アテナ結界”の明らかな変化が起こったからだ。
 獅子座の黄金聖闘士が何者かは別にしても、その確かなる存在を、聖域中の人間が知ってしまったのだ。
「アイオリアももう十を越えました。任務に出す頃合でもありましょう。大体、あれほどの力……捨て置いたままというのは、余りに勿体ないではありませんか」
「……随分と、親切ではないか。どういう心境の変化だ、魚座のアフロディーテ」
 私はふんわりと笑みを浮かべた。尤も、見る者によれば、それは『凄絶な笑み』と称するのかもしれない。
「勿論、気紛れですよ。“教皇猊下”」
 “教皇”は無言のまま、獅子宮に向かった。

 どうすべきか、そんなことはもう解っている。“彼”にとっても、私のある種の暴走は都合がいいに違いない。だから、恐らくは便乗してくる。
 少し遅れて、私も獅子宮に入った。教皇を名乗る者がいるならば、宮の守護者の許可も要らない。
 獅子宮の中央部に、獅子座の黄金聖闘士はいた。瞑目し、小宇宙を高め、結界に同調している。
 だが、侵入者の気配を感じたのか、とにかくも結界の修復が為されたためか、ゆっくりと小宇宙が鎮まっていく。
 アイオリアは空を仰いだ。いや、見えるはずのない空を、見ているようだった。吹き渡る風に、何かを求めているかの如く……。
 久方振りの聖衣装着と結界との同調。爆発的な小宇宙の燃焼と──些か、自失している状態だったが、
「アイオリアよ」
「──!」
 在るべきではない者の声に、アイオリアが体を竦めた。仕方あるまい。それほどに、彼は獅子宮に深く同調していた。
「サ……、いえ、教皇猊下」
 危うく口走りかけた名に、私も眉を顰める。他に誰もいなくて、良かった。
 慌てて、アイオリアは“教皇猊下”の前に跪いた。
「アイオリアよ、誰の命で獅子宮に立ち入った」
「それは」
「誰が、結界への同調を許した」
「…………いいえ。誰の命も、受けてはおりません」
 私が此処にいるにも拘らず、彼は私のことを何も言わない。潔いというべきか、ただの馬鹿正直というべきか。
 そんな彼に対し、我らが“教皇猊下”はどう出るのか。私は口を出さず、成行を見守る。「フ…、フハハハハ。まぁ、良い。その聖衣はやはり、お前を主と認めているようだな」
 アイオリアは体を堅くしたまま、反応を見せない。迂闊なことは絶対に言わない。
「良かろう。獅子座の黄金聖衣はお前に授けよう。その宿星《ほし》の命ずるままに、聖域のため、女神の御為に尽くすが良い」
 決定的な言葉に、やっとアイオリアは顔を上げた。緊張と歓喜とが入り混じった表情だ。

「だが、アイオリアよ。お前の拝命の触れは出さぬ。命がない限りは聖衣を纏うことは許さぬ。十二宮への立ち入りも同様。ただし、獅子宮には一月に一度、満月の夜に立ち入りと結界強化を命ずる」
 相も変らぬ厳しい制約はあるようだ。これでは、立場上では何ら変わることはない。
「不服があるか?」
「ございません。承知、致しました」
 今一度、深く頭を垂れる獅子座の黄金聖闘士を“彼”は静かに見下ろしている。今、どんな顔をしているのか──無性に見てやりたくなる。
「宜しい。アイオリアよ、忘れるな。これからは任務も与えよう。だが、それはお前の兄の罪を贖うためのものだ」
「…………はい」
 伏せた顔は唇を噛みしめていることだろう。だが、声にも小宇宙にも揺れはなかった。
 一つ頷くと“教皇猊下”は獅子宮を後にした。
 “彼”がこの結果に満足したかどうかは判らないが、私としては上々だ。直ぐにその小宇宙が感じられなくなる。どうやら、またしても“抜け道”に入ったらしい。
 それが証拠に“彼”が出ていった方から、見知った別の小宇宙が近付いてきた。

「──アイオリア!」
 金色の輝きが二つ、エラい勢いで飛び込んできた。ミロとカミュだった。
 十二宮を追われたアイオリアとの接触は禁止されているにも拘らず、しょっちゅう出向いては食事の差し入れやら怪我の手当やらをできる範囲で、気遣っていた。無論、彼らは(というよりはミロは)バレていないつもりのようだが。
「アイオリア、お前っ。獅子宮に戻るのを許されたのかっ?」
 それこそ、可能な限りの勢いで駆け下りてきたのだろう。息せき切って、幼馴染に駆け寄る。感極まった様子のミロはそのまま、アイオリアに飛びついたほどだ。少しばかり、情に脆いところがあり、目を赤くしている。
 一方のカミュは、これでよく親友をやっていられるくらいに冷静で性格も異なる。
 まぁ、私とデスマスク辺りがそれなりに上手くやっているのと同じなんだろう。些か暗い同類意識がないだけで。
「いきなり獅子宮から、アイオリアの小宇宙が昇ったから驚いた」
 本来なら、勝手に自宮を離れることも認められてはいない。が、今回ばかりは仕方がないだろう。ふと、上への出入口の方にもう一つ、静かなる黄金の小宇宙が在るのに気付く。
「……シャカまで」
 直ぐ上の処女宮から様子を見に来たのか。常日頃、瞑想に時を費やし、神仏と対話し、黄金聖闘士とでさえ、他者とは交わろうとしない彼がひっそりと佇んでいる。
 下のアルデバランも恐らくはこちらに来たくて、ウズウズしているだろうが、あの性格では叶うまい。
 アイオリアと彼らは同い年だ。年が近いというだけで、多少の同類意識が生まれる。何しろ、我々黄金聖闘士は全員が首尾よく揃ったとしても、十二人しかいない。
 人並外れた存在である聖闘士の中でも、白銀青銅とも一線どころか、十線以上は画した常軌を逸した存在。余人から見れば、只人どころか白銀聖闘士の目からでさえも、我々は『化物』以外の何者でもない、恐れられるべき存在なのだから。
 数少ない幼馴染たちは久々に黄金聖衣を纏いながらの再会を果たしたわけだ。

「いや…、まだ認められたわけじゃ……」
「そうなのか? なら、何で──」
「アフロディーテが守護結界を修復しろって」
 そこで初めて、彼らは私の存在に気付いたようだ。少々、注意が甘いな。
「なっ、教皇様の御命令じゃなかったのか。大丈夫のかよ」
「多分…。さっき、此処まで下りてこられた」
「教皇様が? お会いしなかったけど」
 ミロとカミュが顔を見合わせている。それでも、“抜け道”の存在は彼らとて知っている。なので、その辺には留意せずに話を変える。
「それで、教皇様は何て? 咎められたりはしなかったのか」
「う…ん。聖衣を、この獅子座の黄金聖衣を改めて、授かった」
「──本当かっ」
「おめでとう! アイオリア」
 二人の幼馴染は手荒く獅子座を抱き締めたりしている。何とも、感情表現がストレートだ。カミュまでが……。
 一頻り騒いで、気が済んだのか、ミロが繁々とアイオリアを見遣る。
「それより、お前。ちゃんと食うモン食ってんのか?」
「……食べてるよ」
「ちゃんと、って聞いてんの。こんなに細っこくって」
 確かに栄養状態が悪いのは一目瞭然だ。
「また、差し入れすっからな」
「ミロ…ッ」
 アイオリアが慌てたように私に目を向けてくる。会うなと言われているのに、頻繁に会いに来るミロ(と付き合わされるカミュ)には彼も結構、困っているのだ。尤も、そんなことは他の黄金連中も恐らくは教皇も知っているので、今更な話だ。
「大体、何で、アフロディーテが一緒なんだよ」
 少しばかり警戒しているのが笑える。カミュはともかく、ミロときたら、アイオリアを背中に回して、庇っているつもりなのか?
「どういう風の吹き回しだよ」
「そーゆー風が吹いたんだよ。別にアイオリアを引っかけるつもりもないって。真面目な話、十二宮の守護者の一人として思うわけだ。やはり、勿体ないとね」
 獅子宮を見回せば、嘘のように甦った宮の、この存在感の凄まじさには驚嘆させられる。
「君達だって、勿体ないって思うだろう?」
「そりゃ……」
「さて、それじゃ、お茶をしにいこうか」
「お茶ぁ!?」
「お茶って……本気、だったのか?」
 素っ頓狂な声を上げるミロは置いとくとして、アイオリアには少し呆れられてしまったようだ。
 それよりも、口調が変わっているのに気付かされる。触れが出されようと出されまいと、彼が教皇にも認められた獅子座の黄金聖闘士であることは既に定まった。この魚座の黄金聖闘士アフロディーテとも、対等であるべき存在になったのだ。
「勿論、本気だよ。怪我の方は──何だか、治っちゃったみたいだね」
 手を取り、剥き出しになっている上腕部を見ると、其処彼処《そこかしこ》にあった傷が見事なまでに消え失せている。結界同調による小宇宙の高まりを受け、癒えてしまったらしい。それも無意識の内に為してしまうとは大したヒーリング能力だ。

「さぁ、行こうか。あぁ、君達も御相伴するかい?」
 悪戯っぽく三人に尋ねてみる。
 すると、向こうに立っていたシャカは背を向け、さっさと行ってしまった。難しい奴だな。直接に「おめでとう」の一言くらい言ってやればいいのに。
 そして、ミロとカミュは──当然、受けられるわけがない。今とて、許可なく自宮を離れているのは許されるべき行為ではない。況してや、教皇宮直下の双魚宮でティー・タイムなぞ!
 ミロの方は些かの葛藤があったようだ。というよりも、アイオリアを一人で私に預けるのが不安なのかもしれない。随分な話だ。
 アイオリアは未だ、獅子宮への立ち入りを未だ制限されている身だが、逆にいえば、他宮の守護者が認めれば、他宮には留まることができるというわけだ。少々、こじつけっぽいかな。
「さぁ、アイオリア」
「アフロディーテ」
 促すが、当の本人に遮られた。今までとは声音が違う。表情を改めて、彼を見返す。
 これまでとて、目を逸らすことはなかった。逆賊の弟などと貶められ、黄金聖闘士である身も封じられて──それでも、彼はそこにいた。
 なのに、こんな風に真正面から見据えたことなど、初めてだった。彼の兄が健在だった時でさえ、私はその弟の前に立ったことなどなかったのだ。
「どうした、アイオリア」
「やはり、お茶は辞退する」
「……そう、残念だね」
 口先だけの言葉ではなかった。驚いたことに、私は本気で残念だと思っていたのだ。こんなにも、この獅子に私を惹きつけるものがあるとは!
 『射手座のアイオロスの弟』と称されるだけの者などではない。彼は、アイオリアだ。獅子座のアイオリアなのだ。

 その幼き獅子は瞑目し、聖衣をその身から解き放った。獅子の象《かたち》を為した獅子座の黄金聖衣は金色の閃きを残し、パンドラ・ボックスに収まった。
「それじゃ、な。ミロ、カミュ。……有り難う」
 シャカにも代わりに礼を、と付け加え、アイオリアは戻っていく。十二宮を下りるつもりなのだ。だが、それを今一度、呼び止める。
「アイオリア。君はまだ、アイオロスを信じているのかい」
「…………」
 酷く驚いた表情が向けられた。薔薇の若木の葉を思わせる、澄んだ新緑の瞳が胸を打つ。そう、こんなにも厳しい境遇にありながら、何故、これほどに……。
「どうしたんだい、アイオリア」
「いや…。兄の名を、耳にしたのは久し振りだったから」
「あぁ──」
 あれ以来、アイオロスは“逆賊”と、アイオリアは“逆賊の弟”と呼ばれているのだろう。そういえば、名を呼んでも、時々、反応が遅れる。ミロやカミュが未だに、同年の友人として(表向きはともかくとして)付き合っているから、まだ良いが、そうでもなければ、この少年は自分の名を忘れてしまうのではないだろうか。
「で、答えは?」
「──貴方には、関係のないことだ」
 毅然とした態度で、彼は言い切った。
 私は可笑しくなった。可愛くない態度だ。だけど、これこそが手懐けようにも決して、懐くことなどない野生の獣の在り様か。
「そうだね。……全く、その通りだ」
「それじゃ」
 名残惜し気な様子など見せず、アイオリアは背中を向け、獅子宮を出て行く。胸を張り、背筋を伸ばした見事な姿勢で、歩み去る。
 私たちの方こそが夫々に名残惜しさを感じていたのかもしれない。



「ミロ、行こう。宮に戻らないと」
「あぁ……」
 心を残した様子がありありな二人の年下の黄金聖闘士たちも上の宮へと帰っていく。
 少し遅れて、私も獅子宮を抜けると、十二宮の階段を登り始めた。
 その途中、処女宮までの階段の脇に、僚友が座っているのを見留めた。
「何だ。やっぱり、気になって、下りてきていたんだ」
 来ないはずがない。誰よりも、アイオリアを案じているはずの彼が……。
「お前の差し金だったのか、アフロディーテ」
 どうやら、簡単な経緯は先に行った二人に聞いたらしい。
「差し金とは言い方が悪いな、シュラ」
「他に言い様があるか。こんな勝手な真似をして……咎めがなかったから、良いようなものを」
「でもね、シュラ。実際、潮時だったろう? それこそ、いつまでも、あの子も獅子宮も放置しておくわけにはいかなかったんだから」
「それはそうだが……」
「“彼”だって、確かに良い顔はしなかったけど、認めてくれたよ。色々と制約ありなのは変わらないけどね」
 シュラは教皇宮のある上方を見遣ったが、
「しかし、何故、お前が」
「全く、君だけじゃない。“彼”にしろ、ミロにしろ、私をどういう目で見ているのかねぇ」
「そーゆー目だろう」
 何とかが付くくらいに真面目な奴が冗談めかした言い方をするので、私は吹き出してしまった。その笑いを収め、
「知ってると思うけど、私はね、綺麗なものや美しいものが大好きなんだ」
「綺麗で、美しい?」
 それが何だとでも言いたげな顔だ。嘆かわしいな。美と、あの子が結びつかないのか。
「野生の獣の生き様は、美しいんだよ?」
「何を言っている」
「私はあれほど、生きることに貪欲な獣を見たことがないね」
「ケモノって……、あのアイオリアがか? それは確かに“獅子”だが……」
 呟くシュラは本当に解っていないのか。まぁ、他人がどう思おうと、それこそ、知ったことではない。
「楽しみじゃないか。あの子がこれから、どんな成獣に育つのか」
「本当に獣扱いだな」
 気高き、誇り高き百獣の王の姿を私は夢想する。
「本ト…、楽しみだね」
 シュラは獅子宮を見下ろしていた。もう、その主は十二宮を下りた頃合だが、暫くはこの場を動きそうもなかった。

 シュラを残して、階段を登り始める。そして、考える。
 獅子座の黄金聖闘士の改めての任命。触れは出されずとも、それは間違いのないことだ。
 僅かでもあっても、変化には違いない。
 これがこの聖域にとって、如何なる意味を持つのか。何の意味も持たぬのか?
「それも含めて、楽しみ…、だな」
 傍観者のような捉え方しかできないのは、自分を守るためだろうか。不意に思い返される。

『貴方には関係のないことだ』

 体は傷だらけになっても、心を守るものを、あの子は確かに持っているのか。
「やっぱり、残念だったな」
 お茶を断られてしまったのは……。
「いつか、一緒にお茶ができたらいいな」
 それとも、これも見果てぬ夢とやらかな。



 いつものことですが、お題を直接的に書かないですね。輝は。『信念』を持っているのは夫々で、アイオリアにもアフロディーテにも、他の者にもあるという感じで……。
 所謂『年中組』が意外にも動かしやすいことに気付いた今日この頃。原典での登場が少ないから、好き勝手使えるのかもしれないなぁ。こうなったら、残りの一人の話も捻り出すか?
 それにしても、アフロディーテとの話が現時点での最長編になるとはビックリ★

2007.04.25.

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