嘆きの声に


 聖衣──神代より伝わる聖なる衣。女神《アテナ》のために戦う聖闘士に授けられし神秘の鎧。この時代、八十八の星座を象り、その星の運命《さだめ》の許にある存在。
 聖衣は星の運命を同じくする唯一の主を見出し、その身に纏わる。
 ただ、ひたすらに主を求める。女神のために生み出されし存在。そうでありながら、聖衣そのものは主を守ることをこそ希う。
 求め求め──主が現れるまで、微睡《まどろ》みの中に漂う。
 目覚めた星の許、巡り会いし主と一緒《とも》に戦い、たとえ傷付き、粉々に砕けたとしても、それもまた本望。主とともに在ることこそが聖衣の絶対の願い。

 では、星が目覚めながら、主と引き離されてしまったら?
 己が選んだはずの、ともにあるべき唯一絶対の存在が遠くにいってしまったら?

 神代より永き代《とき》を渡りし聖なる衣。最初からあったのか、それとも、永劫の代により生まれたのか──その意思は何を思うのだろう。

キイィィィン…

 今日も鳴いている。いや、泣いているのか。
 乙女座《ヴァルゴ》のシャカは閉ざした瞳の奥にも、震える波動が突き刺すのを感じ取った。処女宮中央の蓮華座に座し、瞑想していても、波動は無遠慮なほどに侵入してくる。
 大抵の邪魔なぞ、邪魔にすら感じないが、この啼き声はさすがに無視できない。仮にも聖闘士ならば──。
 蓮華座を下り、テラスに出ると見下ろした。直下の獅子宮から、啼き声は発せられている。
 毎夜毎夜、啼き続ける獅子座《レオ》の黄金聖衣。唯一の主を、戻らぬ主を求め、ただただ啼き続ける。
 その嘆きは余りに深い。
 そして、獅子宮も──守護者が入らず、結界修復も行わなければ、何れ獅子宮は十二宮を侵すことになろう。
 十二宮に守護者は絶対的に必要。にも拘らず、獅子宮の主、獅子座のアイオリアは戻ることを許されない。何故なら、アイオリアは──稚い《いとけない》赤子《アテナ》を害そうと企て、失敗した挙句に出奔し、粛清された射手座《サジタリアス》のアイオロスの実弟だからだ。

 聖域史上、稀に見る悪鬼の如き所業。以後、どこまでも憎まれ、その名すら聖域の歴史からは削られ、誰も口にすることはない。あるとすれば、それは『逆賊』であり、その弟すらが『逆賊の弟』となった。
 勿論、当初は『あのアイオロスが?』と一度は誰もが疑い惑った。
 だが、決定的な目撃者が女神の代行人たる教皇その人である以上、誰も反論などできるはずがない。弟のアイオリアですらが、受け容れるしかなかった。そう誰もが。
 堕ちた英雄は死した後も、残された弟の人生をも歪める。
 アイオリアは拝命していた獅子座の黄金聖闘士としての資格を剥奪された。当然、獅子座の黄金聖衣は取り上げられ、十二宮からも出された。
 それでも、未だ聖域に留められているのは恐らく、聖域への反感や憎悪を更に育てないようにするためだろう。
 剥奪されたとしても、それは形式上のことでしかない。レオはアイオリアを選んでいる。アイオリアが喚べば、応えるのは決まっているのだ。
 獅子座のアイオリアまでが聖域に反抗すれば──最後の結末は推して知るべしだが、その過程は想像したくないものだ。黄金聖闘士が本気で、死も覚悟の上で抵抗、反撃すれば、聖域の受ける被害は計り知れない。
 それよりは、どうにか利用する方向に持っていきたいに違いない。でなければ、アイオリアは既に連座させられたはずだ。現に、そういう声は大きい。
 だが、教皇はそれだけは容れなかった。

 だから、いつか必ず、その時はくる。
 とはいえ、それまでも、アイオリアが獅子座の黄金聖闘士であることもまた、疑いない。
 ただ、アイオリアも兄の罪を認め、何の抵抗もせず、聖衣も返上した。だから、何があろうと、決してレオを喚ぶことはないだろう。どれほど、レオが求めても……。
 それが正しいのかどうか、シャカには量りかねる。ただ、この嘆きが、切ない響きがどこまでも深く、心を震わせる。
 変わっている、普通の人よりも、明らかに感情が薄いといわれるシャカですらが……。


☆        ★        ☆        ★        ☆


 『お前は変わっている』──何処に行っても、シャカはそう言われた。『お前は変わった子どもだ』と。
 『変わっている』とはつまり『普通ではない』ということ。そこで、人はシャカとの間に線を引く。
 尤も、余人からどう評されようとも、意にも介さない子どもだ。だからこそ、『変わっている』のだろう。
 しかし、誰もが判を捺したように言う中、口にしない者には逆に気を引かれるのだ。
 乙女座の黄金聖闘士だというシャカにとっては仲間とも呼べる黄金聖闘士たち。中でも、あの兄弟──太陽の如き眩しさを齎す光の兄弟たちは……。
 変わっていようといまいと、そこにいるシャカという存在《もの》を、そのまま受け止めてしまう者たちだった。
 他の者が突拍子もない、と表現するような真似をしても、言っても、その兄は大らかに笑い、ちゃんと受け答えしてくれた。殆どの者が敬遠するようになっても、あの弟は何の躊躇いもなく、近付いてきた。
 そして、呼ぶのだ。「シャカ」と……。
 その響きは遠かった“親愛”の情を幼いシャカにも理解させかけた。

 そんな時だった。あの兄が『逆賊』に堕ち、弟が『逆賊の弟』と蔑まれるようになったのは──そして、引き離された。十二宮から、隣の宮から、守護者の姿は消えた。
 ……あの日以来、取り残された獅子座の黄金聖衣は啼き続けている。
 それは仕方がないが、響きを耳にする度に、同調する自分がいることにシャカは戸惑う。
 彼ら兄弟が消えたことを自分は嘆いているのか、泣いているのか? 彼らは自分の中で、それほどまでに確固たる存在だったのか。

 今夜も──レオが啼いている。主を、アイオリアを呼んでいる。
 だが、十二宮の更に下、聖域の何処かにいるはずのアイオリアが聖衣に応えることはない。十二宮を出され、自分たち黄金聖闘士とも接することもなく──アイオリアは今、何を思っているのだろう。レオの声が聞こえないはずもないのに!
 殆ど他人に気を取られることのないシャカだが、それでも、数少ない例外はある。アイオリアはその一人だ。
 そして、同じように『逆賊の弟』となったアイオリアを気遣う者も僅かとはいえ、他にもいた。その最たるが蠍座《スコーピオン》のミロと水瓶座《アクエリアス》のカミュだ。
 二人は禁じられているにも拘らず、頻繁に十二宮を抜け出し、アイオリアの処に行っている。食料を持っていったり、傷の手当をしたり──剥奪されたとはいえ、黄金聖闘士であるアイオリアがあの日以来、傷だらけになっている。
 幼くとも、黄金聖闘士。同じ黄金聖闘士以外、相手になるはずもないものを──逆賊の弟を懲らしめようという輩が如何に多いかという証左でもある。尤も、その殆どは制裁・懲悪の名を借りた鬱憤晴らしでしかなかったが……。
 しかも、アイオリアは一切、抵抗をしない。本気で兄の罪を一身に背負い、償おうとしているかのようだ。
 だが、どれほど、小宇宙で防御しようとも傷は増える。如何に黄金の小宇宙を抱えられる体とはいえ、まだまだ未成熟な幼い子供だ。
 日に日に、アイオリアは衰弱していった。それでも、彼は泣き言一つ言わない。小宇宙が揺れることすらない。
 そして、心配して、やってくるミロとカミュに「自分に関わるな」と言うのだ。禁を冒して、二人までが罰せられるのを恐れているのだろう。
 だが、ミロが簡単に頷くはずもなく「お前の指図なんか聞く謂れはない」とまで言ったそうだ。間に立つカミュがかなり、苦心していた。


★        ☆        ★        ☆        ★


「何も行くなと言っているわけじゃない。私だって、アイオリアは心配だ。けど、余り頻繁に押しかけて、私たちが罰せられでもしたら──却って、アイオリアを苦しめることになるんだぞ」
「だから、放っておけってのか。お前がそんな薄情者だなんて、思わなかったぞ」
「ミロ、そうじゃなくて……」
「だって…、このままじゃ、あいつ、死んじゃうぞ」
「ミロ……」
「ロクなモン食ってないし、怪我の手当だって、まともにして貰えない。あんなトコで……いいのかよ、カミュ。リアが…、リアまでが死んじゃっても──」
 ミロが肩を震わせ、しゃくり上げ始めた。どうも情に脆いところがある。
「そんなことは言ってないよ、ミロ。そうならないように、私たちが守ってやらないといけない。支えてやるつもりだ。でも、私たちが罰せられて、引き離されたら、誰がアイオリアを支えてやれるんだ」
「そんなの解んないよっ! 俺、行くから」
「ミロ!」
 全く困った奴だ。十二宮は他者が殆どいないとはいえ、あんな話を大声で! しかも、場所は守護者の消えた獅子宮だ。余り長居するものではないのだ。
 通りかかったのが自分だったから、まだ良かったようなものだ。さすがに煩くも感じ、シャカは二人に近付いていった。

 二人は獅子宮の中央、獅子座の黄金聖衣が安置されている辺りで口論していたのだ。しかも、普段なら着けているはずの聖衣を着けていない。それだけで、次の行動も読めるというものだ。
 滅多に処女宮を動かないシャカの登場に、二人は少なからず驚いたようだ。
「な、何だよ、シャカ」
「君たちこそ、何を揉めている。こんな処で」
「何だって、いいだろう」
「煩くて敵わん」
「だったら、とっとと行っちまえよ」
 乱暴に言って、ミロは背中を向けた。
「何処に行くつもりだね」
「お前には関係ない」
「アイオリアのところだろう」
 ピタリとミロが動きを止めた。カミュも息を詰めて、シャカを見返している。
「何だよ、シャカ。お前まで止めるのか」
「あれが望まぬなら、そうすべきではないのか」
「知るかよ。俺は俺のやりたいようにやるんだ」
 言い放ち、また行こうとするが、
「それほど、あれが心配か」
「お前は心配じゃないのかっ! あんな状態で──」
「心配などする必要があるのか」
 二人が、絶句した。そして、当然、ミロがシャカに掴みかかってくる。
「こいつ!」
「止せ、ミロ」
「止めるな、カミュ! 何てこと言うんだ。お前だって、ロス兄やリアとは仲良かったくせに!」
 仲が良かった? そう言われても、シャカにはよく解らない。彼らが他者とは違う存在、特別といっても良い存在であったには違いなかったが……。
 激昂しても、こちらの反応がないことに余計、苛立ったらしいミロに突き飛ばされる。
「話になんない。俺は行く!」
「ミロ!」
 止めるのも聞かず、獅子宮を飛び出していった。


☆        ★        ☆        ★        ☆


「……追わないのかね」
 カミュが小さく溜息をついたのはミロに対してか、彼を怒らせたシャカに対してか?
「シャカ。何故、あんなことを言うんだ」
「あんなこととは?」
 本気で尋ねると、本気で呆れられたようだ。首を振るカミュが眉間に皺を寄せた。またしても、溜息つきで。溜息をつくようなことかと首を捻りたいくらいだが。
「心配する必要がないなんて、ミロでなくても怒るぞ」
「何故だね。あれの心配など、する必要はないだろう」
「だから、シャカ……」
「あれは、我々の獅子座だ。聖衣を奪われようと、変わることはない」
 驚いたように、カミュが見返してくるのを閉ざした瞳で受け止める。そう、聖域の思惑など無意味だと。
「あの誇り高い獅子を誰が好きにできるというのだ。あれが簡単に心折れるとでも思っているのか?」
「シャカ……。君は、アイオリアを信じているのか」
「信じる? 大袈裟だな。私はただ、知っているだけだ」
 シャカは目を開き、真直ぐにカミュを見据えた。真青な瞳に、さすがに冷静さを信条とするカミュも狼狽えたようだ。

 溢れんばかりの力と意思──圧倒されることはない。ただ、感情薄いなどといわれるシャカにも、その奥底には眠っている思いがあることを感じ取ったのだろう。
 一瞬、伏せた目が上げられると、シャカの視線は正面から受け止められた。
「知っている、か。……それでも、私たちは彼を放っておけないんだよ」
「…………」
「何もできないが、せめて、彼の傷を冷やしてやるくらいのことは私にもできるからね」
 カミュが“氷と水の魔術師”と呼ばれることになるのは、もっと先のことだが。
「ならば、行けばいい。ミロが暴走しないように注意することだ。この先も、彼を訪ねたいのであればな」
「解っている」
 そして、カミュも背を向けると、ミロの後を追っていった。

キイィィン……

 彼らのように、アイオリアの元へ飛んでいくことの叶わない獅子座の黄金聖衣がまた啼いた。
 シャカはそっと手を触れてやった。
「今は、これで我慢してくれ」
 小さく震え、啼き声が高まる。シャカのつけている乙女座の黄金聖衣も共鳴を始めた。
「解るか、アイオリアの小宇宙だ」
 実はシャカも、先刻、十二宮を抜け出し、アイオリアの元を訪れていたのだ。アイオリアにはやはり「もう来るな」と言われたが、シャカとても素直に聞き入れるわけがない。

「そんな傷だらけで、まともに動けもしないくせに、私に意見などするな」
 そう言いながら、ヒーリングを施したやったのだ。
 痛めつけられ、弱ってはいたが、同調することぐらいは朝飯前なのが黄金聖闘士だ。だが、
「……自分で、自分をヒーリングできれば」
「できなくもないぞ」
「でも、効力が落ちるって、兄さんは言ってた……」
 亡き兄を思い出したか、唇を噛みしめるアイオリアをシャカは黙って見下ろした。その心の内は余人が立ち入るものではない。
「それでも、不可能事ではない。私は人の手など借りずとも、自分の怪我くらいは簡単に治せる」
「…………」
「私に来るなと言うのなら、その程度の傷、自分で治せるようになるのだな」
 確かに己が身をヒーリングするのは難しい。効力には個人差もあるので、その方法は自ら習得するしかない。教えようがないのだ。シャカにできることなら、自分にもできるはず──とアイオリアを奮い立たせるしかなかった。
 もし、アイオリアが自らヒーリングできるようになれば、シャカが来る理由もなくなってしまうかもしれないが……。

 とりあえず、動くのに支障が出ない程度には傷は塞ぎ、シャカは立ち上がった。
「ではな。また、様子を見にくる」
「だから、来るなって言ってるのに」
 勿論、そんな言葉は無視したが。
「あ、なぁ…、レオはどうしている?」
 獅子宮に残してきた己が黄金聖衣のことが心配なのだろう。言い澱んだのは「来るな」と言いながら、その様子を確めるのに隣宮のシャカほどよく知っている相手もいない。その矛盾をアイオリアも気付いているからだ。
「……大人しくしている。君に命じられたままに」
「そうか……」
 正式には今のアイオリアは獅子座の黄金聖衣の主ではない。だが、アイオリアもシャカも、そして、何よりもレオこそが真実を知っている。主はアイオリアであることを。
 獅子宮を去る時、アイオリアは「待っていろ」と言い残していったのだ。必ず、戻ると。だから、待っていろと。
 そうでなければ、これほど長いこと、放っておかれて、しかも、同じ聖域の結界内にいるのだ。レオが大人しく宮に留まってしているはずがなかった。
 だが、レオは主の命に従っていた。哀しいまでに従順に。



 ヒーリングに同調した獅子座の小宇宙がシャカの掌には残っていた。その微かな小宇宙にすら、レオは歓喜に震えた。
 既に目覚め、主を選びながら、その主が近付くこともなく、捨て置かれたに等しい聖衣が放っておかれたままで、どうなるのか? それはシャカにも解らない。
 目覚めた聖衣は主の小宇宙に触れることで、更なる力を得るとされる。まさか、“死”んだりはしないと思うが、しかし、聖衣とて“死”に至ることがあるのは間違いない。
 シャカは未来の修復師でもある友人に、以前、聞いたことを思い出した。だが、今は彼に確かめることもできない。『アイオロスの叛逆』の直後、彼もまた、唐突なまでに聖域から姿を消したのだ。

 万一を案じている、というのは言い訳がましいか。シャカはアイオリアの小宇宙を、直接にレオに伝えるためにもと、アイオリアの元を訪れる。それを止めるつもりもない。
 ミロやカミュに、とやかく言うのは本当は自分の行動を制限されることを恐れているからだろうか。獅子座の黄金聖衣のため、と言いながら、本当は自分がアイオリアに会いたいからだろうか? アイオロスもいない今、残された弟に何かを求めているのだろうか。

キイィィン……

 余韻を残し、獅子座の黄金聖衣の震えが鎮まった。
 我に返ったシャカは手を離し、黄金聖衣を凝視《みつ》めた。
 その輝きは以前のまま、僅かな曇りすらない。どこまでも美しい黄金の獅子……。
「フ…。誰よりもあれを信じているのは、お前だということかな」
 慰めているつもりが、こちらが励まされているのかもしれない。いや、お互い様ということだろうか。
「いつか、必ず、あれは戻ってくる。この獅子宮に。我ら黄金聖闘士が許に。そして、お前の許に……」
 そうだ。それは必然の未来──シャカは獅子座の黄金聖衣に背を向け、獅子宮を後にした。
 残されたレオは微かに光を発しながら、静かにその場に佇んでいた。


 アイオリアが獅子座の黄金聖闘士に復するのには三年ほどの時を待たねばならなかった。



 以上、レイ・マリスさんよりのキリ7777作品でした。いやぁ、難産でした;;; リクは『レオを慰めるシャカ』だったのですが──逆に励まされているよーな? いつもリクに完全に応えられているのか微妙なところです。レイ・マリスさん、こんなモノでも宜しいでしょうか?
 ともかく、シャカというのは黄金聖闘士たちの中でも中々、理解しにくい厄介な人です。教皇の間ではアイオリアと千日戦争を起こしかけるし★ 偽教皇を思いっきり『善だ!』と言いきるし^^;(いやまぁ、善もいるけど)中々こじつけも難しそう。
 とりあえず、アイオリアがヒーリングに秀でるようになったのはある意味、シャカのお陰なわけです☆

2008.03.28.

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