茶州にいた頃は、荒れた州尹邸ではなく、州城に住み込んでいるようなものだった。片付けても片付けても、一向に減らない仕事や毎日毎日、御苦労様と言いたくなるほどに差し向けられてくる兇手対策などなど、幾つか理由はあった。
 貴陽帰還後、晴れて、尚書令を拝命し、しかも、今は妻も迎えた身としては、それなりの邸宅を構えなければならない。それでも、王を支える宰相にしては然程にも、豪奢とはいえない中程度の邸宅に入った。
『やはり、何処の馬の骨とも知れない成り上がり、手狭でなくば、落ち着かぬのだろう』
 などと、陰口を叩く者もいたが、無論、気にする悠舜ではなかった。



 茶州から持ち帰った荷の殆どが書物だったが、少しずつ荷解きと片付けを進めていたある日、
「おや、これは」
「凛? どうかしましたか」
「旦那様。いえ、これは──見覚えのない笛が」
「あぁ、それは……」
 開いた箱の中身を見せると、悠舜が僅かに顔を綻ばせたのを、凜は些か不思議な心持で見遣る。物に執着を示すような人とは思っていなかったのだ。
「旦那様の物ですか? 素晴らしい龍笛ですね。このような美事な品をお持ちとは存じませんでした」
「でしょうね。私は笛など、嗜みませんから」
「では、これは?」
 あっさりと吹かないと言われれば、当然の質問だろうが、少しばかり困ったような顔をされると、尋いてはいけなかったかと、凜まで困惑する。
「……餞別に戴いたのですよ」
「餞別? 茶州府の者にですか」
 そんな風流な情緒を持ち合わせた者などいただろうか、と元州牧を始めとした文官・武官の顔を思い浮かべるが、結論を出す前に悠舜が回答を披露する。
「いえ。茶州に赴く際に、この貴陽で戴いた物です。餞別というか、お守り代わりとでもいいますか」
 見れば見るほど、そこらでは絶対入手不可能だろう逸品に違いない。しかも、かなりの伝来もありそうだ。
 このような代物をポンと餞別代わりに寄越すとは──無頓着なのか、大人物なのか。

「……こうして、無事に戻ったのですし、お返ししなければなりませんね」
「親しい御方なのですか」
 真先に脳裏に浮かんだのは摩訶不思議な仮面と麗しき美貌の男。既に紹介もされている彼らの代の国試を『悪夢』へと変貌させた美貌の持ち主、黄鳳珠は黄家の者だ。彩七家に連なる黄家ならば、決して、手の届かぬ物ではない。
 それに、まだ会ってはいないが、筆頭紅家直系の同期もいたはずだ……。
 ところが、
「さぁ、どうでしょうね」
 何故か、妙に可笑しそうに往《い》なし、龍笛を元の箱に収める夫に、『宜しければ、一度、お招きしませんか』と言おうとして、思い留まった。さすがに、出過ぎているように感じたのだ。

 長く長く抱え続けた思慕の念を、茶州の建て直しを果たすと共に、受け入れてくれた人を──凜とて、全て知っているなどとは思い上がってはいない。
 ただ、優しく、芯が強く、人を思い、命すら懸けて、官吏として務めている──それさえ、知っていれば、十分だった。
 そして、これからも、厳しい局面に、矢面にも立ち続けるだろう夫を支えていこうと改めて、心に留めた。


☆         ★          ☆          ★          ☆


「では、葵長官。宜しくお願いします」
「承知した」
 言葉少なく素気ない返答は凡そ、官位が上の者に対するものではない。
 だが、悠舜も別に気にした様子はなく、立ち上がる。立てかけてあった杖を取るのを目の端に捕らえ、皇毅は踵を返した。
「あぁ、皇毅殿。少し待って下さい」
 たとえ、余人がおらずとも、悠舜が名を呼ぶことなど滅多にない。さすがに皇毅も足を止めた。
 眉を顰める眼前に、然程、装飾性のない古びた箱が差し出される。
「お返しします」
「──まだ、持っていたのか」
「当然です。売っ払ってしまったとでも思いましたか」
 確かに中々、厳しい清貧生活でしたが、などと付け加えられるが、聞き流し、蓋を開け、中の物を無造作に取り上げる。
 龍笛──それも名門葵家に伝来する唯一無二の一品だった。

 十年ほど前、茶州へと旅立つ悠舜に、それこそ、無造作に餞別代わりにと放った。あの時ほど、悠舜が驚き、慌てる姿を見たことはなかった。
「少しは吹けるようになったか」
「悠長に楽を奏でるような暇《いとま》など、あったと思いますか。茶州が文字通りの戦場だったことは茗才から聞いていたでしょうに」
 茗才とは皇毅配下の監察御史だが、茶州を巡検した際、茶州府の官吏として登用された。覆面監察御史であることを逆手に取られ、好いように扱き使われたのだ……。
 年一回の年始の祝賀に、茶州府の名代として貴陽に帰還した茗才から、その辺の報告も受けている。……何もかも承知の上で、配下を扱き使っていただろう元州尹は、どこまでも涼しい顔をしている。

「烏合の衆でも、お前が指揮すれば、精鋭にも変わろう。何せ、お前は──」
「皇毅殿」
 珍しく、悠舜の声が硬くなった。決して、冷たくはないが──懐かしい物を見て、少々、羽目を外したらしい。あくまでも、皇毅の基準の上では、だが。
 だが、それきり、二人とも何もなかったかのように二言三言と言葉を交わす。
「確かに、お返ししました。フフ…、久々に貴方の笛の音を聞いてみたいものですね」
「フン…。見料に何を出す」
「せこいですよ。それ」
 言いつつも、それほど残念そうにも見えない。大体、夜の尚書令室から、笛の音など響いたら、思いっきり怪しまれる。
 皇毅とて、仕事の話で此処に来たのだ。少しばかり和んでしまった己を内心で叱咤する。どうも、悠舜を前にすると、構えていなければ、日頃の冷徹さにもヒビが入るようだ。
 決して、悠舜が外見そのままの穏やかな性質《たち》だけではないと承知していても尚……。
 尋ねたのは別のこと。
「……まだ残っているのか」
「はい。もう暫くは……。中々、仕事が片付きませんので」
「そうか」
 国の重鎮たる宰相なのだ。仕事が山積みなのは当然としても、あの若い王の下では余計な仕事が増えていることだろう。
 だが、その座に座ることを選んだのもまた、悠舜自身だ。先も先のことはともかく、今はまだ──……。
「ではな」
 今度こそ、尚書令室を辞する。柔らかな笑みに見送られて……。



 書類を捌く音も煩く響くほどの静けさの中、外から紛れ込んだ妙なる響きに、悠舜は筆を走らせていた手を止めた。
 思わず苦笑が零れる。然程、学芸には長けているわけではない悠舜でさえ、素晴らしい弾き手だと判るが、
「笛の音まで、冷厳ですね。何だか、いっそう凄みを増しているではないですか」
 それでも、聴かせる“何か”を感じさせるものには違いない。
「何があったのやら……」
 とはいえ、深くは考えず、暫し、風に乗り、遠くから届く懐かしい音に耳を傾けていた。



 最新刊『黒蝶は檻にとらわれる』大爆発★ てな感じで、『彩雲国』が頭ン中、暴れ回っています。まだ、冬コミ本、終わってないのに;;;
 っても、↑とは関係ない話ですけど。一応、『悠遠なる絆』のラストと繋がる話ではあるのですが、まだ、それも終わらせていなかったのに、あの大爆発展開には参りますね。今回も、微妙に影響受けてますし^^;
 でも、とりあえず、悠舜と皇毅──晏樹も含めて、昔からの知己っぽいのは確定のようですね。

2008.12.10.

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