腕 時 計 入江和馬
嬉しさと混じった切ない感情が、心をうずかせる この腕時計は、今だけは、私のもの。そしてその持ち主の心も… 一時の『夢』を…
「ああ、もう! やってられないわ!」 書類の束と格闘して数時間経つが、一向に減る気配がない。むしろ増えているような気がする。…増えることはないのだが、彼女が仕事しているところは医療部なので、時折、体調が悪い人がやってきてはその対応に当たり、一段落して又書類に取りかかる──をくり返しているため、彼女には増えたような気がしてならない。 「…ったく、なんでこんな書類を書かないといけないのよ!」 とぶつぶつ言いながらも、集中して書類を仕上げていくのが、彼女の生真面目さを表しているのだろう。書類はあっという間に、というわけにはいかないが、確実に減っていった。
「マサキ、悪ぃ、休ませてくれ。」 しばらく書類と格闘していたマサキは、いつもの声に手をふって答える。 「適当にあいているベットで休んでね。全部あいているから選びたい放題よ、ブライト。」 「ん…。すまん、いつも…。」 さすがの彼も疲れが出てきているのだろう。表情も暗く声のトーンも体の辛さを体現しているようだ。仕事中もプライベートでも弱味を決して見せない彼だが、時折、限界をこえるとここにくる。そんな彼は、いつも通りマサキの隣に一旦座り、彼女が先ほどから格闘している書類を覗きこんだ。 「なんだ? まだ出来ていないのか? 先週もやっていたじゃないか、これ。」 「しょうがないでしょ? 仕事と同時進行なんだから。」 「ん…? 時間も書くのか?」 マサキが書類を書きつつ、医療部の時計を見ながら、時間を確認しているのに不思議そうにブライトはマサキに声をかける。 「ああ、そうなんだけどね。時刻が見にくくって…。」 と言いながら、書類を書く手を休めない。彼女の位置からは医療部の時計は遠く見にくいのだ。ブライトはそれに気づいた。 …一方のマサキは書類に集中して、彼の相手をしていられない…という風に装っていた。 「じゃあ、これ使え。俺は休むから…。」 コトリ、と音がした方を彼女が向くと、そこには彼の腕時計が置いてあった。 「……いいの?」 と振り返って声をかけると、彼の姿はその隣になく、すでにベットの方で衣擦れと人が倒れるようにベットに落ちる音が同時にしてきた。 「ありがとう、ブライト。」 腕時計にお礼を言って、その時計を見ながら、書類と格闘し始めた。連邦軍の支給品であったが、時間は正確に刻んでおり、時間に関してはそちらに集中して書類に目をおとした。 「ふう、なんとかなったわ。」 まだ書類は残っていたが、後もう少しで終わる。なぜか寂しい感じもするが、これは自分が決めたことなのだ、と納得させると机の上にある腕時計が視界に入ってきた。 そっと片手で取り上げて、その重さを確かめてみる。軍の支給品なのでデザインも造りも‘ごっつい’のは当たり前なのだが、使いこまれた状態のこの時計から持ち主の今までの経歴を容易に想像できる。まだ支給されてから一年は経っていないというのに、かなりクタビれている。傷も多い。かなり汗臭いし、汚れている。 けど、それが全て愛おしいと感じるのは、何故なのだろうか? この腕時計も、そして、持ち主のその心も、すべてがあの人に向かっているのは 知っているけど、どうぞ、この瞬間だけ私に夢を見させて下さい。 この時計を持っているだけで、あなたの優しさを思い出し、その笑顔、そして…。 まるで自分の心に応えているように思えるの…。 そっと時計に視線で語りかけるように心で想う。 この胸にある想いは、きっとこの腕時計の主には伝わらない。だから…。彼の腕時計を抱き締めた。 「…まあ、私らしくないわね。」 彼女は自分の想いの世界からすぐに抜け出した。現実をよく弁えており、自分でそれが可能かどうか理解し、行動できるのだ…それが彼女の性格でもあるのだが…。 彼女はそっと、その時計を机に置くと書類に向かう。腕時計はわざと見ないで、書類だけに集中する。時刻確認だけは、先ほどと同様に医療部の時計で確認しながら行う。腕時計は全く使用せず、その存在を忘れたかのように扱った。 自分の感情を隠すような行動と解っていながら、マサキはその腕時計の存在を意図的に忘れていた。 …まるで、今の自分の感情のように…。 ★ ☆ ★ ☆ ★ 「ん〜。よく寝た。」 終業時間まで数分となったとき、ブライトは起き出してきた。 「お目覚めですか、少佐。もう終業時間です。そろそろ起きていただこうと思っていたところなんですよ。」 ゼノン軍曹、と名乗った人物はマサキが連邦軍本部に出かけていることを伝えた。 「それで、これを返しておいてと言われたのですが…。」 腕時計を出されて、反射的に受け取ると、ゼノン軍曹にマサキの帰隊予定時間を聞いた。 「いえ、マサキ軍曹は今日は直帰の予定です。」 「そうか…次回の出勤は、明日かな?」 「いいえ。有給休暇届けが出ていますから…2週間後になりますね、ここにくるのは。」 「そう、か…。」 一抹の寂しさを感じながら、腕時計についているメモを見る。 『Thanks Masaki』 シンプルな言葉使いに、彼女らしさを感じてブライトは思わず微笑んでしまう。 「ブライト少佐?」 ゼノン軍曹が不思議そうに声をかけると、彼はいつもの表情に戻り、簡単に礼を言って敬礼をすると、そのまま医療部を出ていった。 ☆ ★ ☆ ★ ☆ 「で、一時間、待っていた、と…。」 「まあ、な。」 「まあじゃなくてさ〜、今の自分の立場ってものを考えればさあ〜。」 「いいんだよ! 俺が来たかったんだから!」 「──で、何の用なの?」 ブライトは医療部を出た後、真直ぐにマサキの部屋の前で待っていたらしい。マサキが帰ってきたとき、ブライトは笑顔で部屋の中で迎えてくれたのだった。 管理人のおじいさんがあのWBの艦長がいることに気づき、部屋の中で待つようにと開けてくれたらしい……。さすがのマサキもドアを開けたら、ブライトがお茶を飲んでいるのを見て、びっくりしてしまった。 「ああ、これ。」 マサキが出したビールを一口飲むと、ブライトは自分がしている腕時計を差し出した。 「……やる。」 「どうも……って、このためにきたの?」 「そう。誰かさんがなが〜い有給とるらしいしさ。その前に渡しておこうと思って。」 「そりゃ、どうもありがとう。」 ぺこり、と頭を下げて腕時計を受けとると、ブライトの顔をまじまじと見つめた。…ホントに似たもの夫婦ってブライトとミライのこと、いうんだなあ…と妙に感心してしまったのだ。そして、それ以上に気になっていたことを彼に問いかけた。 「あのさ〜、もしかして、『何で腕時計もってないんだ?』って聞きたいの?」 ブライトは自分が思っていることに気づいてくれたマサキを感心するような様子で、見つめ返す。 「まあな。もしかして、フラウに渡した箱って、そうじゃないかなぁと思って。」 フラウが退役するとき、WBのほぼ全クルーがカンパを渡した。彼女が幼い子どもたちを引き取ることを知っていたからだったのだが、マサキはカンパとして小さな箱を渡していたのだ。 「ちょうど手持ちのお金がなかったし、全く使ってないものだったから…。これからも、どうせ私の仕事じゃ邪魔になるだけで使わないしね。売れば高く売れるでしょ? だからね…。」 「そう、か…。」 実にマサキらしい台詞だった。ものに対して必要以上に執着心がない。それはそれでいいのだが…。ブライトは思わず苦笑してしまった。 「ま、それはともかく…。早く帰らないと、ノア夫人が心配するよ。」 マサキがもらった腕時計をブライトに差し出す。ブライトが時計を見ると、すでに21時近くになっていた。 「明日は休暇だから、ゆっくりできるが…お言葉に甘えて帰っておきますか。」 ブライトは空になったビール缶を机に置くと、胡坐をといて勢いよく立ち上がった。 「おっと…。」 酔いが回ったのか少し前傾姿勢になったところを、マサキが片腕を掴んで、それ以上前にいかないようにする。 「すまん。」 「いいえ。」 照れくさそうなブライトの笑顔と、微笑んでいるマサキの顔。距離は近いのだが、視線は全く別の方向を向いていた。意図的にマサキが視線を外していたのだった。 「マサキ、何かあった…?」 「……そんなことより、一人でちゃんと帰ってね。アツアツ新婚家庭に行くのはこりごりだかね。」 「大丈夫だ! 俺だって、まだ若いんだ!」 「『若い』って言い始めると、オジさんなんだよね〜。」 笑いながらマサキは、部屋の外にブライトを送った。 「じゃあ、おや休み。また、な…。」 「……じゃあ。」 その挨拶の後、マサキは自宅の扉を勢いよく閉めた。コツコツと律動的な足音が廊下に響くのを聞きながら、マサキはもらった腕時計を見つめていた。 「う〜む…。」 言葉はいつも通りだったが、彼女は微笑んでいた……。 ブライトとミライの結婚式当日。 マサキは披露宴に顔を出した後、ジャブローを離れるべくエアポートに来ていた。 左の手首には…あの時の腕時計がはめられている。 「…ありがとう、ブライト。」 そっと腕時計に見る。まるでブライトが側にいるようだった。それは嬉しいことだったが、マサキの意思とは違うものだった。だから…。 「よう、退役曹長!」 そんなところに、声をかけてきたのは──あいつだった。 「…あのねぇ。“雪”のおじさん…。なんでここにいるの?」 「ああ、偶然偶然。たまたま、ここに来たんだよ。」 そんな答えを返してくれる彼の心遣いに感謝してしまう。だから、こそ。 「あ、これなんだけど……ブライトに返してくれる?」 「…ああ。わかった……それだけでいいのかい?」 「ん…十分。」 「わかった。返しておくよ。」 笑顔で答えてくれる。それだけで今のマサキは嬉しかった。 「じゃあ、ね。」 「ああ…。」 マサキは、自分が乗る飛行機のゲートに向かって歩き出した。 “雪”のおじさん──スノーは、エアポートの出口に歩き出した。 夫々、進む道は違うが、同じ思いを抱いて進む。 その思いが再びすれ違うことがあるのかどうかは、誰にも分からない。だが、その思いは変わらないだろう、きっと…。 二人は同じことを思い、お互いの相手のために祈る。 「Good Luck!」 《了》
『腕時計〜Good-Luck!』
てなわけでの入江さんからの頂きもの・その2でした☆ ちょいと切ないお話──んでもって、又もや、スノーを出してもらった上に、半ば強奪したような気がしないでもない・・・^^;;; そのくせ、自分の〆切が重なったとはいえ、10日も放りっぱなし状態になって、申し訳ないっス。 とまれ、無事Up★ バックなんかもちょい他とは違うイメージにしてみました。どーかな? にしても、ラストの「Good Luck!」に『雪風』を連想してしまった輝って・・・全くねぇ? 2002.09.02. |