『愛』がある限り〜腕時計 最終章〜 入江和馬


後編 −Revolution of wild flower−


「スヴェータが目覚めたら伝えて。過去を振り返っても、もう元には戻れないの。思い出すのが辛いなら、忘れればいい。全てを忘れて、前だけを見て、歩けばいいわ。」
「どう歩くかは、自分次第ということか?」



「…また、同じ夢を…。」
 スヴェータ…いや、マサキはそう呟いて、目を開けた。
 天涯つきのベットには幾重にもカーテンが下ろされている。周囲の様子は窺いしれないが、自分だけの空間がそこにはある。
 同じ夢を見てしまう自分自身を…悲しい想いで、見つめていた。その場にはいなかったはずなのに、その場面を鮮やかに思い出すことができるなんて…『言霊』という言葉を信じてみたくなった。
 真暗な中に落ちていく──そんな夢に変わって見るようになったのだから、まだマシなのかもしれない。
 失われた記憶は最近、思い出すようになってきた。それは連邦軍でホワイト・ベースに乗艦していた時のものが多い。辛いのに楽しかった思い出。それでも、連邦軍退役前後からの記憶が全くなくなっているマサキにとっては有り難いものだった。
 ミライとの楽しい日々。アグラーイ家で一人で過ごすことが多かった彼女にとって、ミライは太陽の光のようだった。
 そして、ブライト・ノア。スビャートンカが話していた通りの人物だ、とパオロ艦長の仲介で会った時に思ったっけ…。
 記憶が全くない年月。私は何をしていたのだろう?
 …その記憶に繋がるだろう繰り返し見る夢、そして…。その記憶を思い出すよりも、彼女は為すべきことを見出してしまったのだ。だからこそ…。
「あの時計。動いていなかったな…。」
 あの腕時計には、自分の失った記憶の全てが詰まっているような気がした。今度スビャートンカに聞いてみようかな…。

「スヴェータ様、スビャートンカ様がお見えです。」
 いつも側にいるファイーナ。その声にさえ泣きたくなる衝動を彼女は抑えた。そして、同時に思考の迷走はそこで終わらせ、『スヴェトラーナ・マサキ・アグラーヤ』に戻った。
「ええ、こちらに来て頂いて。」
「畏まりました。」
 ファイーナが下がると、カーテンの外から声がかかった。
「また、あの夢を見たのかい?」
 スヴャトスラーフ・ミハイロビッチ・アグラーイはカーテンを手で上げ、静かに中に入りこんだ。ベットの端に座る動作も優雅さを保っている。それを目で追いながら、マサキは言葉を返した。
「ん…。」
「そうか…。」
 スヴャトスラーフは言葉を短く切ると、彼女の腰に手を回し、そっと抱き寄せた。マサキもその動きに合わせるように体を彼に預ける。幼い頃からの習慣。他の人間の目には奇異に映るかもしれないが、この姿勢がお互いに一番、安心するのだ。
「相変わらず、温かいな。」
「そう?」
「この温かさ何度に、助けられたことか…。」
「ん…。私もお兄ちゃんに、いつも助けられているしね。」
 彼女はそっと微笑んだ。マサキの自分への感情が理解かるだけに、思わず衝動が彼の口を突く。
「俺が…。」
「いいの。私がやりたいことだから。恩返しってことも含めて、私がやりたいことなの……駄目?」
 言葉を途中で遮られ、強い調子で押し切るような彼女に、スヴャトスラーフは何も言えなくなってしまった。
「今日は倒れちゃったけど、大丈夫。あの時計、私の記憶の全てが詰まっているような気がして仕様がないの。けど、思い出したくないから、思い出さないの。」
 彼はその想いを受け止め、一言だけ、
「協力はするよ。…後継者殿。」
「ありがとう、お兄ちゃん。」
 端から見れば、仲の良いカップルであったかもしれない。だが、この二人には悲しい思いが含まれた、ある決意があった。
 二人はそのまま、しばらく抱き合って過ごした…記憶がなくなる以前のように。
「シュネーヴァイスには今のお前は理解できないらしい。」
 そっと彼女の耳元に囁くと、困ったような吐息が聞こえてきた。
「そう…仕方がないよね。そのままにしておいてくれてもよかったのに。以前の私が好きだった…ううん、今もその気持ちみたいなものが……。彼には直接、話さなくちゃ。けど…。」
 マサキはどんな顔をしたらいいか分からなかったが、最良と思える表情…微笑を浮かべ、彼に目を合わせた。
 そんなことを考えている彼女を見つめながら、穏やかに話しかける。…一番、聞きたかったことを。
「好きだってことは覚えていたのかい?」
 マサキはその問いに一旦、視線を外し、少し考えると、再び目を向けた。
「ううん。好きだったのかなあ…って。けど、私が記憶をなくした原因らしいものをお兄ちゃんに教えてもらったでしょ? その時にイメージが浮かんだの。」
「イメージ?」
「何ていうか…あの人の顔だけ浮かんできたのよね。悲しそうな顔、そして…。」
「そして?」
「ん……。そこまでは、まだ…。それに…。」
「思い出したくない、か…。」
 そんな彼女の思考の軌跡を追いながらも、想いは大きくなり、彼は彼女を抱き締めた。
「お兄‥ちゃん‥?」
「俺は、お前を…。」
「駄目。その先はクリスさんに言うべき言葉よ。」
 彼女はスヴャトスラーフから手を解き、体を離す。
「……。すまない。」
 体を離されたことによる寒けが背筋を走った。我がアグラーイ家…この家の呪われた血が騒ぐのを感じて、無意識に頭を振る。『血統を守る』ために近親結婚を繰り返すアグラーイ家。この感情にその流れに身を任せてはいけないのだ。…私にはマルーシャがいるのだから…。
「自分次第ということ、忘れるなよ。」
「はい。」
 その言葉を発する瞳には、強い光が宿っていた。その瞳を見て、彼はマサキ…いやスヴェータが倒れた後のことを思い出していた。


 スヴャトスラーフはスノーを観察していた。
 マサキが倒れた後、そいつ──いや、彼は何もできなかった。いや、動けなかった。鋭い視線を自分に向け、何かを言おうとしていた。慎重に言葉を選んでいるように装っていたが、実際は…頭の中が真白なのだろう。だから、何もできない…。
 仕様がないのかもしれない。彼の想い人であるスヴェータ──マサキが倒れたのだから…。スヴャトスラーフは見下すような視線を彼に返した。
 一方、スノーは混乱していた。微笑みながらも、ブライトがマサキ──いや、スヴェータの部屋から出てきた時、スヴャトスラーフがブライトに軽く手を上げ、短く礼を言うのを遠くで、スノーは聞いていた。
 彼がそんな自分に向かって話しかけてきた。その視線は…身が凍るほどに冷たかった。
「ベルンハルト・シュネーヴァイス、どうした?」
 その呼びかけに瞳の中に入れた彼に、スノーは想いを言葉にしていくように、ゆっくりと話し出した。腕につけた時計を押さえながら、
「…こいつを見ていたんだ、あいつ。だから…。」
「だから?」
 彼は相変わらずの態度で、スノーの言葉を聞いていた。
「気持ちだけは受け取ったから…。それだけで、今は十分だ。」
「ほう! 気持ちをね…で、その気持ちがあれば、記憶が戻るかもしれないと? はっ!」
 若干の失望を感じながら、スヴャトスラーフは表情を崩さず、より冷たい視線を彼に向けた。
「ここまで馬鹿とはな…。」
 スノーの心に、その言葉は重く圧しかかっていった。だが、自分は思った、いや感じたことを言った。あいつだって、この気持ちには応えてくれるはず…。
 そう考えているのが手に取るように解かるスヴャトスラーフは、相手が言葉を繋ぐ間もなく畳みかける。…できの悪い生徒を教える教師のように。
「まあ、仕様がない…ところで、私のスヴェータが記憶がなくなっている原因は知っているのかな?」
 いきなりの核心部分にスノーは反射的に言葉が出ていた。
「いや。」
 スヴャトスラーフは鷹揚に頷くと、現実を彼に思い出させるように淡々と話し出した。
「私のスヴェータの記憶が失われたのは、貴様が原因ではない。そして…私の、大切なスヴェータは記憶を取り戻したくはないだろう。必要がないからな。貴様を思い出すことは、今のあの子にとって必要がないのだよ。」
「必要が、ない?」
「ああ…必要がない。そう、今の貴様には、少なくとも、スヴェータに、マサキに思い出してもらう資格はないな。重い十字架を背負うことになった人間《もの》の苦しみ、悲しみ…自分の幸せを追ってばかりでは、話にならない。」
 それだけを言い捨て、部屋を優雅な足取りで去っていくスヴャトスラーフは、その足でマサキの寝室に向かったのだ。

「お兄ちゃん?」
「ああ、すまないな…。」
 いつの間にか彼女を再び腕に抱いていたらしい。彼の腕の中で息苦しくなったマサキが声を上げたため、回顧から現実に頭を切り替え、マサキを再び自らの膝の上に乗せ、体を離す。
「ありがと。だから、あの人に伝えて…もう思い出させないでって。」
 悲しみを堪えた声…ではなく、明るく希望に向かって、歩き出した人間の生き生きとした表情で、彼女は彼に目を合わせてくる。
「ああ、理解った。すぐに訪ねてくるはずだから、その時にでも。」
 その表情につられるように、彼は穏やかに微笑んだ。


★      ☆      ★      ☆      ★


 スヴャトスラーフが去った後、ミライはその言葉と態度に何かを感じ、声をかけた。
「スヴャートンカ!?」
 ブライトはそんなミライの想いを察し、彼女の耳元で囁いた。
「ミライ…スヴャトスラーフは理解っているよ。落ちついて。」
 そっとミライの両肩に自分の手を置く。
 その穏やかな声と両肩からの温かさに、ミライは一瞬で自分に戻ると、ブライトの手に自分のそれを重ねた。
「…そう、ね…。」
 彼には解かっているはず。あの“一枚の葉”を託したのは彼なのだから…。そして、名前という重圧をスノーの前で話してみせた心を…。
 ミライはブライトの手の温かさに心が落ちつき、その温もりを大切に思う。真剣な表情で、ブライトの方に視線を向ける。
 そのブライトは、先ほどマサキ──スヴェータの寝室まで彼女を運んだ時のことを思い出していた。

 スヴェータが倒れた後、ブライトはその身体を軽々とお姫さまだっこの状態で寝室まで、彼女付きの従者に先導され、連れていった。
「軽くなったな、マサキ…。」
 その呟きが聞こえたのか、従者は静かに語り出した…それは独り言のようでもあった。
「マサキ様…いいえスヴェータ様は、ずっとある人をお待ちでした。ですが、この方のことですから、そのような気持ちを表には出しません。だからこそ、あの腕時計は意味があるものなのです。」
「‥‥。」
 ブライトは無言で、その話を聞いている。
「この10年間の記憶がなくなったのは、その気持ちを忘れるため以外の何ものでもありません。ですから…あの腕時計にはその気持ちが詰まっていた。それを待っていた人が着けてきたのですから……。たとえ覚えていないとしても。」
 穏やかな口調で話しながら、そっと寝室へのドアをブライトが通りやすいように大きく開ける。
「……ショックをお受けになられたのでしょう。今日は多くの方々がいらっしゃいました。お疲れのご様子です。今日は、皆様お帰りになられた方が…。」
「そうしましょう。では、私はこれで…。ありがとう、ファイーナ・ローラ。」
 名前を呼ばれたファイーナは、大きく目を開き、一瞬驚いた表情をしたが、穏やかに微笑を返した。
「あなたのことはスヴェータ…いや、マサキから、よく聞かされていました。『母』のような存在な方だと…そして、実の母だと判明って嬉しかったと…。」
 ゆっくりと微笑みを返すとブライトは静かにマサキをベットに横たえる。
「そうですか、この子は判っていたのですか…。」
 寂し気な表情とともに言葉を濁すファイーナに、ブライトはマサキの気持ちを伝える。
「ええ。あなたのことを誇りにしていましたよ。よく言っていましたから。」
 ファイーナの微笑みとともに流れる涙に、彼は部屋から出ていった…。

 ファイーナ。そして、あの図書館でのスビャトスラーフの話。どれもがブライトの想像を越えるものだった。『庇護するもの』と思っていた彼女は、逆に彼を守り…。スビャトスラーフが話している時の苦悩に満ちた表情を思い出した。
 だからこそ、ミライを止めたのだ。ミライも十分に理解している。ただ、感情が先走っているだけだ。ミライの視線を受けたブライトが微笑む。
 その二人の落ちつきぶりに、スノーは言葉を失う。何も言い返せないままに、スヴャトスラーフも去ってしまったのだ。
 なのに、なぜ二人はあんなに落ちついているんだ。まさか、スビャトスラーフが言わんとしていたことを理解したとでも? スノーは激しく混乱していた。
 マサキが思い出したくないって…?
 俺に、資格がないとはどういうことなんだ…?
 その疑問が彼の中に渦巻き、立ち竦んでいた。身体が動かない……。
 体が、心が動かなくなってしまった。そんな彼に声をかけてきたのは意外な人物だった。
「スノー、行こうか?」
 レオンの姿を瞳に捕らえた後、スノーは全身の力が抜けるのを感じた。


 レオンは黙って、車を運転していた。助手席に座るスノーはその沈黙に合わせ、何も喋らなかった。勿論、途中まで同乗していたブライトとミライも……。
「申し訳ない。無理を言って…。」
 ブライトは車から降りる直前、レオンに声をかけた。
「いいんです。気にしないで下さい、ノア大佐。警護の隙間も、あのハンスから教えてもらいましたし、大したことではありませんでしたよ。」
「助かります…では、スノーを頼みます。」
 その言葉の重さ…レオンは承知していた。だから、簡潔に簡単に答える。自分の気持ちを伝えるように。
「ええ、必ず。」
 ノア夫婦の宿泊先に二人を降ろした時の会話は、スノーの耳には入っていなかったらしく、口を堅く閉ざし、挨拶もしなかった。
 その後も沈黙は暫く続いた。そして、珍しくレオンから話しかけてきた。
「君は、君のマサキの幸せは、君の幸せになると思っている?」
 前をしっかりと向き、ハンドルを握ったまま、いきなり核心を突いてくるのにスノーは戸惑いながらも答える。
「そうだよ。」
「でも、それって『自分の幸せ』であって、マサキの幸せじゃないんじゃないか? なぜ君のところには来なかったか…いや、来られなかったか。それを聞いた方がいいんじゃないかな?」
 思いもかけない言葉に、スノーはやや混乱しながらも、レオンに疑問を返していく。
「誰に?」
 レオンの答は簡単にして明瞭だった。
「…スビャトスラーフ・ミハイロビッチ・アグラーイ。彼しかいないだろう。」
 その冷静な声と答に感情を逆撫でられた形になったスノーが、その感情を爆発させる。
「あいつに!? あんな奴に頭を下げるなんてできるか!!」
 そのスノーの感情を受け止める。この言葉は間違っていなかった。だから、スノーは怒ったのだ。レオンはそう判断すると、さらに言葉を重ねた。
「…その程度だったのか? 君の彼女への想いは?」
 自分のプライドに対しての容赦ない言葉に、スノーは気付いた。いつになく、レオンは饒舌だった。レオン、あんた何を考えているんだ!?
「そんなことは、ない!」
 スノーは断言した。思考がはっきりしない。だが、このことだけは、はっきりしていた。
 スノーは視線をレオンに向ける。そこには車を路肩に止め、いつの間にかスノーの方を向いていたレオンがいた。…満面の笑顔で。
「なら、確めてこい。お前の気持ち。そして…あいつの気持ちも、な…。」
 その『あいつ』が誰に当たるか、言ったレオン自身も判断らなかった。その後、車は再びUターンして、アグラーイ家に向かった。


☆      ★      ☆      ★      ☆


「来ると思っていたよ、負け犬くん。」
 いきなりの言葉に、スノーは怒りの感情が吹き出しそうになったが、無理矢理飲みこむ。もう夜も遅くなっている。アグラーイ家にアポイント無しにやってきたのだ。そして…マサキのこともある。感情を抑え、冷静な視線をスビャトスラーフに移した。
「教えてくれ。…マサキに何があったかを。そして…。」
「そして?」
「お前は…マサキを…。」
「大切に思っている。だからこそ、お前を呼んだ。スヴェータのためにな。」
 『冷たい微笑み』のまま、そのスノーの感情をスビャトスラーフは突き放した。
「な、何……。」
 言葉が出ない、いや、思い通りの言葉が出ないのだ。マサキのために、俺を呼ぶとは…?
 その彼の表情を見て、スビャトスラーフは慎重に言葉を選び、事実を彼に対面させることを決意する。
「聞きたいか? 我が家のことを。そして、私のスヴェータの運命も。」
「ああ。」
 スビャトスラーフの真剣な視線を受けて、これから話される内容が自分の求めていた答であることを認識《し》った。表情が自然と真剣なものに変わっていく。
「君のこれまでの人生が、全てなくなるとしても? 重い十字架をスヴェータとともに背負うことになったとしてもいいのかな?」
 深刻な内容の問いかけだったが、それに対してスノーは晴れやかな微笑を見せた。
「あいつがいなけりゃ、これからの人生、つまらないからな。そのくらい背負ってやるさ。」
 その声に一瞬だけ片眉を動かしたが、スビャトスラーフはいつもの表情に戻ると、黙って片手を上げ、執事を呼んだ。
「…青の間に、彼を案内してくれ。」
「…よろしいのでございますか? マルーシャ様がいらっしゃいますが…。」
「構わない。彼女の許可は取ってある。」
「畏まりました。シュネーヴァイス様、こちらへ。」
 そのやり取りを聞いていたスノーは、スビャトスラーフに尋ねた。
「マルーシャって…?」
「来てみれば分かるよ。雪の小父さん君。」
 その言葉を聞いて、スノーはこれから起こることに、身体が震えた。


 『青の間』に着いたスノーは目を丸くしていた。全てが青の装飾品で揃えられた広大な部屋であった。それだけでも十分驚くのに、そこから全ての音波を遮断するように作られた要塞のような部屋に行くことになり、落ちついて話しだしたのは、シェルターの中央…リビングとでもいうべき場所でだった。
「ここは、私の秘密の部屋…彼女の父親から身を守るために作られた部屋だ。」
 いきなりの告白に、スノーは動揺を隠しきれなかった。その表情に気づいたが、敢えて何も言わず、彼は話し出した。
「…スヴェトラーナ・マサキ・アグラーヤは、私の従妹だ。」
「それは知っている。」
「まずは落ちつけ、ベルンハルト・シュネーヴァイス。スヴェータは、父親に売られたのだ。一年戦争時、私に対して起こした反乱の主犯であった父親、アヴグストが自らの保身のために私に人質として差し出してきたのだ…。それだけなら、まだしもだった。だが…我が父ミハイロフ・セルゲイェヴィッチが、さらに過酷な試練を与えたのだ。連邦軍に入隊する前に、彼女は既に告げられていたらしいのだが…。」
 スビャトスラーフはそこまで言い放つと、二人が到着した時から置かれていた紅茶を一口飲んだ。
「マサキ、が……。」
 スノーは彼女の笑顔を思い出していた。そんな暗さなどの感じられない笑顔で、自分に接していた彼女が──俄かには信じられなかった。言葉にはできない想いが溢れてくる。
「父は一年戦争後、私の婚約者としてスヴェータを指名したのだ。それは…私の後継者として正式に指名されたことになるのだ。このアグラーイ家を継ぐ人間として。この過酷さは、お前には理解らないだろうがな。」
 このアグラーイ家の大きさと重責。そして、彼女の立場。スノーにも容易く想像がついた。あの穏やかな性格には…。
「私を守るため…そして、父親の暴走を止めるために間に入ったスヴェータは…アヴグストの銃弾に倒れたのだ。…暫く彼女は意識不明だった。やっと意識を取り戻し、体力を回復した彼女は…記憶がなくなっていたのだ。」
「……。」
 スノーには声もなかった。自分が苦悩に満ちた生活を送っていた時、マサキもまた──それを上回るものの中にいたのだった。
「記憶は徐々に取り戻していった。が、いくら時が経ってもスヴェータは連邦軍入隊前の何もなかった頃の記憶までしか思い出さなかった。そう、スヴェータが一番、楽しかった時まで、だ。ブライト大佐が来てからは、少しずつホワイト・ベースのことは思い出していたらしいが。」
 スビャトスラーフはそこまで話すと、優雅な動作で紅茶を飲み干し、軽く手を上げ、傍らに控えていたブロンドの女性を呼んだ。その女性は軽く頷くとお茶のセットを下げていった。
「なぜだか解かるか?」
「それは…。辛い時を思い出したくないから、だろう?」
「いや、それだけではないな。それは…スヴェータと話して、識るがいい。」
 スビャトスラーフはそこで言い切ると、新たに淹れられた紅茶を美味しそうに啜った。
「いいの?」
 先ほどの女性が呆然としながらも、頭の中の情報を整理しているスノーを一瞥し、尋ねてきた。
「あの子も話したがっていた。それに…。」
「それに?」
「これ以上は私が何を言っても仕方がないだろう。君の時みたいにね。」
「どういう意味かしら?」
 優雅な仕種に表情は極上の微笑を浮かべているが、話している内容は…。スノーがそのことに気がつくと、その女性──マルーシャと呼ばれる女性が視線を向けた。
「初めまして、雪の小父さん。」
「…その呼び方、なぜ…?」
 知っているのか? と聞こうとした時、執事が奥の扉から現れて、部屋の中の人間に礼をするとスノーが待っていた言葉を伝えた。
「シュネーヴァイス様、スヴェトラーナ・マサキ様がお会いになられるそうです。」


「よく、いらして下さいました。ベルンハルト・シュネーヴァイス。」
 寝室に通じるリビングは先ほどの部屋と比べれば、小さいが、その装飾といい広さといい、アグラーイ家の力を誇示しているかのようだった。そこにあるソファに座っているスヴェトラーナ・マサキは、正しく絵画にでも描かれる貴族のようだった。
「ああ……。」
 余りの違和感に、スノーはソファーの前に立ち竦んでいたが、スヴェトラーナ・マサキにソファを勧められる。
「時間がないの。」
「時間、が?」
 いきなりの言葉にスノーはスヴェトラーナ・マサキの顔を見つめた。
「私は、このアグラーイ家の継承式を明日行うの‥。この手でアグラーイ家を活かすために」
「え…? 結婚式ではなく?」
「ええ。あれは外を誤魔化すためのもの。あの部屋も盗聴されているわ。だからよ。」
「アグラーイ家を活かすために…。」
 全て周りは敵だらけ。記憶もなくその中で、このアグラーイ家を継承する決心をした彼女。その彼女に俺は…。
 スビャトスラーフの言葉の真意が漸く理解できたような気がした。その中で、彼女は何を考えたのだろう? スノーはそれも少しだが、見えてきた。
「だから…今までの記憶に頼るのではなくて、新しい関係を作っていければって思っているの。」
「今までの記憶は?」
「…思い出したくないの。理由は…。」
「いいよ。話したくなければ。いつか、話してくれたら。」
 その表情を見てスヴェトラーナ・マサキ…いやマサキは穏やかに微笑んだ。
「そうね。いつか思い出に馳せる時がきたら…その時にでも。」
 二人は視線を合わせ、そっと微笑んだ。


 その次の日。アグラーイ家では、重要な式が行われようとしていた。
「スヴェータ、大丈夫か?」
 その式…継承式の直前、スビャトスラーフはスヴェータに話しかけた。
「ええ、大丈夫。お兄ちゃんもクリスさんもいるし…それに…。」
「スノーもいる、と。」
「そうね。遠くで見ていてくれるから。きっと。」
 そう微笑むと、彼女は顔を正面に向け扉を開いた……。



スヴェトラーナ・マサキ・アグラーヤ。

 第13代アグラーイ家のトップとして長年に渡り、その地位につき、『連邦の闇将軍』として活躍する。ロンド・ベル艦隊への核ミサイルを渡したのはカムラン・ブルームを介しての彼女の手腕だとも云われている。
 また、アグラーイ家の改革を推し進めた『ワイルドフラワー』は、彼女の有名な改革の一つでもある。どんな人間にも差別なく、その才能に値する地位と責任を与える…歴史上のどの民主主義国家よりも民主的な改革を行ったともされる。
 晩年はその地位を、アグラーイ家とは全く関係ない才能豊かな人物に譲り、良き友人であり、アドバイザーでもあった友人と暮らしたとも伝えられている。消息は不明。


スヴャトスラーフ・ミハイロビッチ・アグラーイ

 その地位をスヴェトラーナ・マサキに譲った後、相談役として10年程彼女の片腕として働く。その後引退し、愛人とも噂される女性と暮らすも、その後は女性、そして、彼の子供とみられる少年とともに消息不明である。

《了》

『最終章(中編)』



 入江さんからの頂きものクライマックス☆ 大団円です♪
 まーったく、入江さんには驚かされます。まさか、も一回レオンが出てくるとは──正直、スノーより誰よりも輝の方がビックラしただ☆(それしかゆーことはないのか?)
 何はともあれの力作長編シリーズ、ありがとう&ご苦労様でした。
 因みに本作品は現在、りんださんのHP『Cafe Bagda-d』さまで連載中のリレー小説とリンクしとります。合わせて読めば、きっと数々の謎が解ける!!・・・・・・に、違いない?

2003.05.24.

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