愴海《うみ》に眠れ(前編) 遠雲《ユンワン》 骨と骨がぶつかる鈍い音がして、スノーの身体が宙に浮いた。 無重力の搭乗員集会室の中を彼の身体はゆっくりと舞い、やがて壁にぶつかって止まった。 打たれた頬骨が痺れる。 壁を支えにして身体を固定したスノーは、できる限りの平静を装い、自分を殴りつけた上官を上目遣いで睨んだ。 「何だ、その目は…。」 上官は拳にこびりついたスノーの唾液をハンカチで拭き取っていたが、やや挑発的なスノーの視線を認めるや、再びつかつかと部下の前に歩み寄った。そして、尚も挑戦的な眼差しを続けるスノーの胸座を掴み上げた。 身長二メートル以上もある大柄な上官は片手で軽々とスノーの身体を持ち上げる。スノーとて、一目でゲルマン系と判別《わか》る金髪碧眼の白人、決して小柄なわけではないが、こうされると、まるで子供のようにも見えた。
そんな二人の様子を、すぐ近くの席で三人ほどの仲間が固唾を飲んで見守っている。 スノーや上官と同じ、突撃艇『タンガロア』号のクルーである。 だが、どうすればいいんだ、何てこった、という顔をしている三人とは対照的に、その向こうで行き来する、その他のノーマルスーツ姿の軍人達は興味なさそうに通り過ぎていくか、一瞥したとしても不快げにフンと鼻を鳴らすだけだった。彼らは全員、顔に疲れを浮かべ、激しい戦闘を潜り抜けきた者特有の殺気立った雰囲気を醸し出している。殺気立っているのは唯一人のタンガロア号のクルーとはその意味でも対照的だった。 「キーリング大尉!」 成り行きを凝視していた三人のうちの一人、若い女性が立ち上がって上官の名前を呼んだ。 「シュネーヴァイス少尉はまだ熱が下がってないんですよ!」 彼女の周りの二人の男は、その紅一点の仲間の顔を見上げ、同意するように頷いたが、キーリングの血走った視線をまともに受けると、すぐ床に目を落としてしまうのだった。 が、彼女はそうではなかった。 ポリネシア系とみえる、やや浅黒い顔をキッと正面に向けて、そのローラ・ウィピティ軍曹〜タンガロア号の副操縦士兼爆撃手〜はキーリングの目を見据えた。 「ふん…。」 キーリングはスノーの身体を掴み上げたまま、彼女を睨みつける。 「こいつのお陰で、俺達『タンガロア』のクルー全員が恥を掻いたんだぞ。」 「恥って何ですか!?」 すかさず、ローラが言い返す 「主操縦士が熱を出して、出撃を中止させられるのが、そんなに恥ずかしいことなんですか!」 ローラはキーリングだけでなく、集会所のあちこちで軽蔑するように彼らを見る他のクルーをも見回した。 誰もローラを睨み返せる者はいなかった。 スノーはそんなローラを黙って見ていた。
「スノーのせいじゃない・・・。」 軍曹が少尉を愛称で呼ぶことは突撃艇のような小所帯のクルー同士では珍しくない。特に副操縦士と主操縦士という間柄なら尚更のことであった。それでも、士官学校出の正規士官の中には(正にキーリングがそうだったが)規律に煩い者が多かったが、スノーはそうではなかった。 「気にしちゃ駄目ですよ。」 ローラはそう言って、冷却ジェルのパックを差し出す。 「ああ。」 肯定とも否定ともつかない態度でスノーはそれを受け取り、自分の左頬にそっと当てた。 二人の目の前のガラス窓の向こうでは第八雷撃隊所属のパブリク型突撃艇が四隻、整備員達の突貫作業による修理を受けている。 艇首正面に描かれた部隊のマークであるスズメバチの顔は、どれもが煤で汚れていた。 そして、どの艇も被弾し、中には操縦席の窓が割れ、キャビンの内壁に凍結した血液がこびりついた艇もあった。 その奥で、彼らの『TANGHAROA』のロゴと鯨のイラストを艇の側面、操縦席の下に描かれた突撃艇が、ただ一隻、無傷な姿を見せている。 ほんの六時間ほど前まで、ここには十一隻の突撃艇が同じように無傷な姿で並んでいたのだった。 そして十一組のクルー達が出撃前のブリーフィングを受けていたのだった。
「今日はお前は無理だ。」 ウォルドロン隊長がスノーの額に手を当てながら、そう言ったのは、そのブリーフィングの時だった。 「ハーヴェイ大尉! 君の艇に乗せてもらうぞ!」 「た、隊長ぉ!」 別の艇に乗るというウォルドロン少佐にスノーは抗議した。 これまでウォルドロンはスノーの操縦を気に入り、出撃するときはいつも『タンガロア』号を指揮艇に使っていた。 また、スノーも『おやっさん』と部隊で愛称されるウォルドロン少佐を慕っていた。 今日の目標は基地に向かって接近する進路を取っているジオンの巡洋艦五隻。 しかも、そのうちの一隻はチベ級重巡洋艦であるという。それは基地のある小惑星を封鎖する艦隊の旗艦に間違いなかった。 大物を狙う出撃に『おやっさん』が自分の艇に乗らないなんてありえない。 スノーはそう思って、寒気のする身体を起こし、痛む頭を押さえてノーマルスーツに身を包んだのだった。 だが、ウォルドロンの返事はにべもなかった。 「タンガロアは出撃中止だ! 残りの十隻で出るぞ!!」 『おやっさん』ウォルドロン少佐の命令は二十一歳になったばかりの青年将校スノー、ことシュネーヴァイス少尉の胸に死刑判決のようにグッサリと突き刺さる。 「おやっさん!」 思わず本人の前では口にしない渾名が出た。 ウォルドロンは返事をせずに自分の艇に向かって、歩いていった。 もういい、シュネーヴァイス、戻るぞ、そう言って今にも走り出しそうなスノーの肩を抑えたのは、あのキーリングである。 そして、スノーもローラも、これだけははっきり憶えている。 キーリングは出撃中止に嬉しさを隠し切れずに笑みを浮かべていたのだ。
このブリーフィングから三時間後、ウォルドロン以下十隻の突撃艇はチベ級重巡洋艦一隻を含む五隻のジオン巡洋艦艦隊へ攻撃を敢行した。 その連絡をスノーは通信室でじっと聞いていた。 迎撃のモビルスーツの射弾で仲間の艇が次々と撃破されているのが分かった。 「被弾した!」 レーザー通信によるウォルドロンの声が通信室に響いた。 「指揮艇より全艇! 指揮をアメット大尉に…。」 そこまで言った途端、ウォルドロンの声は途切れた。 艇が爆発したのは誰もが理解できた。 さらに二時間後、帰還してきたのは四隻だけだった。 指揮を譲られたアメット大尉もまた、帰ってはこなかった。
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キーリングがスノーを殴ったのは、この激戦に主操縦士の急病で出撃できなかったことを同僚に揶揄されたためだ。 その時までのキーリングが、出撃できなかったことをむしろ喜んでいたのはクルーの誰もが知っていた。 彼を揶揄した士官もまた、キーリングのそんな態度を当て擦ったには違いないが、逆上したキーリングはスノーを殴りつけた。 キーリングの何でも他人のせいにしてしまう性格はクルーの誰もが知っている。 艇長兼航法士である彼のミスを主操縦士であるスノーや、副操縦士兼爆撃手であるローラのせいにしたことは何度もあった。 だからこそ、ローラは「スノーのせいじゃない」と言ってくれるのだが、今度ばかりは、そう言われて自分自身を許す気にはなれなかった。
「シュネーヴァイス少尉…。」 一人の兵士が背後から声をかけたのは、スノーがそんなことを思っていた時である。 ウォルドロンの従兵だった。 中佐の遺品から、これが出てきましたので…。と彼は一枚の写真を差し出した。 写真には艇に描かれた鯨の絵とTANGHAROAのロゴを背景に中佐とスノーが写っていた。 深い皺の刻まれた顔を綻ばせたウォルドロンが息子のような年齢のスノーの肩を抱いている。 若いスノーはやや緊張しながらも「俺は隊のナンバーワン・パイロットなんだぜ」という自信を顔に漲らせていた。 「おやっさん…。」 スノーの喉はそれ以上の声を出すことができなかった。 ローラが、そっと相棒の肩を抱いた。 従兵は無言のまま敬礼し、綺麗な回れ右を行って部屋を出た。 「何がナンバーワンだよ…。」 「スノー、もうそんなこと言っちゃ駄目!」 ローラがスノーの耳元で囁いた。が、スノーは首を横に振った。 ローラは咄嗟にスノーが両手に持つ写真を取り上げようとした。だが、それは「少尉!」という別の人物がかけてきた声によって二人が揃って振り向いたことで中断された。 「キーリングが呼んでますよ、少尉。」 そう言ったのは機関士のハンク軍曹だった。少年といっていい年齢の通信士キムが不安げな顔でその後ろに立っていた。 「なに?」 またスノーを殴ろうって言うの?とローラが声を荒げる。 違うよ、多分、とハンクが少しもじもじして言う。 「通信室に行けって。第七雷撃隊が敵の捜索に出たから、連絡が入ったら知らせろって言ってる。」 「自分で行ったら、どうなの?」 いや、まあ、そりゃさ、とハンクは困った顔で口籠もった。 出撃の度にバーニアの調子が悪い、とキーリングに殴られているハンクにそんなことを言えるはずがない、とスノーは思った。 「言えないなら、あたしが言ってくる。」 そう言って部屋を出ようとするローラをスノーが止めた。 「いいよ、ローラ、行ってくる。」 「スノー、熱が下がるまで休んでなくちゃ駄目!」 「もう下がったよ。」 スノー…、立ち尽くすローラを振り返らずにスノーは通路に出て移動用のグリップを握った。 「何かしてなくちゃ、いられないんだよ。スノーは…。」 そう言うハンクをローラが睨みつけ、ハンクは黙って俯いた。
書類の上では基地には五つの突撃艇部隊がいる。 定数通りなら八十隻の大部隊だった。 だが、どの部隊も激しい戦いで定数割れを起こしており、稼働隻数はその半分ほどに過ぎなかった。 その四十隻ほどしかない突撃艇を基地では攻撃に、捜索にと酷使し続けている。 噂では来るべき反攻作戦に備えて、もう五つの突撃艇部隊が地球で準備されているという。しかし、それらの艇とクルーがいつ、基地にやってくるのか誰も知りはしない。スノーなどはまたぞろ、上層部が意図的に流した虚報なのではないかとさえ、思っている。 新型長距離戦闘機FF7B(いわゆるコアブースター)を装備する部隊が編成されているともいうが、これもどうなることやら分かったものではない。 また、少数ずつの供給が始まったモビルスーツRX77は搭載する推進剤の量が少なく、長距離攻撃には向いていない。それは従来の宇宙戦闘機製セイバーフィッシュも同じことだった。そして本来の主力である巡洋艦戦隊は反攻作戦に向けて温存が決定されていた。 突撃艇のクルー達に言わせれば、上層部の無策を自分達が命を擦り減らすことでカバーしているのだという。 それは当たってなくもない。 ともかくも、基地の防衛は酷い定数割れを起こしている五つの突撃艇隊に任せっきりにされているといって良かった。 壊滅してしまったウォルドロン隊も、今捜索に出ている第七雷撃隊も、そんな部隊の一つである。 敵の艦隊はウォルドロン隊を撃破してから行方を晦《くら》ませている。 基地に向かってきているとも考えられたが、予想される時間になっても姿を現さず、基地の中では次第に焦りが強まっていた。 ウォルドロン隊は敵巡洋艦三隻に命中弾を与えたというが、確証はない。 無傷の敵がいきなり目の前に現れる可能性もあった。 通信室はそんなことからくる基地全体の緊張を一身に引き受けている雰囲気が漲っていた。 ワッケイン基地司令も、突撃艇集団の司令も通信室に集まって、報告を待ち受けていた。 そんな具合だったから、誰も部外者の少尉が来ていても気には留めなかった。 「ワスプ02より連絡、ポイントA9、敵影を見ず。」 「ワスプ18より連絡、ポイントG5、敵影を見ず。」 「ワスプ11より連絡、ポイントE7、ホーネット15と思しき残骸を発見。敵影は見ず。」 そんな通信士達の報告をスノーもまた、じっと聞いていた。 聞きながら去来するのはウォルドロンとの思い出である。 あれは何ヶ月前だったか…。
部隊が宇宙にやってきて暫く経ったある日、ローラの提案で艇に描いた鯨のイラストとタンガロアのロゴを見ながら、ソフトドリンクで乾杯していた時、ウォルドロンが空中を泳いでやってきた。 「鯨か…。」 ウォルドロンはそう言って腕を組んだ。 キーリングが「ウィピティ軍曹の発案であります!」と言ったのは、叱責を受けるかもしれないと思ったからだろう。 だが、ウォルドロンはローラの方を見て穏やかに言った。 「タンガロアとは何だ。」 「マオリ族の海の神です。」 ローラがやや、遠慮がちに言う。 「ニュージーランドの出身か?」 ウォルドロンが鯨の絵を撫でながら尋ねた。 「南島の小さな漁村で育ちました。」 そうか、とウォルドロンは言い、ローラの細い肩を優しく掴んだ。 その時、ローラはこの名前に込めた真意をウォルドロンが理解してくれたのだと思ったという。 「この艇の主操縦士はシュネーヴァイス少尉だったな。」 「はい!」 「私もタンガロアの恵みにあやかりたい。この艇を指揮艇に指定したいのだが、どうか。」 「光栄であります! 自分が艇長のキーリングであります!」 キーリングが直立不動で敬礼した。 ウォルドロンは軽く答礼する。手はローラの肩に置かれたままだった。 「早くこの戦争を終わらせよう。そうすれば軍曹の村も、元通りになる日がくる。」 ローラは黙って敬礼した。 ローラの村はコロニー落しの時の大津波で全滅したのだった。
★ ☆ ★ ☆ ★ 突然、肩に誰かの手が乗せられたのを感じて、スノーの回想は打ち切られた。 振り向くと後ろにはローラ、ハンク、キムの三人が集まってきている。 「一人で充分だよ。」 そうね、と応えながら、ローラが自分の首にかけていた鯨の骨のペンダントを外した。 大津波で亡くなった父親が贈ってくれた御守だといって、彼女が肌身離さず持ち歩いているものだった。 「今日だけ、スノーに預けます。」 彼女はそう言ってペンダントをスノーの首にかけ、綺麗な、多分スノーが今までに見たローラの中で一番綺麗な微笑を見せた。 「ローラ、これ、お前の…。」 「いいの。タンガロアの御加護がきっとあるわ…。」 ローラはそう言って、もう一度スノーに微笑みかけ、そして、他の二人に呼びかけた。 「ハンク、キム、出撃準備にかかるよ!」 黒い髪を靡《なび》かせて、グリップを掴んだローラを他の二人が追った。 キムがにっと笑って、スノーに親指を立てた。 スノーは黙って、キムの頭を小突いた。
第七雷撃隊に属するワスプ21号艇が敵艦隊を発見したのはそれから一時間ほど後のことだった。
《続》
(中編) 久々のゲストさま作品です。遠雲さん、ありがとうございます☆ こちらも何と、スノー絡みの話です。本トに幸せなオリ・キャラ《奴》だよなぁ。 とにかく、ハードでシリアスな雰囲気をお楽しみ下さい。輝版では『事件』だけが存在している『上官拘束事件』真相です♪
2004.04.01. |