愴海《うみ》に眠れ・エピローグ 遠雲《ユンワン》


 ザブン、と音を立てて飛沫が甲板を濡らした。
 おぉ、と乗客がどよめき、揺れる船の上で足を踏ん張る。
「くびだ〜!」
 スノーの腕の中で、ミリシア・シュネーヴァイスが可愛らしい声を上げた。
 揺れる小さな遊覧船の上で、この子は全く普段と変わらない元気さを保っている。
 そして、片手でスノーの頬をピシャピシャ叩きながら、もう一方の手で海上を船と並んで走る青黒い巨大な生物を指差すのだ。
「パパ、くびだ〜、くびだ〜らよ!」
「クビだ、じゃない! 『く・じ・ら』!」
 傍らでは妻のジャニスが可笑しそうにお腹を抱えている。
「もっと言ってやれ、ミリシア。」
 娘を嗾《けしか》ける現在の艇長、ブライト・ノア少佐をスノーはジロリ、と睨んだ。
 突然、巨大なナガス鯨が潮を吹いた。
 飛沫は今度は甲板上の乗客の上に諸に振り注いだ。
「近づきすぎじゃない?」
 ブライトの妻、ミライが夫に話しかける。その腕の中では彼らの長男ハサウェイが巨大な生物に怯えて母の首にしがみついていた。
「そうかな、大丈夫だよ。」
 ブライトが妻に答えた。

 コロニー落としの惨禍から何年が過ぎたのだろうか。
 タスマン海(ニュージーランドとオーストラリアの間の海域)に鯨が戻ってきたというので、クルーズに参加しようと言ったのはブライト夫妻の方だった。
 ジャニスは話を持ちかけられると、その場で賛成して、家族三人分のチケットを取って貰えるよう、ミライに頼んでいた。

ローラ…。

 妻たちの話を横で聞いていたスノーの胸に、かつての副操縦士の面影が去来した。
 ローラ・ウィピティ中尉の戦後の行方は杳として知れない。
 軍を辞め、故郷ニュージーランドに戻った彼女の行方はタンガロアのどのクルーにも判らなかった。
 ローラの生まれ育った村はコロニー落としの大津波で、跡形もなくなってしまった。
 ア・バオア・クーの戦いまで、彼女の操縦する宇宙戦闘機の後席に乗っていたキムの話では南島東岸のクライストチャーチの町で、一時暮らしていたことは確かだという。だが、その後の行方は全く判らない。
 生まれ故郷の惨状にローラが酷く傷ついただろうことは察しがつく。
 コロニー落としの時には軍に入隊していた彼女にとって、それは始めて見る故郷の変わり果てた姿だったであろうからだ。
 鯨とは逆の方向を振り向けば、遠くにニュージーランドの山並みが見える。
「パパ、パパァ!」
 と鯨を見られなくなったミリシアが抗議した。



 船はミルフォードサウンドという港町に着いた。
 ここもコロニー落としの大津波で、一度は全滅した町だ。
 このクルーズのためにニュージーランド自治政府が辛うじて、町の形を整えたという程度に復興させていた。
 沈みかけた夕陽が雲をオレンジ色に染めて、山並みの向こうに隠れようとしていた。
 頭上をカモメがギャァ、ギャァと鳴きながら旋回している。
 船客達が船を降り、桟橋を渡って陸地を踏むと、そこでは土産物を売る露天商が店を広げていた。
「ねぇ、見て!」
 眠ってしまったミリシアを片手で抱いたジャニスがスノーを呼び止めて、露天商の店先に並ぶ土産物を指差した。
 鯨の骨のペンダントだった。
「それ、本物?」
 ミライが声を上げる。
「まさか、捕鯨は禁止されてるのよ。」
「それもそうね。」
「でも、いいじゃない。」
 そんな妻達の会話をスノーは聞いていない。
 スノーの手が自然とペンダントへと伸び、買ってもらえると思った露天商が腰を浮かした。
 スノーは黙って、ペンダントをじっと見つめた。
 ジャニスとミライ、そしてブライトが顔を見合わせ、スノーの仕種を見つめた。

「タンガロアのご加護がきっとあるわ。」

 ローラの、あの時の言葉をスノーは覚えている。
「どうした?」
 とブライトが声をかけた。
 スノーは掌の上のペンダントを見つめたまま、「いや、何でもないんだ」と答え、露天商に「これ、買うよ」と告げた。
 露天商が嬉しそうに笑い、ブライトにも一つ勧めたが、彼は相手にならない。
 スノーは露天商に金を渡し、ペンダントを持って、ジャニスの胸で眠るミリシアに歩み寄った。
 ペンダントを両手に持ったまま、母の胸に顔を押しつけているミリシアをじっと見守る。
「かけてあげたいの?」
 とジャニスが尋ねると、彼は恥ずかしそうにして、うん、と頷いた。
 ジャニスは娘を軽く揺さぶる。
「パパがプレゼントだって。」
「ぷででんとぉ?」
 眠そうに問い返す娘の首に、彼はそっとペンダントをかけ、押しつけられていたために少し赤くなった額に口づけした。
「ぱぱ、あいがと、」
 ミリシアの淡い色の金髪をそっと撫でる。

ローラは…。
ローラは解っているはずだ。
彼女を愛した人々の思いを解っているはずだ。


 頭上ではなお、カモメがギャァ、ギャァと騒いでいる。
 スノーは娘を抱いた妻の肩を、ぐっと抱き寄せた。
 ジャニスは驚いた顔で彼を見上げたが、やがてにっこりと笑って、スノーの肩に自分の頬を当てた。
 ブライトとミライは急に寄り添って、歩き出した二人を呆気に取られて見ていたが、やがて、ミライもブライトにそっと寄り添った。
 彼らの背後では露天商が別の客にペンダントを売りつけていた。

《了》

(後編)


 遠雲さんのゲスト作のエピローグUP☆ これにて、遠雲さん版スノーの物語も終幕です。
 輝版、入江さん版に続く新たな新たなスノーを皆さん、どうか可愛がってやって下さい(爆)
 以下、BBSのカキコ抜粋ですが、作者様コメントです。奥の深いテーマが見えるぞ♪

2004.04.27.



 おかげさまで「愴海に眠れ」後編までUPしていただきました。
 輝さん、皆さん、ありがとうございます。
 遠雲版スノー(と他の人々)もどうぞ、可愛がってやってください。
 後編の輝さんのコメントにもあるように、本作は0079年8月から11月にかけてのルナツー・サイド7宙域での戦いを描く一連の物語の一つとして書かせていただきました。
 スノーを快く貸してくださったうえ、間借りまでさせてくれた輝さん、本当にありがとうございました。

 さて、本作のテーマですが、前述した歴史的追求(TVではこの時期の宇宙の戦いはほとんど語られていない)のほかに、もう一つテーマを設けてあります。
 戦争という理不尽の中で人は何に救いを求めるのかということです。
 キーリングは己の実力以上に名誉にこだわりをもつ上官として描きました。
 ロウ中尉は作中では全く悩んだ様子を見せませんが、正規士官としての規範と人間としての規範の間で選択を強いられています。
 ヒロイン、ローラの支えは死んだ父親が自分にかけてくれていた愛情です。
 作中では回想のシーンでのみ登場するウォルドロン少佐は指揮官としての克己心と軍人としての使命感をもった人物として設定しました。
 スノーは彼らの狭間で揺れ、深く傷ついた状態で後編の結末を迎えます。
 彼が誰によって救われ、癒されていくかは、このサイトの皆さんはご周知のことでしょう。

 後編の最後でスノーの部隊が壊滅した原因をキーリングの責任に帰さなかったのは、戦争という理不尽を表現する上で、彼を単純な悪役にしたくなかったというのが(人間としては最低の上司として描いてますが)一番の理由です。キーリングがひどい奴であることに関わりなく(言い換えれば拘束事件の有無に関わりなく)、部隊は壊滅します。その原因をスノーの敬愛する上司が徹底させた戦法においたのは、繰り返しになりますが戦争の理不尽さを少しでも表現したかったからです。

 ローラというヒロインについてはストーリーとは関係ないものの「クジラの島の少女」というニュージーランド映画からヒントを得ています。古い伝統を大切にする家族の固い絆の中で育った女性として描きたかったこともあり、マオリ族の漁村の出身としました。愛し、愛されること、言い換えれば記憶し、記憶されることが人間を絶望から癒してくれることをスノーに示唆する役回りとして登場させました。

 また、タイトルは澤地久枝女史のノンフィクション「滄海よ眠れ」からとりました。大戦中のある海戦で戦死した日米海軍の兵士とその家族の話をつづった作品です。スノーが敬愛する上司ウォルドロンはその中の登場人物、米第八雷撃隊長からとっています。章のタイトルは「インディアンの血」だったかな。

 一応、簡単なエピローグもつける予定です。ブラ・ミラとハサウェイもちょっとだけ登場します(ホントに申し訳程度ですが)…。

 長くて申し訳ありません。今後ともよろしくお願いします。



 付記:続編に当たる『グレイリーダー帰還せず』遠雲さんのサイトにて展開。
     ローラのその後が明らかに!! 是非、読むべし☆


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