OPENING


 一日中、歩いて歩いて──だが、どこへ行けば良いのか……。
 行く末など、見えるはずもない一日が続く。とにかくも昼も夜も、出来るだけ、デルの街から離れようと、必死に歩いた。
 しかし、アンナは身重だ。そうは無理をさせられない。
「アンナ、休もう」
「まだ大丈夫よ」
「いいから。その代わり、余り長くは休めないぞ」
「……はい」
 道を外れて、木陰に腰を落ち着けると、アンナは大きく息をついた。大丈夫だと言っても、そんなはずがない。こんな苦労を強いることに、今更に心が痛む。
 返す返すももっと早く、エンドンと連絡が取れていればと、詮無いことを考えてしまう。
 すると、察しのよいアンナがそんな夫を窘《たしな》めるのだ。「先のことを考えましょう」と……。そして、問うのだ。「何処に向かうのか」と。
 それは当然の質問だ。影の王国の侵攻が始まり、本丸たるデル城とデルの街はその手に陥落《お》ちた──とはいえ、デルトラも広い。全土を完全に掌握するには時間もかかるだろう。抵抗運動も起こるはずだ。
 何より、デルトラには七部族を始めとした大きな部族もある。身を寄せるとなれば、やはり、まずは七部族を考える。
 しかし、それは敵も同じように考えるだろうという危険を伴う。特に王妃シャーンの出身で、デルトラ族にも匹敵する大部族たるトーラ族には真先に目をつけるはずだ。
「待ち伏せされているってこと?」
「まず、間違いなくな。だが、如何にも王と王妃がトーラに向かっているようにも見せないとならない。他に選択肢があるわけもないから、不自然になる」
 ジャードとアンナはともかく、エンドンとシャーンであれば、確かに他に寄る辺など、考え付かないはずだ。
 だから、今もとにかく、西へと向かっている。本当にトーラを目指すにしても長い道程ではある。それに、デル周辺を離れたことのないジャードには途中の不案内も恐ろしい。
〈しかし、今回のデルトラの危機をトーラがどう考えているかは知りたい〉
 何らかの形で接触する必要があった。



 休みつつ先に進み、夜も更けると、さすがに動きづらい。ジャード以上に、アンナも旅慣れていないのだから……。しかし、夜に動いた方がまだ安全なのだ。
 疲れから、アンナが寝息を立て始めたのを確認すると、ジャードは低く口笛を吹いた。
 バサバサッ…
 夜にも拘らず、鳥が舞い降りてきた。闇夜を切り取ったか如き黒い鳥──烏だった。
「よく来てくれた、キュイ」
 カァと応えるように一啼きし、掌の餌を烏は突き始める。全て食べたところで、ジャードは紙を丸めて、烏の足環に確りと嵌め込んだ。
「……行き先はトーラだ。この手紙を届けてくれ。解るか?」
 カァ〜と、もう一声。
「かなり遠いし、途中、アクババとかち合うかもしれない。呉々も気を付けるんだぞ」
 キュイという名の烏は羽ばたき、夜空へと舞い上がった。鳥目のはずだが、月夜でもあるので、訓練された伝達鳥は夜でも飛べる。
 そう、この一年ほどの間にジャードが飼い馴らし、訓練し続け、嘗ての伝達鳥としての役目を果たせるようになった烏だった。
「……本当に頼むぞ」
 魔力などに比べれば、微々たるものだが、ジャードが具えている人にはない力──それが鳥と意識を交わせる力だ。
 だが、それも有効に使えなければ意味がない。

 トーラまで往復で、どのくらい掛かるだろう。平時でも、遠いトーラまではかなりの日数が掛かるが、今は危ないモノが飛んでいる危険極まりない空だ。更に時間が掛かると見るべきだ。
 それにトーラがどんな返事を寄越してくるかも気になる。キュイに託した手紙は出掛けにエンドンが書いたもので、「どうか、助けの手を」との趣旨のものだ。
 一方で、トーラもデルと同じように攻撃されている可能性もある。何一つ、判っていないのだ。
 混乱は混乱を生むだろう。こんな事態になるまで! 何の備えもしていなかったとは!?
 大体、王の側近中の側近であるはずの首席顧問官までが影の大王の手先だったのだ。恐らくは、遠い過去に遡るまでに。

 いや、起きてしまったことを振り返り、後悔するだけで、クヨクヨと悩んでいても仕方がない。諦めずに、敵を撃退するべく、やはり協力し合うしかない。嘗て、デルトラを建国した初代アディン王が七部族の協力を得て、影の王国の脅威を退けたように……。
 その一歩を今、踏み出したのだと思い、心を強く保つべきだろう。だが、その一歩は思っていた以上に、険しいものであるようだ。
 始まったばかりで、終わりなど見えない逃避行を続けて、十日ほどが過ぎて──今のところは街道もまだ穏やかな方だ。彼らと同じようにデルの街を逃げ出した人々がいる反面、慌てて、逃げ出すよりも様子を窺うように、家に閉じ籠もっている者もいる。
 入れ替わったエンドンとシャーン同様に。そのため、ジャードとアンナも余り目立ってはいなかった。尤も、王と王妃に見せかけているのだから、多少は目立ってもらわないと困るのだが。
 それにアンナの体調も気になる。気遣っても、「大丈夫」としか言わないが、無理して、笑っているのが痛々しくもある。
 ともかく、キュイが帰るまでは西に向かうしかないのだ。こまめに休んでは進み、を繰り返した。


☆          ★          ☆          ★          ☆


 街道を少しだけ外れたところに建っていたあばら屋で、休むアンナを残し、付近で食べられそうな野草などを集めていた時だ。かなり疲れた様子の相棒が帰ってきたのは!
「良かった、キュイ。無事だな」
 唯一の頼れる仲間は一鳴きすると、頭をジャードに擦りつけてきたした。まずは、その無事が嬉しい。だが、勿論のこと、肝心なのは使いの目的だ。
「トーラは返事を寄越したか?」
 尋ねつつ、足環を確認する──が、足環は空だった。何も着けられていない。
「キュイ、返事は? トーラは、何も……?」
 カァカァ… 小さく羽ばたきながら、伝達鳥は嘶《いなな》いた。
 交錯する意識の中で、次第に意味を成すもの……。ジャードは見る間に蒼くなった。
「……書かなかった? トーラは何も書かなかったのか。まさか、影の王国に攻められたということは──」
 最悪の疑問は直ぐに否定された。だが、ある意味では最悪すら、越えた決定的な事態を知ることとなる。
「破った? エンドンの手紙を破ったのかっ。トーラが…っっ」
 その光景すらも、まるで、己の目で見たかの如く蘇る。ジャードはさすがにガックリと項垂れた。深い絶望に全身が囚われ、身動き一つ取れなくなりそうだった。

 心配しているような烏の鳴き声も遠いもののように感じる。
「何てことだ。トーラが…、デルトラ王家を見捨てたのか。エンドンばかりか、シャーン様までも!?」
 しかも、王妃は身重だというのに!! 現王だけでなく、次代の王までも、見捨てたことになる。一族の有力な家の出身であるはずのシャーンをトーラが切り捨てるとは予想もしていなかった。
 とにかく、これで決まった。トーラに向かうことはもう出来ない。西に向かうとしても、他に落ち着ける場を探さねばならないのだ。デルを出たことのないジャードたちに当てなどあるはずもなかった。
 必死に着いてきているアンナに何と説明すればいいのか。正しく、八方塞がりだった。

 ツンツン… キュイが手を突《つつ》いた。物憂げに顔を向けると、心配そうに一声鳴く。
「あぁ…。済まない。大丈夫だ。一つハッキリしただけでも、進展と思えばいい」
 今のトーラは味方とはならない。だが、それならば、いつの日か再び手を結べるように考えなければならない それが判っただけでも意味はある。せめて、そう前向きに考えなければ、本当に動けなくなってしまいそうだった。
 だが、キュイが何故か、また忙しなく鳴き始めた。他にも伝えたいことがあるようだ。意識を向けると、そこに気になる存在が浮かび上がる。
「影の…、憲兵団だと? 西の街道筋に、そんなものが?」
 そうそう、とでもいうように、首を振るキュイにジャードは息を呑んだ。トーラのことよりも、こちらの方が重大かもしれない。
「西には既に、影の王国の尖兵が現れたというのか」
 しかも、特に妊婦や赤ん坊連れの若い母親を片端から捕らえていると!? その意味するところは明白だ。探しているのはシャーン王妃だ。そして、お腹の中の世継ぎかもしれない子だ。
 このままではアンナの身も危険だ。すぐにでも、トーラへ至る西への街道筋からは外れてしまわなければならなかった。



「──西へは、行けない?」
「あぁ、今は影の憲兵団とかいう連中が暴れているそうだ。しかも、シャーン様と思しき妊婦を狙っている」
「いつの間に、そんな話を……」
 それも当然の疑問だろうが、勿論、答えは用意しておいた。
「あぁ、君が眠っている間に、西から逃げてきた旅人から聞いたんだ。とにかく、君も危ない。西に向かうのは止める」
「それじゃ、何処に」
「東に向かう。デルの街の東の森に」
 アンナの顔色が変わる。
「それって、まさか──」
「そう。沈黙の森だ」
 アンナが大きく息を呑んだのも当然だった。
 “沈黙の森”──デルの街に程近い東方部に広がる森林地帯だが、王都の近隣だというのに、妖しい噂に彩られた『呪いの森』とも呼ばれている。地元であるデルの人間ですらが殆ど寄りつかない曰く付きの森なのだ。

「本気なの、ジャード。あの森は……」
「人が足を踏み入れないからこそ、隠れるには都合がいい。影の憲兵団とやらもデルまでは来ても、沈黙の森の噂を聞けば、無闇に突入はしてこないだろう」
 無論、最初から、そんなことを期待してはいない。
 だが、事実、“沈黙の森”には魔物が棲み、不用意に入り込んだ生物《もの》は誰であれ、何であれ、その餌食となってしまうのだ。“影の憲兵団”とやらも何度か犠牲を出せば、簡単には近付かなくなるかもしれない。
「まさか、デルの直ぐ近くに隠れるとも思わないだろうしな」
「でも、ジャード。魔物の方が厄介かもしれないじゃない」
「アンナ。不安なのは解る。だが、正体も碌に判らない影の憲兵団とやらと、やはり正体不明の魔物を比べても仕方がない。それなら、一つ処に落ち着けるかどうかが問題だ」
 それは身重のアンナを案じての判断だった。そうとなれば、やはり限られてくる。トーラが無理なら、他の都市か……しかし、憲兵団は何処にでも現れるだろう。ならば!!
「沈黙の森で一つだけ、有利なのは恐らく、彼の森の魔物は敵にとっても脅威になるだろうということだ」
 警戒してくれれば、こちらも対応しやすくなる。侵入しやすい道も限られているはずだ。その辺の警戒を強めれば、やり過ごせる見込みも高くなる。
「アンナ。僕を信じてくれ」
 ずっと信じると言い、着いてきてくれた妻だが、幼い頃から語り聞かされてきた“沈黙の森”の魔物への恐怖は心の奥深くまで穿《うが》たれたように根付き、容易には踏み出せないのかもしれない。
 況してや、“影の憲兵団”なる別の脅威までが出現してきたのだから!

「……警戒といったって、私たちだけで、いつも見張っていられるとも思えないわ」
 その指摘も尤もだった。アンナの恐怖を──身動きできるようになるまで、溶かしてやらなければ……。それにはもっと確かな保証が必要なのだ。安心するための確かなものが。
 自分ばかりではない。産まれてくる子供の身の安全を託せるだけのものを欲するのは母性本能なのかもしれない。
 ジャードも考える。いつまでも、此処に留まってはいられない。とにかく、動き出さねば──その一歩を後押ししてくれるだけの保証なぞ、ジャードには一つしかない。
「アンナ……」
「何?」
 答える代わりにジャードは口笛を吹いた。低く、低く──……。そして、右手を掲げる。「え…?」

バサバサバサ…

 影が射したと思った、その一瞬後には黒い鳥が──烏が舞い降り、ジャードの腕に留まっていた。
「警戒は、彼がしてくれるそうだ。キュイだよ」
 応えるように、両の翼を大きく広げ、一声、カァと鳴く黒い烏を呆然と見上げるばかりのアンナに、ジャードは今まで、誰にも話さずにきた生家と自らの秘密を打ち明けた。何れは話さねばならないと思っていたことだから、それは丁度いい機会だったともいえるだろう。
 伝達鳥、鳥と意識を交わせる能力、そして、トーラの返事……。
「それじゃ、旅人とか言ってたのは」
「そう。全部、キュイが見てきたことだ。トーラが助けにならないということもな」
 衝撃覚めやらぬ表情というべきだろうか。いや、どんな表情をすべきか迷っているようにも見える。
 ここに至り、ジャードの中に微かな不安が芽生えた。アンナなら、大丈夫。きっと、この異能も受け容れてくれるに違いない。
 そう信じきっていた心が、信じようとする心が不安に揺れる。
 人というものは、異質な存在を疎ましく思いがちなものだ。
 デル城から逃げ出してきたジャードを迎え入れてくれたとはいえ、やはり、こんな力には怯えるかもしれない。

 ジャードはアンナの顔を見ていられなくなり、キュイの羽を撫でて、心を落ち着かせようとした。そんな彼に、アンナが問う。
「ジャード。その伝達鳥を預かる役目は代々、受け継がれてきたって言ったわよね」
「え? あぁ、そうだ」
「それじゃ、貴方のその力も、そうなのね」
 ジャードは頷いた。
「ただ、力も段々と弱まってきていた。役目を解かれたせいもあるかもしれない。ここ何代かでは鳥と意識を交わせるほどの力の持ち主は僕だけだったそうだ」
 幼い頃、父がそう話し聞かせてくれた。顔も殆ど、覚えていない父……。
 少しだけ、懐かしく幼い頃を思い返したが、直ぐに現実に立ち返る。
「この子にも…、もしかしたら、具わっているかもしれないということなの?」
 お腹を擦る彼女にすれば、確かめておかなければならないことだった。我が子が自分の想像の及ばない特殊な力を持っているかもしれないのだから……!?
 果たして、受け止めてくれるか、拒絶されてしまうのか。人知れず、緊張しつつ、言葉を継ぐ。
「……そうだ。生まれてみなければ、判らないが」
 一族でも弱まっていた力なのだから、確実とはいえないが、自分には顕現《あらわ》れた以上、否定はできない。それどころか、
「先祖返りでもすれば、もっと強い力を持つ可能性もある」
「どんな風に?」
「鳥だけでなく、あらゆる生き物と意識を交わせるかもしれない。動物だけでなく、植物とだって……」
 途方もない可能性に、アンナが目を瞬かせた。ジャードは益々、気持ちが萎える思いだった。不安がどんどんと募っていく。

 いつしか、互いに黙り込んでしまった。きっと、アンナも困惑しているのだ。出会った頃からは、ずっと一緒だったのに、ジャードが秘密を持っていたことにも引っ掛かりがあるのかもしれない。
 だが、不意にアンナが手を伸ばしてきた。身を固くするジャードの手を取ると、そのまま、自分のお腹に当てさせた。
「アンナ?」
「とても元気なの。よく動くのよ」
 確かに温かさだけでなく、時々、脈動のようなものを感じる。耳を当てれば、心臓の鼓動でも聞こえてきそうだ。
「この子にも、貴方と同じ力が受け継がれたら──素敵なことね」
「…………え?」
 正直なところ、耳を疑った。余りにも明るく、言いのけてくれたことに。
「素敵?」
「そうよ。とても素敵よ。素晴らしいことだわ」
 ジャードこそ、今度は戸惑いを隠せなかった。幼い頃、事あるごとに父に人に気付かれないように気を付けろと注意されたためもあり、人は異能を疎むものだとばかり信じていたからだ。「……アンナ、平気なのか? この子が本当に、人にはない力を持っていても」
「だって、動物や植物と話ができるってことでしょ? きっと心の豊かな優しい子になるわ」
「そう、だな」
 拍子抜けするほどに、やはりアンナはアンナだった。少しでも不安を覚えたり、疑いを持った自分が馬鹿みたいだ。恥ずかしくなるほどに。
 反省までするジャードの気持ちなど気付かぬように、アンナは烏に興味津々だ。
「ね、キュイ、だったわよね。私にも挨拶させてくれない」
「え…、あぁ、どうぞ」
 右腕をアンナの眼前へと差し出す。嘘のように大人しい烏は小首を傾げるような仕草をして、アンナを笑わせた。
「私はアンナよ。キュイ、これからヨロシクね。この子のこともね」
 カァカァと嬉しそうに応えるキュイに、アンナがまた笑った。
 その笑顔に、力が湧く思いのジャードだった。



 西から東へ──再び歩き始める二人の頭上を先導するかに一羽の烏が舞う。
 途中、またデルの近くを通らなければならないが、遠目に見渡す街は静まり返り、アクババの姿もなかった。
 だが、恐らくは平穏に見えなくもない様子も一時のことに過ぎないだろう。直ぐに、噂の“影の憲兵団”とやらもデルに達するはずだ。
 その前に、“沈黙の森”に逃げ込まなければならない。ただ、逃げるだけではない。あの森で、魔物や憲兵団から身を守りつつも暮らし、赤ん坊を育てていけるだけの環境を整えなければならないのだから。
 だが、決して、道がないわけではないのだ。道がないのなら、切り開くまでだ。
 そうして、必ず──親友たる王と故国を救うのだ。

 希望はまだ、潰えていないと信じ──……。

《了》

前振り・AGAIN



 またまたド久々、約二年ぶりの『デルトラクエスト』長編です。
 前作『AGAIN』直後、只今逃避行中なジャードとアンナに、伝達鳥新キャラ?キュイの本格登場です。もしかしたら、本家のクリーとも関係があるかもしれない??? その辺は御想像にお任せはします☆ ということで^^
 先の見えなさすぎる旅の第一歩ということでの表題『OPENING』ですが、今いち、適切なタイトルではないかも? ともかく、「未来を信じなければ始まらない」という彼らの状況だけは間違いないですね。

2011.11.04.

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