『プリンセストヨトミ with SP』 (お礼SS No.105)

 スーツ姿に鞄を手にした三人の男女──先頭の男は何故か、アイスキャンディーを食べながら、歩いている。その後ろに従う二人の男女は並んで、話し込んでいる。尤も、唯一の女性が一番若い青年に一方的に話しかけているといった方が正しいが。
「私、警視庁に行くのって、初めてなんだよね。ね、旭君はどう?」
「僕も初めてです」
「何か、もうワクワクしちゃうわよね。ドラマで、よく見る桜田門よ。私、警察官になるのも悪くないかなーとか思ったりもしてたんだけど」
「……鳥居さんが警官? 全然、向いてないと思いますけど」
「あ、酷い、旭君。でも、周囲《まわり》の人、みーんな、そう言うんだもの。で、結局、国家公務員試験を受けて、会計検査院に入ったのよね」
 既にまともに応じるのも疲れた様子で適当に相槌を打ち、旭ゲーンズブールは前を無言で歩く上司を見遣った。うまい具合に、アイスキャンディーの最後の一口を平らげたところだ。話を変えるチャンスだった。
「副長は以前に警視庁の検査をしたことはあるんですか?」
「いや、俺も初めてだ」
 一度、立ち止まり、棒をティッシュに包み、ポケットに突っ込みつつ、松平元《はじめ》が答える。
 鞄を両手で抱えて、松平の傍らに寄った鳥居忠子が何故か喜々としつつ、
「じゃあじゃあ、副長もワクワクしません?」
「鳥居さん……」
 呆れたように呟く旭は『やはり、この人は理解できない』という表情だった。

「でも、この時期に副長を警視庁に送り込むなんて、やっぱり、例の事件の影響ですかね」
「例の事件て?」
「決まってるじゃないですか。例の、国会の……」
 さすがに事件《こと》が事件なので、声を顰《ひそ》めたが、鳥居は首を傾げる。
「国会の……何だっけ」
 二人の男は足を止め、繁々と彼女を凝視《みつ》めた。
「本気ですか、鳥居さん。立て籠もり事件ですよ。警視庁の警護課員《SP》が主導したという」
「あぁ、そういえば、そんなことも」
「鳥居さん、一度、医者に診てもらった方が」
「じょ、冗談よ。でも、ホラ、あの頃、私たち、海外だったじゃない。あんまり詳しいこと知らないままだったでしょ。後で事件のこと知って、調べても、ネットでも何も出てこないし」
 一生懸命、言い訳をしているが、疾うに松平は歩き出している。二人は慌てて、後を追った。
「そりゃ、そうでしょう。第一級の機密条項扱いですよ。日本でも、こういう場合は規制がかかるんですよ」
「でも、だからって、何で、副長なの?」
「どう考えても、警視庁の予算が流用されていた可能性が高いでしょう。下手をすれば、警備部だけじゃないですよ。となれば、次の予算編成のためにも、“鬼の松平”に全てを明らかにさせようということでしょう」
 旭は自分の考えを披露しつつ、前を行く副長の背中を見つめた。上から、特に何かを指示されているかもしれないが、それを改めて、部下に伝えるとは限らない。寧ろ、検査に支障を来すものとして、無視する可能性の方が高い。

「あっ、あれっ」
 鳥居の声に足を止める──眼前に、TV画面内ではお馴染みの建物が現れた。
「うわぁ、本物の桜田門だぁ」
 首都・東京の警察を束ねる本部ビル──警視庁である。
 旭は少しばかり緊張を覚えている自分を発見した。やはり、警視庁ともなれば、疚しいことがなくとも、怯んだりするものだ。
 ところが、無頓着なほどに、普段と変わらず、さっさと玄関へと向かっている松平はさすがだと思うが、鳥居の能天気《ミーハー》ぶりも中々、大したものかもしれない。

 上司の松平は凡そ、調査時以外では激昂するということは殆どない。口数も少なく、無言で見られることほど、精神的にはキツいこともない。部下でさえ、そうなのだから、調査される側の圧迫感はどれほどのものだろう。
 さて、今日の哀れな子羊たちの運命は果たして?
 運命を齎《もたら》す“鬼の松平”は愈々、間近に迫った桜田門を見上げ、一度、首を回して、コキッと鳴らした。
「愈々ですね。腕が鳴ります」
 ワクワクとか舞い上がっていた鳥居もいざ、調査対象に近付けば、スイッチが切り替わるのかもしれない。
 三人は正面玄関へと進んでいった。





『プリンセストヨトミ with SP vol.2』 (お礼SS No.106)

 松平元、鳥居忠子、旭ゲーンズブールの三人は会計検査院の調査官だ。国家予算からの予算・補助金を得ている組織ならば、官民に関わらず、数年に一度、調査に入る。文字通り、予算《かね》の費い道を調査するために派遣される。
 三人の所属は第六局であり、松平元はその副長でもある。苛烈な調査追及姿勢から、“鬼の松平”との異名を取り、恐れられている。
 その“鬼の松平”に警視庁への調査命令が下ったとの情報は警視庁にも届いているだろう。さぞ、今頃は対応に追われ、アタフタしているだろう。
 逆に松平はどこの検査に入るにも全く変わらず、冷静な態度を崩さない。
「さぁ、行くぞ」
 改めて、気を引き締め、玄関へと向かう。守衛が二人、立っているが、出迎えはいない。官庁や大きな企業などが相手の場合は大抵は担当者が入口付近で待っているものだが、
「やっぱり、ちょっと、早かったですかね」
「遅れるよりはマシでしょう」
 まだ、のんびりと話しながら、近付く彼らに当然、守衛が目だけを向ける。が、直立不動が信条の彼らが激しく動揺を見せた。一人は後ろに下がりすぎて、壁に背をぶつけたほどだ。
 しかし、止められるわけではなかったので、前を行く松平は構わず、中に入っていく。
「どうしたんだろうね、守衛さんたち、何か、凄く驚いてなかった?」
「さぁ、何でしょうね」
 理由には心当たりはあったが、一々、説明するのも面倒だった。

 中にも出迎えは降りてきていないようだ。ならば、受付に行くまでのことだった。声をかけるのは鳥居の役目だ。こういう時はやはり、女性に限る。特に招かれざる客の如き会計検査院調査官と判っても、明るい鳥居が相手になると、相手の態度も解れる傾向が強かった。
「あのぉ、すみません」
「はい。何か、御用でしょうか」
「はい。私たち、会計検査院の者です。今日は検査のために参りました」
「──……」
 鳥居は首を傾げた。酷く驚いた表情の受付係は鳥居を見ていなかった。視線を辿ると、背後で待つ我らが副長を見て、固まっている? いや、受付係だけではない。周囲の動きが止まっていた。凡そ、警視庁職員と思われる者は皆、業務の手を止め、彼らを凝視していた。
「あのぉ、もしかして、連絡が来ていませんか? ちょっと、予定時間より早く来てしまったし」
「え…? い、いえ。はい、連絡は承っております。会計検査院の──あっ」
 よほど、慌てたのか、記名帳を落としてしまった。
「大丈夫ですか?」
「し、失礼をしました。申し訳も……」
 鳥居が拾い上げた記名帳を渡すと、すっかり、しどろもどろになってしまっているが、それを開き、
「こちらに記名をお願いします」
 当然、最初に記名するのは上司たる松平だ。進み出る彼に受付係が体を強張らせた。気付いているのかいないのか、気付いていたとしても、完璧に無視してのけた松平はペンを走らせる。
 その背後で、我に返った職員が担当部署への連絡を指示していた。
「──松平、調査官…、ですか」
 問いに軽く頷くだけで、松平は下がる。続いて、鳥居、旭も記名をする。
「担当の者が直ぐに参りますので、少々、お待ち下さい」
「はい。お手数おかけします」
 天真爛漫ともいえる笑顔で応えた鳥居だが、旭の傍に寄ると、声を顰めた。
「何か、変な空気じゃない?」
「へぇ。鳥居さんでも、そういう風に感じたりするんですか」
 どちらかというと、天然なくらいの鈍感さんだ。
「どういう意味?」
「いえ、別に」
 いつもは「厄介な連中が来た」という空気がバリバリに漂っているものだが、今回は些か異なるようだと鳥居ですらが感じ取っていた。
 副長はどうかと、見遣ったが、常と変わらず、泰然と立っている。だが、この空気を生み出す要因は間違いなく、彼だった。

 旭は知っていた。多分、こういうことになるだろうと予測していた。
〈写真で似ているとは思っていたけど、ここの人たちのこの反応からすると、本当に似ているんだな〉
 それが今回の調査に何らかの影響を及ぼすのか否か。少しばかり、不安にもなるが、指示を出した会計検査院の幹部たちとて、それは予想して然るべきだ。その上で“鬼の松平”を送り込んだのだろう。
〈それにしても、鳥居さんはともかく、副長は彼のことを知らないのか?〉
 確かに例の事件についての情報は得にくくなっているが、抜け道がないわけではない。
 ただ、松平が事件や犯人そのものに強い興味を持つとも思えない。彼が気にかけるとしたら、事件の背景や事件そのものからの予算への影響だろう。
〈……やっぱり、今回も発動しそうだな。“鬼の松平”が〉
 やることが増えるかと思うと、旭ですらがげんなりとなりそうだった。





『プリンセストヨトミ with SP vol.3』 (お礼SS No.107)

「お待たせしました。出迎えにも出られず、申し訳ない」
「いいえ。こちらが早く来すぎてしまったのですから」
 鳥居がいつものスマイルで応じるが、その担当官たちもギクリと体を揺らし、足を止めた。
「おっ…!」
 危うく一つの名を呑み込んだほどにショックを受けた様子だが、揺れる空気に鳥居は首を傾げた。
 視線を巡らせ、担当官たちを見遣った松平は硬直する相手に歩み寄り、
「会計検査院の松平です。予定時間より早いのですが、準備は整っているでしょうか」
「え? あ、はい。それはもう」
「では、検査に取りかかっても宜しいでしょうか」
「は、はい。問題ないと……。あの、どうぞ、こちらに」
 松平は一つ頷き、歩き始めた。鳥居、旭も続く。その歩みを、動きを止めた職員たちの視線が追いかける。どこか緊張をはらんだままに。

 エレベータ・ホールに入った時だった。エレベータを待つ間に、ホールに声が響いた。殆どの者が呑み込んだ名を口にした者がいたのだ。
「──尾形さん?」
 再び、空気が変容する。さすがに松平も、その呼びかけに伴う変化に眉を顰め、目を向ける。
 驚愕の表情で、走り寄ってきたのは一人の青年。制服ではないが、ネクタイもしておらず、刑事のようにも見えない。次には腕を掴まれ、さすがに目を瞠る。
「尾形さん。どうして、ここにっ」
「……尾形?」
 松平は更に眉間に皺を寄せた。旭は息を呑み、鳥居は目を瞬かせ、ひたすらに驚いている。
 何より、慌てふたいたのは案内役の担当官たちだ。
「井上巡査部長! 何をしとるかっ。調査官から手を離したまえ」
「調査官?」
 井上と呼ばれた青年は戸惑いを見せた。腕を掴んだ相手が自分の良く知る者ではないのだと──つまり、人違いだと、この瞬間には悟っていたのだ。
「井上! いい加減に──」
「ス、スミマセン!!」
 火傷でもしたかのように手を離し、飛びすさる。そして、直立不動の姿勢から、勢いよく頭を下げた。
「あ、あの…。申し訳──」
「いや。別に気にしていません」
 丁寧ではあるが、ともすれば、突き放したような印象を与える深みのある声に、井上という青年のみならず、担当官や上司を知る部下二人までもが些か、怯んだ。
 丁度、エレベータが開き、降りてきた数人が揃って、松平を見てはギョッと反応したが、見事に無視してのけると、エレベータにさっさと乗った。
「あ、副長。待って下さい」
 茫然としていては置いていかれそうだ。慌てて、鳥居や担当官たちも後を追った。

 ドアが閉じると、辺りに怒涛の如き喧騒が戻る。
「お、驚いたな」
「あぁ、本当に。尾形さ…、いや、あの人にそっくりだ」
「声まで似てたわね」
 そんな中、頭を下げっ放しだった井上薫はゆっくりと顔を上げた。当然、エレベータは閉じられていた。全身が脱力したように、肩を落とし、大きく息をついた。
 気が付けば、傍らにはいつの間にやら、同期の男が立っていた。
「全く、何やってんだよ、お前。あの人が警視庁《ここ》にいるわけがないだろう」
「……そうだよな。そうだけど、本トに一瞬、もしかしてって思ったんだよな」
「…………っとに」
 仕方ないなぁ、とでも言いたげな表情で、肩を竦める田中に、井上は尋ねる。
「ところで、今の人は誰なんだ。お前、知ってるのか?」
「会計検査院の調査官だよ。“鬼の松平”ってな」
「松平さん…、ていうのか」
「あぁ。国家公務員試験トップ合格の超エリートさんだよ。まだ三十代で、一局の副長だしな。頭の切れ具合では確かにあの人と張るかもな」
 あの人呼ばわりされている井上の元上司も、国家公務員I種試験こそは受けなかったが、東大法学部の出身で、切れ者と呼ばれていた。
「皮肉なもんだよな。例の事件があったから、“鬼の松平”が送り込まれてきたんだぜ、きっと。それがよりにもよって、あの人のソックリさんだなんてな。何か、波乱含みの検査になりそだな」
「……なぁ、田中。検査って、何の検査だ。会計検査院だっけ? 何するトコだよ」
「──んなもん、お前、自分で調べろよ」
 苦笑混じりでヒラヒラと手を振りながら、田中は行ってしまった。
「何だよ。んなこと言って、お前もよく解ってないんじゃないの」
 負け惜しみだと承知していた井上は後でネットで調べようと思った。





『プリンセストヨトミ with SP vol.4』 (お礼SS No.108)

 さておきの会計検査院一行は検査のために充てられた会議室へと案内されるところだった。案内役の一人が小走りで、先に会議室へと入っていく。
「会計検査院の方々がいらっしゃいます」
「そうか。早く、お通ししろ」
「はい。ところで──その……、何ですか」
「何だ、一体。はっきりせんか」
「実は…、ともかく、余り驚かないようにお願いします」
 何のための忠告か、全く解らないだろうが、既に調査官たちも入ってくる寸前で、詳しく話している暇もなかった。
 だが、件《くだん》の調査官が入室してきた時には、その意味も全員が理解していた。
「ようこそ、おいで下さい…、まし、た」
 通り一遍な挨拶が上滑りしていく。調査官たちを出迎えた警視庁の経理担当官一同は一様に口を開け、中には指を突きつけかけて、固まっている者もいる。
 彼らの視線は真ん中に立つ調査官に集中している。尤も、当の調査官・松平元はこれもまた当然のように、反応を見せなかった。気付いていないはずはないが、見事すぎる無視ぶりだ。

 一同を見回し、至極、簡単な自己紹介で済ませるのもいつものことだ。
「会計検査院第六局調査官、松平です」
「鳥居です」
「ゲーンズブールです」
 いつもなら、日仏ハーフな旭が自己紹介したところで、軽いどよめきやヒソヒソ話が聞こえるものだが、今日は全くない。常ならぬ反応に、鳥居が「あれ」という顔で旭を見てきた。
 だが、勿論、旭は答えることもなく、上司の言葉を待つ。案の定、仕事のことしか頭にない上司は鞄を用意された机の上で開け、中身を広げ始める。
「それでは会計実地検査を始めます。以下のものは紙がなければ、データで提出して下さい」
 松平は次々と必要な文書類の名を上げ始める。一拍の間を置き、途端に会場は喧噪に包まれた。
 何者に似ていようと、ここにいるのは会計検査院の調査官──しかも、鬼の異名を取るような名うての調査官だということを、誰もが否応なく、気付かされたのだ。
 ここに、警視庁経理担当官と会計検査院調査官の熾烈な戦いの幕が落とされた。

 戦いの舞台は警視庁ビル十七階の会議室の一つが充てられた。
 総務部・刑事部・警備部etc.──各部署から運び込まれた経理関係の書類の山で、並べられた机も埋め尽くされていく。
 それを三人の調査官たちは凄まじいスピードで、チェックしていくのだ。本当に目を通しているのかと疑いたくなるような速さだが、時折、質問が飛ぶので、間違いはないだろう。
 そんな質疑応答で、特に緊張を強いられたのはやはり、松平に真向かわなければならない者たちだった。既に“鬼の松平”の異名は知れ渡っていた。
 ただ、事実確認に於いては松平も比較的、物静かに、だが、的確に手短に尋ねるだけなので、まだ鬼と呼ばれるほどの圧迫感を与えられずにいたが。

 とまれ、これだけの書類の山ともなれば、不備が皆無ということはあり得ない。やはり、人間のやることなのだ。
 ただ、警視庁の経理担当官が見落とした不備を三人の調査官は確実に拾い上げていった。そして、時として、整合性の取れない書類が浮かび上がる。辻褄合わせと思しき、怪しい領収書の発見にも繋がる。
 経理担当官にしてみれば、膨大な書類や領収書を全て、チェックし、改めることが日々の業務の中では難しい──と言い訳をしたいだろう。一枚の架空の領収書で収まるなら、と……。
 だが、それを質すことこそが正しく会計検査院の重要な役目だと、松平は考えていた。
 確かに一枚一枚の金額は大したものではないのかもしれない。しかし、それが警視庁内だけでも何十枚と積もれば、それなりの額となる。
 更には他の省庁・団体も同じことをすれば、天文学的な金額となる。本来、費われなかったはずの金が予算に計上され、支出されるのだ。
 それは許されることではないはずだった。





『プリンセストヨトミ with SP vol.5』 (お礼SS No.110)

 どれほど、集中していようとも、永久に続くものではない。時には休憩を挟む方が効率が良くなるものだった。
「副長。そろそろ、休憩に」
「俺はまだいい。先に行ってこい」
「はい。では、失礼しまーす」
 どうやら、まだ区切りが悪いようだ。上司から先に──などという常識は松平に限ってはないも同然だ。慣れた部下たちも「いいえ、副長から」なんつー無駄なやり取りを上司が最も嫌うことを知っている。
 それでも、嬉しそうに出ていく鳥居を旭は溜息混じりに見送った。その旭に、
「旭、キリがいいなら、お前も休んできていいぞ」
「え? あ、はい」
 区切りをつけた書類を揃え、一息つくと旭も会議室を出た。

 十五分ほどの小休止を経て、二人は出ていった順に戻ってきた。特に一緒だったわけではないようだ。
「副長の番ですよ。行ってきて下さい」
「あぁ……」
 生返事を返すのみで、書類から目を離そうとしない松平の前にツカツカと歩み寄った鳥居は何と書類を取り上げてしまった。
「おい──」
「行ってきて下さい」
 皆まで言わせず、ズイッと顔を寄せ、一言──松平にここまで強気で出られる部下は“ミラクル鳥居”しかいない。この辺もミラクルだな、とか旭は半ば、感心しかける。
 尤も、そこまで抗弁することもないと、松平が考えているためもあろうが。
 案の定、一つ肩を竦め、「解った」と松平も立ち上がった。煙草とは無縁の上司は財布と携帯だけを持って、出ていった。
 それを見送った鳥居が呟く。
「また、ケータイ忘れてこなきゃいいんだけど。ま、忘れても、警視庁内なのは確実だから、大丈夫かな。何で、あんなに頻繁に忘れるんだろ」
「なくてもいいと思ってるんでしょう」
 仕事以外で使っているところを見たことがないほどだ。多分、ネットなどは殆ど使っていないだろう。
「本トに仕事の鬼だもんね。仕事するために生まれてきたって感じだし。趣味とかって、あるのかな。全然、聞いたことないけど。飲みにも行かないし、結婚もしてないよね。彼女もいそうにないしさ。家で何してるんだろ。仕事、持ち帰ってるとかってオチ?」
 鳥居の興味は留まることを知らないようだ。もう一つ溜息をつき、
「鳥居さん、鳥居さん。話逸れまくってますよ。仕事しましょう。副長が戻ってきた時に全く進んでいなかったら、何と言われると思います?」
「わ、解ってるわよ。仕事仕事と」
 そそくさと席に着く先輩に、すっかり癖になったらしく、溜息が出た。

 松平はエレベータ・ホールに向かう。糖分補給をし、幾らか疲れた頭を癒したいところだが、さて、この警視庁に売店はあるだろうか。この際、自販機でもいい。とにかく、彼はアイスを欲していた。
 常ならば、職員に場所を聞こくところだが、今回ばかりはそれも憚られた。今も擦れ違う者が顔を強ばらせ、見送っていくのだ。会計検査院の調査官だからと、敬遠されるのには慣れているが、今のような状況には大抵のことには動じない松平でも辟易する。
 外のコンビニに行くのでは時間がかかりすぎるし、諦めるしかないだろうか?
 エレベータに乗り込むのも当然、独りだった。ここまでくると、笑いたくなるほどだ。
 専用エレベータのように独占すると、一階のボタンを押す。この分では途中で止まっても、誰も乗ってこないだろう。それが繰り返されるのも鬱陶しい気がする。
 尤も、ここの人間にすれば、松平の方を二重の意味で、面倒で厄介な客と思っているだろう。
 動き出したエレベータは嘘のように直ぐ下の階で止まった。
 一人の青年が乗り込もうとしてきた。

 その青年の足が見事に止まった。
「あ……」
 予想通りの反応とは別に松平もその青年に気を引かれた。見覚えがあったからだ。警視庁に来た直後、人間違いをした青年だった。
 青年は松平を凝視し、反射的に体を引き、頭を下げてきた。
「ス、スミマセン」
 何か、謝られるようなことをされただろうかと考え、朝のことを含めているのだろうと察しをつける。だが、予想に違わず、そのまま乗らずに下がろうとするのに幾らかの引っかかりを覚えた。

何故、乗らないのか、と……

 他の者なら、放っておいただろうが──僅かでも接点があったことが時として、自分でも意外な行動に出させるものだと気付かせた。
 ドアが閉まろうとするのを松平は手で止めていたのだ。彼にとっては咄嗟のことだった。
「待ちなさい」
「──え?」
「乗りなさい」
「あの……」
 戸惑う青年がハーフの部下ほどに若いためについ、ぞんざいな口調になってしまったことに気付き、松平は改める。若くても、この青年は部下ではない。
「次を待つことはありません。乗って下さい。井上巡査部長…、でしたか」
 先刻、聞いた名を添えると、井上という青年は大きく体を揺らした。目を激しく瞬かせ、松平を見返す。
「さぁ、どうぞ」
 いつまでも、エレベータを止めているわけにもいかない、と促すと、少し迷いながら、「失礼します」と小さく頭を下げ、青年は乗り込んできた。
 手を離すと、待ち構えていたかのようにドアが閉じた。

 井上青年は松平からはなるべく離れるように背後の壁際に立っていた。





『プリンセストヨトミ with SP vol.6』 (お礼SS No.111)

 降りてきたエレベータに乗り込もうとした足が止まった。
「あ……」
 乗っていたのは一人だけだったが、その人は腕組みをしながら、横の壁に背を預けて、立っていた。
 井上の声に気を引かれたかのように視線を向けてきた、その人は嘗ての上司に瓜二つの調査官だった。
 予想していなかったと言えば、実のところ、嘘になる。妙な胸の騒き《ざわめき》を抑えられなくなり、気分転換に行こうとしていた矢先だった。
 寧ろ、そのために、また会うことになったということでもある。だからこその予感というべきものなのだろう。
 だが、人間違いをして、気分を害しているかもしれない。「気にしていない」とは言っていたが、お気楽に信じてもいいとも思えない。
 殆ど反射的に体を引き、頭を下げていた。
「ス、スミマセン」
 そして、そのまま下がろうとした──が、思いがけない声がかかった。
「待ちなさい」
「──え?」
「乗りなさい」
「あの……」
 目を上げると、閉まろうとするドアを調査官が手で止めていた。
 戸惑いを隠せず、凝視してしまう。深みのある声が耳の奥に残る記憶を刺激する。
「次を待つことはありません。乗って下さい。井上巡査部長…、でしたか」
 改まった口調は記憶を一瞬、遠ざけかけたが、最後に添えられた名に、井上は正しく雷にでも伐たれたかのような衝撃を味わった。
 “その声”が再び、彼の名を呼ぶことがあるなどとは──二度とないと覚悟していたから……。
「さぁ、どうぞ」
 いつまでも、止めているわけにもいかない、と促され、迷いを残しながらも、井上は足を踏み出していた。
 抗うことなど、無理だった。
 彼が乗り込むと、待ち構えていたかのようにドアが閉じた。

 乗ったものの、井上は調査官からはなるべく離れるように背後の壁際に立った。だが、調査官の方は平然と話しかけてくる。
「何階ですか」
「え…っ? あ…、一階で大丈夫です」
 それは調査官と同じ道行だということだ。途中の階で降りればよかったかと半瞬ばかり考えたが、一方ではこんな機会は二度とないだろうとも訴える。
 井上は意を決した。下に降りるまでは、途中で止まったとしても、僅かな時間だ。せめて、その間に、ちゃんと謝りたい。
「あの…、松平調査官」
「何でしょう」
 視線を巡らせる調査官の顔をきちんと見返す。……本当に似ている。けれど、別人だということも、今では直ぐに判別《わか》る。
 今朝の人間違いは──不意打ちされたとしても、してはならないことのはずだった。

「井上巡査部長?」
 耳に残る響きに重なる声は、しかし、階級付きで呼ぶことは滅多になかった。
「あ、あの。朝は本当に失礼をしました」
「そのことでしたら、気にしていないと──」
「はい。でも、もう一度、きちんと謝りたかったんです。気を悪くされたでしょう? その…、間違えられるのは」
「それほど、似ていますか」
「え…?」
「いや、自分ではよく判らないものでね」
 逆に尋ねられ、返答に困ってしまう。似てる似てないは主観の問題でもあろうが、今回はその限りではないだろう。警視庁の人間が殆ど全員、戸惑うほどなのだから。
「似てる…、と思います。今まで、言われたことはありませんか」
 松平の周囲の者たち──例えば、彼の部下たちなどに。
「確かに何人かには言われましたが、ここでの反応に比べれば、大したものではなかったかな。何にせよ、少しばかり似ていたとしても、同じ人間ではありません。それは、貴方も良くお解りのことだと思いますが」
「……そう、ですね」
 そうなのだ。改めて言われるまでもなく、よく理解《わか》っていることだった。

 想像以上に似た人物が現れたことで、戸惑い、混乱するのは警視庁の人間の多くが彼に対する負い目を抱いているからだと思う。
 彼は少しでも、SPの任務時待遇を改善しようと必死に取り組んでいた。上申もしていた。殆ど、取り合ってはもらえなかったが……。そんな日々に、一人で、苦心していたのだろうに、自分たちは目の前の任務やらで手一杯でしかなかった。
 そういう状況を警視庁の職員たちとて、察してはいた。停滞する空気を感じてはいたのだ。しかし、組織というものが簡単に改まるわけもないとも思っていた。そう、半ばは諦めに等しかった。
 だから、少しでも変えようと努めていた彼に負い目を感じてしまうのだろう。

 考え込んでしまっていた井上は、その瞬間は目の前の調査官のことを忘れていた。此処にはいない、嘗ての上司に思いを馳せていた。
 その様子を見つめていた調査官が小さく苦笑した──その気配に我に返る。

「生真面目な方だな。一つだけ、頼まれ事をお願いしたいのですが。それで、もう謝るのはナシにしてもらえれば」
「頼まれ事……何でしょうか」
「この庁内には売店はありますか? あるのなら、案内してもらえますか」

 会話は途中の階に止まる度に中断していた。勿論、余人が乗ってくることはなかった。
 しかし、その度に井上は冷静になれたようにも思える。考える時間を得られたようにも……。

 エレベータが一階に着き、連れ立って、降りる。そんな二人を見て、例によって、周囲の活動が止まってしまう。最早、気にしていても、始まらないとしか言いようがない。
「…………何か、懐かしい光景のような気がするな」
 見送った後に、一人がポツリと呟いた言葉は全員の心情を代弁していたに違いない。





『プリンセストヨトミ with SP vol.7』 (お礼SS No.114)

「有り難う。助かりました」
 売店まで来ると、一つ礼を言い、松平調査官は入っていった。初めてのこの客に、店員も唖然としている。
 毎日、誰かしらが休み明けで、登庁してくる。調査官がいる間は幾度となく繰り返される光景だろう。
 案内は終えたが、井上も気分転換の休憩のつもりで出てきたのだ。コーヒーでも飲むかと冷蔵コーナーに向かう。
 調査官は既にレジ前に立っていた。会計中の調査官の後ろに並ぶ。
 何とも言いようのない顔の店員に、自然、手元に目を移し──井上も表情の選択に困った。
 ……松平調査官が買っていたのはカップアイスだった;;;

「お先に」
「あ…、はい」
 律儀に声をかけてくれた調査官を見送り、慌てて、コーヒーの代金を置く。受け取った釣り銭を財布ではなくポケットに突っ込み、後を追うように売店を出る。
 行ってしまったかと思った調査官は店の脇に据え置かれたベンチに腰を落ち着けていた。
「……あ、あの」
「何ですか」
 手は止めずに、目だけを向けてくる。その手はアイスの蓋を──開けていた。
「え…と、それは、あの女性の調査官の方に頼まれたわけじゃ……」
 我ながら、間が抜けた質問のようにも思う。既に開けてしまっているではないか。しかし、どうしても、買った人と商品が結びつかないのだ。
「勿論、自分で食べますが」
 それが何か? とでも言いたげに答えられると、言葉もない。「いえ」としか言えなかった。
 “鬼”とまで称される謹厳実直を絵に描いたような顔立ちの調査官とアイスという取り合わせが微妙すぎる。
 困惑する井上の表情に気づいたのだろう。調査官は隣に座らないかと勧めた。
「手っ取り早く糖分補給するのには最適ですよ」
 「あぁ。なるほど」とか納得しかけたのに、調査官は悪戯っぽく笑った。
 それがとんでもなく珍しいということを当然、井上は知らない。ただ、彼によく似た元上司も余り笑顔を見せる人ではなかったと、漠然と思う。
「などと言うと、尤もらしいでしょう。要するに、好きなだけなんですがね」
「お好き…なんですか」
「一日、五個はいけます」
「それは…、さすがに多いのでは」
「部下に、もう少し減らせとよく言われますよ。別に甘党というわけじゃないんですがね。他は殆ど食べませんし」
 などと言い訳ともつかないことを言いながら、アイスを平らげていく調査官に、やっぱり微妙だと、井上は内心で呟いた。

 コーヒーを啜りながら、横目で調査官を見遣る。好きな物を食べている割には淡々としている。仕事のことでも考えているのか、妙に厳しい表情になる瞬間もある。
 それにしても、傍で見れば、極め付きに妙な光景だろう。自分たちが並んでいるだけで、誰もが動揺するに違いないのだ。松平調査官が彼とは別人だと明らかであっても尚だ。
 なのに、どうして、二人でベンチに並んで座るようなことになっているのか。席を勧められた時、他に気を取られていたとはいえ、何故、座ってしまったのか。
 大体、調査官の方はどう思っているのか? 同席を勧めたのは或いは社交辞令で、本当は迷惑がっているかもしれない。そんな素振りは一切、見せないとしてもだ。
 尤も、キャリア試験をトップ合格するような人物だ。十歳以上も年長で、経験も豊富だろう。
 会計検査院の職務は既に調べたが、あちこちの官庁・企業に出向いては検査をし、海千山千の経理担当と熾烈な凌ぎ合いを演じているような人が、自分のような若僧に簡単に内心を読ませるはずがなかった。
 他者の感情の起伏には敏感で、殊に強い負の感情に共鳴しやすい井上だが、だからといって、具体的に相手の考えが読めるわけではない。さすがに、そこまで便利ではない。
 唯一つ言えることは井上を圧迫するような負の波動はこの調査官からは感じないということだ。つまり、彼が緊張を解いており、こちらにも敵意も害意も抱いていないということに他ならない。

 その時、ケータイの着信音が鳴り響いた。自分のものではない。
「松平です。──局長。いえ、大丈夫です。丁度、休憩中です」
 どうやら、上司かららしい。離れるべきかと反射的に立ち上がったが、調査官は目で追ってきながらも、構わず、話している。
「──分かっています。大丈夫です。はい…。はい、失礼します」
 携帯を閉じた調査官は前に突っ立ったままの井上を見上げ、肩を竦めた。
「こんな物があると、何処にいても、上司からのお小言が付いて回る」
「大変、ですね」
「昔は出先にまで、小言を言ってくることはなかったのになぁ」
 携帯を弄びつつ、溜息をつくと、松平調査官は残りのアイスの完全制覇に取りかかった。





『プリンセストヨトミ with SP vol.8』 (お礼SS No.115)

 調査官を見送った後、もう一度、ベンチに座ると、肩の力が抜けた。先刻まで、隣にいた調査官は仕事へと戻っていった。
 エレベータまでの道行きは同じだが、やはり二人が揃っていると、周囲への影響が大きすぎる。ジロジロと固まった人々に見られるのもキツいことだ。
 大きく嘆息し、チビチビとまだ半分ほど残っているコーヒーを啜る。
 今朝の人間違いについては、きちんと謝ることもできた。それでも、この時間は自分にとって、一体、何だったのだろうかと、つらつらと思いを巡らせる。
 彼の人を始め、本来、此処にいるはずだった人々を思い起こす切っ掛け──そういうことだろう。

 もっと色々と相談してほしかった……。そんなことを考えたりもする。彼から、志を同じくするようにと求められた時…、それ以前からも──どこかで、もっと話すことができたかもしれない。そんな後悔も湧く。
 一方では二十年ほどの時を苦闘し続けた彼を高々、最後の僅かな時を共にしただけの自分などに変えられたかもしれないなどと考えるのは或いは傲慢ではないか、とも思う。
 だが、それでも──そんな彼の最後の最後の賭に、自分たちが命運を託されたというのも事実だった。

 あの日の国会でのVIP警護に、井上たちは当初はつく予定ではなかった。彼の最も信頼する子飼いの部下たちといわれながら、彼の最後の“野望”とやらには従わないだろうと……。
 ならば、彼がいない今、自分たちは何をすべきなのだろうか。それをずっと考えていた。
 そんな時、井上は彼が残した置き手紙を開けてみたくなる。今更のように、縋りたくなる。道を指し示してほしいと今尚、頼りたくなるのだ。
 井上のデスクに、事を起こす前に忍ばせていっただろう彼からの手紙。何が書かれているのか。或いは何も書かれていないのか……。彼の自分への願いでも書いてないだろうかと、誘惑に駆られることも多いが、何とか、これまでは開けずにこられた。
 これからも、そうだろうと思う。恐らく、度々に手を伸ばそうとするだろう。ちょっとでも揺らげば、封を切りたくなるだろう。
 それでも、踏み止まり、あれこれ考えつつ、よりよい道を模索していこうと願うのだ。
 こうやって、毎日、その瞬間その瞬間を悩み、考え続けていく。そうでなければならないのだと、井上はどこかで信じていた。

 そろそろ、自分も戻るかと身動《みじろ》いた時、手に当たって、ベンチから落ちた物を拾い上げる。見た瞬間に先刻、松平調査官が使っていた携帯だと判別《わか》った。
 上司との通話後、ポケットに入れ損なったか、置いたままにしてしまったのか──とにかく、忘れていったようだ。
「どうするかな」
 売店に預けておけば、何れ、気付いて、取りにくるかもしれない。しかし、上司から直通でかかってくような携帯だ。直ぐに返した方がいいか。
 ……そうなれば、もう一度、顔を合わせられる。ふと、そんな考えが浮かび、自分は彼に会いたいのか? と考える。
 その理由《わけ》はあの人に似ているからなのか? 別人だと明らかであっても尚……。謝罪などしておきながら、内心ではやはり──だとしたら、あの人にも松平調査官にも、とんでもなく礼を失した話ではないか。
 井上は忘れ物の携帯を強く握りしめていた。その感触に、我に返る。こんな自問なぞ、している場合ではない。自分も職務に戻らなければならないのだ。
 警護課のオフィスは十六階。会計検査はその上の十七階で行われているはずだ。しかし、担当官でも書類運びでもないのに、押しかけるわけにもいかない。だが、エレベータ・ホール辺りまでなら……。
 井上は携帯を見つめ、そして、開いた。


 松平が入ってきただけで、会議室の空気が引き締まる。色々な意味で、影響力の大きな人物といえるが、そんな空気に唯一、無縁でいられるのが鳥居忠子だった。
 携帯の画面を見ていた鳥居は戻ってきた上司に、目を丸くした。
「あれ、副長? 何で」
「どうした?」
「──いえ。副長から…、なんですけど」
 呼び出し中の番号は松平の携帯を示しているのだ。
「……あ」
 一拍置き、スーツのポケットを探った松平が舌打ちするのに、鳥居は脱力した。
「また、ですか。本トに忘れてくるなんて;;;」
「いいから、出てくれ」
「はい。──はい、鳥居です。そちらはどちら様ですか? えーと、井上巡査部長?」
「鳥居、代われ。井上巡査部長ですか。松平です」
 井上という名に居合わせた警視庁職員が揃って、動きを止め、息を詰めて、こちらを窺っている。
 それも当然だな、と旭は小さく肩を竦める。今朝、上司と彼の人物を間違えた青年こそ、その元部下だったはずだ。
 その青年と松平が先刻の小休止の間、一緒にいたらしいが、どういう成り行きで、そうなるのか。騒乱の種にならねばいいが、と少々、心配になる。
「解りました。では、エレベータ・ホールで待っています」
 通話を切ると、携帯を返しつつ、「ちょっと、行ってくる」と出て行く上司に、鳥居は言葉を投げかけた。意識しているか無意識か、鳥居にしては皮肉っぽい言葉だった。
「副長。もう、いっそのこと、首から下げてたら、どうですか。絶対、忘れませんよ」
 小学生じゃ、あるまいし★ 居合わせた全員が内心で、突っ込んだのは言うまでもない。





『プリンセストヨトミ with SP vol.9』 (お礼SS No.117)

「鳥居、暫くは一人で頼むぞ。直ぐに戻る」
 鳥居を残し、会議室を出た松平と旭は案内の職員に従っていく。目的地は──十六階の警護課オフィスだった。
「今日の段階で、副長が警護課に現れると、また業務停止状態を引き起こすんでしょうね」
「気にしても始まらん。俺ももう慣れた」
 慣れ、というよりは本当に気にしなくなっているのかもしれない。元々、検査に関する限り、相手の心情や己の評判などは一切、斟酌せずに厳しく追及するのが松平の姿勢だ。おまけに、今回のことは検査には全く関わりないことなのだから、尚更だ。

 警視庁のような大きな官庁の検査には数日を要する。警護課の経理コンピュータを直接に調べたいとの旨は、例の事件絡みで、前もって申請してあったが、初日の予定ではなかった。
 その予定を繰り上げたのは今現在、松平の携帯を拾った相手が警護課オフィスから出てこられないからだった。
「にしても、本人が受け取りにこなければ、渡さないなんて、強気な人もいますね」
「間違った言い分でもないさ。確かに、礼を失してはいるからな」
 最初は十七階のエレベータ・ホールで、井上巡査部長と落ち合うはずだったが、彼は現れなかった。すぐに鳥居の携帯に連絡があったが、厄介な人に捕まって、オフィスに直行しなければならなくなったいう。
 機密保持の問題もあり、会計検査院調査官といえども、好き勝手に警視庁ビル内を移動することはできないので、手透きの職員に受け取りを頼んだのだが──何と、追い返されてしまったのだ。
 謎の強者曰く、「人を使うとは何様だ」とか何とか……。
 ならば、直接に行くしかないので、序でに予定されていた検査も済ませてしまうことにしたわけだ。
「尤も、今頃では何も残っていないでしょうけどね」
「とは思うが、通常は提出された記録しか調べないからな。そういう姿勢を示しておけとの上からのお達しだ」
「時間に余裕があるわけでもないんですよ。警視庁も、そこまではと拒否してくれれば良かったのに」
 ついつい、愚痴りたくなるのも致し方なしだろうか。
 実をいえば、会計検査院には強制調査の権限はないのだ。相手が突っぱねれば、それまでなのだが──突っぱねるのは相手にもリスクを伴う。つまり、後ろ暗いことがあるからだと、判断されれば、後々に影響する。
 そのため、余程のことがなければ、拒否はされない。嫌われ者・厄介者などと言われながらも、受け入れられるのが会計検査院の調査官たちだった。

 十六階に降り、エレベータ・ホールに出れば、当然、職員たちも行き来している。
 松平を見た彼らの反応は特に著しかった。彼の人物がオフィスとして使っていたのは、今正に、松平たちが向かっているオフィスなのだから、当然だろう。
 「慣れた」と言う松平はやはり、気にした様子もなく、進んでいく。そして、案内の職員が「ここです」と振り向いた。


 井上薫は緊張を酷く意識していた。これから、あの人に瓜二つの調査官がこのオフィスに来るという。無論、仕事のためだが、井上が拾った携帯のためでもある。やはり、売店にでも預けておけばよかったかと、悔やみもする。
 会計検査院の調査官が直接に調べにやってくる、という話は既に皆が知っていたが、その人物を直接、見た者はいないようだった。
 噂としては、かなり広まっているが、皆が話半分で、それほどまでに似ているとは思っていないのだ。
 興味がないわけではないが、警護課の職員にとって、彼の人物は近しい存在でありすぎた。ただの興味本位だけでは考えることなど、できるはずもなかった。
 普段から、時として、彼らは彼のことや彼が為そうとしたことの意味も考えようとしている。
 そんなところに、彼に酷似した人物が現れたら……皆、どんな反応を示すか、それが井上を不安にさせた。

 その時、ノックが響いた。いよいよ、来たのか。井上は益々、身を堅くした。
「井上? どうしたの。あんた」
 先輩SPの笹本が井上の緊張に気付き、椅子ごと、体を向けてくる。
 しかし、井上の視線は廊下への出入口に固定されていた。
 眉を顰め、その視線を辿っていく笹本の目が、その瞬間、大きく見開かれた。
 二人の様子を目に留めた他の同僚、石田と山本も、つられるようにそちらを見る。そして……!
 連鎖反応のように、居合わせた人々の視線が全て、同じ方向へと向けられていった。一様に驚愕し、絶句するばかりだ。

 困ったような案内役の職員と日本人離れした容貌の青年……。そして、彼の人物──尾形総一郎に恐ろしいほどに良く似た男が立っていた。





プリンセストヨトミ with SP vol.10』 (お礼SS No.118)

 時間までが凍り付いたような一瞬とは、このような状態だろうか。
 数ヶ月前に、関西の、とある大都市が全停止した様を見たが、それに比べれば、小規模ながらも、予想通り、完全停止状態に陥った警護課オフィスは静まり返っている。
 会計検査院調査員来訪の報せに、課長公室から出て、待っていた中尾課長もまた、唖然として、突っ立っている羽目となった。
「中尾課長。会計検査院の方々をお連れしました」
「あ、あぁ……」
「調査官の松平です。こちらはゲーンズブール調査官」
 方や、調査官の口調には見事なほどに揺れもない。しかし、その声が当然の帰結の如く、オフィス内に動揺を誘う。バサバサッと書類の束を落とした者やら、山を崩してしまった者が続出した。
 少し前に、エレベータ内で体験済みの井上は独り、息をついた。初めて、あの声を聞かされるのはやはり、心臓に悪い。

「警護課課長の中尾です」
 声が僅かに上擦っているのを感じる。動揺しないわけがなかった。
 中尾課長は国会立て籠もり事件以前からの役職に留まってはいたが、無論、無傷というわけではない。
 何しろ、事件は部下である警護課員《SP》が主導した上に、他のSPにも多くの協力者が出たのだ。しかも、経験豊富な者たちが……。そもそも、多数のSPが賛同しなければ、成立しない事件だった。
 中尾課長も当然、責任を問われるはずだった。だが、事態の収拾に動いたのもまた、少数ながらもSPだった。それが井上たちであり、実は命令違反だったが、結果としては中尾課長は首の皮一枚、繋がった──といっても過言ではなかった。
 とはいえ、長期減俸の上、将来の恩給もかなりカットになるのだろうが……。
 今は警護課の立て直しに奔走する毎日だ。何せ、係長数人を含む大人数のSPが一気に抜けたため、元々、十分とはいえない人員が減った上に、指揮系統までがズタズタ状態だ。補充も儘ならないのは以前からのことで、簡単には穴が埋まるはずがない。
 中尾が今も課長であるのは、そんな後始末を誰も引き受けたがらないという隠れた実状もあった。

 苦労の元凶ともいえる男に対しては──何も考えたくないというのが正直なところだ。怒りすら漂白している。
 上級職への道を蹴った英才タイプの切れ者が部下では元より、反りが合わなかったためもある。ただ、大っぴらに評することは避けてきた。直属の上司としても、優秀すぎた部下への妬み嫉み故などと今尚、揶揄されるのは我慢ならないからだ。
 ところが、別人と分かっていても、こうも似た男が現れ、荒れそうになる感情を引っかき回してくれるとは想像もしなかった。冷静さを保つだけでも一苦労だった。

 元部下に良く似た調査官は物静かな表情までがダブる。
「こちらの経理コンピュータを調査します。これが申請認可書類です。御確認を」
 差し出された書類を受け取り、黙りこくったまま、目を通す。
 つまるところ、お偉いさんは余計な波風を立てるなと言いたいようだ。唯々諾々と従い、やり過ごせ、と。果たして、やり過ごせる相手かどうかは分からないが……。どうにでもなれ、という気分だ。中尾は既に思考を放棄した。
「承知しました。貴方が調査を?」
「担当はゲーンズブール調査官です」
 名前も外見もハーフと思しき若い調査官が頭を下げる。さすがに、混乱に混乱を招くような選択肢を採るはずもない。
「では、こちらにどうぞ」
「頼むぞ、ゲーンズブール。私は上に戻る」
「はい。副長」
 短いやり取りが、調査官の会計検査院での地位を示す。「副長なのか」「やはり、別人には違いないのだな」と……。

 青年は中尾課長に続き、その上司は道案内の職員と出ていこうとする。その間際、一瞬だけ、井上を一瞥した。
 今、携帯を渡さなければ、また返し損ねてしまう。しかし、皆の視線が集中している中で、声をかけてよいものか少しだけ迷う。
 松平調査官が外に出てから、少しだけ間を置いて、追いかけた方が無難か。
 その時だった。女性職員がいつの間にか、近寄っていた。盆を手にして……。
「あ、あのぉ。お茶をどうぞ…」
「──は?」
 “鬼の松平”が目を丸くしていた。このタイミングで、茶を出されるなど、思ってもいなかったに違いない。
「うわ、原川さん……」
 気持ちは解らないでもないけど──そんなニュアンスの呟きが漏れる。

「申し訳ないが、私はもう戻りますので、部下に出してやって頂けますか」
「それはもう。でも、どうぞ」
 さすがの松平も困ったように周囲を見回した。井上が小さく、手を合わせているのに気付く。それから、席を離れていった。
 時間を稼いだ方がいいようだ。松平は「戴きます」と湯呑みを取り、口を付ける。目だけで追うと井上はコソコソと外に出ていった。中々、苦労しているようだ。
「御馳走様でした」
「いいえ……」
 何だか、涙くんでいるのはやはり、例の人物と重ねて見ているのだろう。こういう反応は今までにはなかった。
「では、私は失礼します」
 視線の一斉砲火を感じながら、待っていた案内役職員とともに、今度こそ、松平は出ていった。

 途端に盛大な吐息が漏れる。緊張が一気に崩れたようだ。
「なっ、何ですか、あの人。何で、あんなに係長にソックリなんですか」
「知るか。よく言うじゃないか。世の中には、三人は似た人間がいるってな」
「そういうレベルですか」
 衝撃の余りに、つい未だに「係長」と呼んでしまう山本もだが、石田とて、まともな答えなど返せる心境ではなかった。となると、一番、冷静なのは笹本かもしれなかった。幾らかは自失したとしても、精神的再建を果たしており、目敏く、異変にも気付いていた。
「……それはそうと、井上は?」
 井上の姿が消えていることに、漸く気付いた。
「…………あの馬鹿、まさか」
 三人が三人とも、同じことを考えた。

第二章



 余りにもHIT☆過ぎた『プリンセストヨトミ』──しかも、彼の『SP・警視庁警備部警護課第四係』とのコラボを目指してみました。勿論のこと、接点は主役(松平)と準主役(尾形)な堤真一さんということで^^ なので、『プリンセストヨトミ』の設定は映画版で☆
 しっかし、三回も別の日に観に行った作品は初めてですね。その辺の成り行きその一その二は日誌にどうぞ♪(vol.1-3)

2011.07.31



 『SP』も本放送当時から、好きでチェックしてました。まさか、あんな結末になるとは当時は思ってもいませんでしたがね。つーか、TVシリーズ収録当時は尾形総一郎役の堤さんも、自分の役にそんな過去があることなど想像もしていなかったそうで……。最終回の最後のワンカットと台詞で全部、覆ったというか…。あのシーンまで、堤さんも『普通に理解のある現場主義の上司役』だと思っていたので、酷く驚いたとか。それ以前のシーンまで、妙に曰くありげに見えてしまうから不思議だ。
 『SP映画編』については正直、輝としては納得の出来る映画シリーズではなかった、というのが本音でして。幾らなんでも、無茶な設定だろうというか何というか。尾形さんには『SPの待遇改善に奔走していた』というのを貫いてほしかったなぁ。(vol.4-6)

2011.09.03.



 『プリンセストヨトミ』DVD&Blu-ray発売決定☆記念。11月16日発売予定──早速、Amazonで予約しやした〜♪ もち、予約までしたのも初めてのことなので、また、見られる日が楽しみ楽しみ^^
 さて、我らが副長といえば、アイスです♪ 『アイスキャンディー、ソフトクリーム、カップアイス、アイスモナカ』──何でもイケる^^; 原作準拠の一日五個、これでも減ったらしい;;;
 映画でも何度か出てきたわけで、その都度、アイスを食わされる松平元こと堤真一★ 何回、食べたかというカルトクイズみたいなのもあるほど。何つっても、背景小道具の某でかレディボーデンほど笑えるシーンもないっス。至極、真面目なシーンのはずなんだけどな☆
 んでもって、もう一つの癖?が『何故か、ケータイを忘れる癖』……初登場シーンからして、忘れ物ケータイを受け取るシーン。やっぱり、松平さんには欠かせないエピですね☆(vol.7-8)

2011.09.12.



 『プリンセストヨトミ with SP』とかしながら、割合が半々になってきました。『SP』については日誌でも語ったことはなかったのですが、特に『映画版』を終えた後では、やはり思うところは多々あったわけでして──段々、羽目外していってます;;; だもんで、一気にvol.10到達──予想以上に長い^^; 
 因みに、中尾課長のその後なんてのは完全に好き勝手版です。『誰もやりたがらない』なんて、公的機関で通るのかねぇ。旭君のコンピュータ調査にしても、やるなら、本職じゃないと無理だろうし。(vol.9-10)
 ……にしても、台風…、本当に凄かったです。

2011.09.22

トップ 小説