変わらぬ背

後編


「全く…。私には錬金術のことはよく解らないが、それでも、美事だと思うよ。なぁ、これからでも遅くはない。やっぱり、消防士にならんか?」
「有り難うございます」
 苦笑するしかないが、最大級の賛辞だろう。かつても、こうして誘われたものだ。
「そろそろ、失礼したいのですが」
「何を言ってる。調書やら何やらに付き合ってもらわんと困るぞ」
「私も困ります。これから出勤なんですよ」
 しかも、この形《なり》だ。一度、自宅に戻って、着替えなくてはならない。
「これで、遅刻は決定ですよ」
 何故か、情けなさそうに嘆息するのに、
「なら、尚のこと、このまま付き合ってくれればいい。司令部にはこちらから協力を受けたことと、調書の件を報告する。それで問題はないだろう」
 確かに問題はない。一見では何も問題はなさそうだ。
「軍と消防は犬猿の仲というわけでもない。うちの上層部も感謝こそすれ、文句などは──」
「そちらはそうでも、こちらがね」
 余りに面倒そうな顔をするのに、マスタングの軍内部に於ける立場というものに、思い至った。部外者の彼でさえ、察せられてしまうほど、若いマスタングは軍上層部の大多数には煙たがられている。どんな些細なことでも、嫌味の種にしようと手薬煉《てぐすね》を引いているのだ。
「あぁ…、そういうことか。うん…。しかし、困ったな」
 調書は取らないわけにはいかない。そんなことをすれば、今度はこちらが咎められる。
「通りすがりの錬金術師がちょっかいを出したとでもして下さい」
「ちょっかいって、あのな」
 隊長は大きく嘆息した。内心では「仕方がない」という方に傾いているようだ。

「それじゃ、行かせてもらいます」
「あぁ、ちょっと待ってくれ」
 やはり、引き止めるつもりか。しかし、強く抗弁して、拗らせても元も子もない。マスタングは大人しく、立ち止まる。
 振り向いた先の隊長は酷く真剣な顔になり、すぐ傍に人がいないのを確め、尚且つ声を潜めた。
「……君が、国家錬金術師になったと聞いた時、私は意外に思ったよ。君は錬金術師の何たるかをよく解っているように見えたからな」
「錬金術師の、何たるか、ですか」
「そう、錬金術師は大衆のためにあれ、というあれだ」
 軍に認められ、場合によってはその要請を受け、軍属として働く『国家錬金術師』は嘲りと蔑みを以って、『軍の狗』などとも呼ばれる。
 ロイ・マスタング大佐は更には軍人でもある。軍人がその威をもって、錬金術を行使する。二重の意味で、『大衆のための錬金術』からは遠いところにいる存在《もの》のはずだ。
 マスタングは全てを承知の上で、その道を選んだ。軍内部で上を目指すためにも、駆け上がるためにも、ある意味では『異端』のその力を揮うのも躊躇わなかった。
 それ故に、更に人々に畏怖の目で見られようとも、上官達に嫌悪の念で迎えられようと構わなかった。
 なのに、そんな自分が『大衆のための錬金術師』であると評するのか。
 マスタングは自嘲めいた笑みを隠さなかった。かつて、見知った相手とはいえ、親しくしているわけでもない。それこそ、互いに『通りすがりの人物』のような存在なのに、何故、そんな断定的な言い方ができるのかが不思議ですらある。
「可笑しいかね」
「そうですね」
「そうか。大して知りもせんくせにと、不愉快になるよりはマシかな」
 今度はさすがに表情の選択に困った。
 いつの頃からか、相手の言動に対し、反射的なストレートな反応を示すことはなくなった。常に一瞬にも満たない間に、自らの意思で選択した反応──言動を、表情を、所作を以って、応えてきた。
 なのに、疾うに身に付いたはずの習性が、この時ばかりは機能してくれなかったのだ。
「君の、本質は変わらない。邪険にされようと構わず、いきなり火事場に飛び込んできた少年の頃とな」
 あぁ、だからか……。唐突にマスタングは理解した。いや、できたように思えた。
 己自身でさえ、忘れたと思っていた──微かな懐かしさを前に、僅かに、ほんの少しだけ、自らに科した枷が崩れたのだ。
 しかし、どこか優しさを纏う懐かしさに浸るわけにもいかなかった。
 その源泉たる過去は更に未来へ進むための原動力としなければならないのだ。留まるべき記憶ではないのだから……。

 腕を組み、錬金術師を見送る隊長の背後から掠れた声がかかる。
「結局、行かせてしまったんですか」
「まぁ、な。……動いて、大丈夫なのか」
「いつまでも、寝てはいられません」
 負傷した消防の錬金術師は肩を竦め、『通りすがりの謎の錬金術師』の背中を見遣る。
「さすが、というべきなのでしょうね。我々とて決して、国家錬金術師にも負けないという自負は持っていましたが……こうして、その力を目の当たりにしてみると、ケタが違いすぎる」
「それも様々だろうさ。特に彼がトップクラスであるのも疑いはないがね」
「それにしても、彼の“焔の錬金術師”殿と何故、お知り合いなのですか」
「消防が錬金術師を抱える原因を作ったのが彼だよ」
「というと、あの伝説の錬金術師が?」
 俄かには信じがたいような顔をしているのに、隊長は訝しむ。
「しかし、彼の錬金術師は確か水を喚んだのでは」
「伝説とはいいな。そんな昔でもないぞ。消火栓がイカれてな。彼はまだ少年だったが、錬金術の腕は確かだったな。……何だ」
「いえ。ただ、“焔の錬金術師”殿は水との相性は最悪だと聞いていますが」
「どこで聞いた?」
「いや、噂でよく──」
 『雨の日は無能』とか散々に言われているではないか。
「まぁ、噂は当てにならないという、いい証拠だろうな」
 隊長がさも可笑しげに笑うのに、錬金術師は目を丸くする。
 隊長にすれば、何故、そう簡単に信じるのかが不可解ですらある。困難といわれる気体を操る“焔の錬金術師”にとっては液体も固体も、形態が異なるというだけで、大した違いはないだろうに。
 そんな認識を広めるのに、当人の意思が関わっているのも明らかだった。
「まぁ、我々には関係のないことではあるな」
 勝手な推論でもあるのだから、わざわざ言い触らすこともない。
 隊長はもう一度、思わぬ縁で知り合った錬金術師の去った方を見た。その背中がまだ、小さくだが、見えた。知らなければ、群衆の中に埋没してしまうだろう人影は、だが、その存在感を強く示している。
 あの頃より二回り以上は大きく逞しくなった背中は、同時にまるで変わらない孤独の影を負ってもいる。そして、もう一つ回想の中に浮かぶ人影があった。
「……なぁ、お前さん。“氷炎の錬金術師”を知っているか?」
「氷炎の? 随分と矛盾した二つ名ですね」
 唐突とも思える問いに、錬金術師は記憶を検索するが、
「覚えはないですね。そんな銘の持ち主がいるのですか」
「いたんだよ、昔な。……まぁ、知らないのならいい」
 その時、道の向こうからサイレンの音が近付いてきた。遅蒔きながら、化学消防車が到着したようだ。出番はないだろうが、その登場は彼らに現実を思い起こさせる。
「動けるようなら、お前さんも仕事に取りかかってくれ。ただし、余り無理はするなよ」
「了解です」
 火事場の喧騒は既に『下火』──後は検証を残すのみだろうか。
 太陽は既に南中を過ぎ、西に向かっていた。



 軍中央司令部──言わずと知れた国軍の中枢であり、軍指導者たる大総統の在る大総統府を始め、多くの施設を構えている。
 司令部は眠らない──軍という組織の性質上、それも当然のことだ。だが、それでも、早朝出勤してくる者が一番、多い。

「おはようございまーす。って、あれ? 大佐、もういらしてたんですか」
「何だ、その思いっきり意外そうな、ありえないものを見たような面は」
「いっ、いえ。とんでもない! 誤解ですよ、大佐」
 ジャン・ハボック少尉はワタワタと両手を振って、抗弁する。持っていた新聞がガサガサと鳴る。が、少尉にとっては救いの女神、リザ・ホークアイ中尉が冷静に突っ込む。
「日頃の行いの報いですね、大佐」
 マスタング大佐は顔を顰めたが、それ以上、文句は言わなかった。
 席についた少尉は内心では感謝しつつも、中尉には別のことを尋ねた。
「大佐、また泊まったんですか?」
「そのようね。昨日は昼からの勤務の上に大遅刻してきたから」
 そういえば、そうだった。碌な言い訳もしないまま──尤も、言い訳したところで、中尉が納得するはずもないが──中尉に睨まれ、仕事漬けにさせられていた。
 ただし、残業の量は然程ではなかったはずだ。泊り込んでまで、調べ物をしたりと──それは本来の任務とは全く別の件だった。
 彼らがまだ東方司令部にいた頃、マスタングの盟友であり、親友だったマース・ヒューズがここ中央《セントラル》で殺害された。
 中央司令部の軍法会議所に勤務し、様々な情報を相手にしていたヒューズが、例えば、単なる通り魔などの手にかかるとは考えにくい。
 軍法会議所内部で何者かに襲われ、外に逃げ出したことまでは判明している。しかも、殺害される直前に東方司令部のマスタング大佐に電話をかけていたこともあって、軍の暗部に関わる重大な問題を知ってしまったが故に消された可能性を彼らは疑っていた。
 だからこそ、中央に異動になったマスタングは寸暇を惜しみ、任務の合間に独自の調査を続けているのだ。そして、時には泊り込みで──……。

 そうこうしている内にオフィスに全員が揃う。最後の一人はケイン・フュリー曹長だった。
「済みません。遅くなりました」
「ギリギリ・セーフよ。でも、曹長にしては珍しいわね」
 このオフィスで唯一の下士官でもあるので、彼は常に(夜勤の者を除けば)朝一番に出てくるのだが。
「昨日の爆発事件の影響で、まだ交通規制がかかっていたんですよ。そうと知っていれば、バスになんか乗りませんでした」
 といっても、下士官用の寮は微妙に遠い距離にある。自分の足としての車輌を持つ者などいないので、殆どは寮の送迎バスや公共機関に頼っているのだ。
 徹夜の完全な寝不足状態で、些か呆けているマスタングが鸚鵡返しに尋ねる。
「爆発事件?」
「御存知ないんですか。昨日の昼頃の、あの派手な爆発を」
「司令部にいても、音が聞こえたもんなぁ」
「大佐は丁度、こちらに向かっていた頃じゃありませんか? 通り道だと思いますが」
「いや、ファルマン。大佐は昨日、遅刻したんだぜ」
「喧しい」
 放っておくと、子どもの言い合いになりそうだ。ホークアイ中尉がハボック少尉の持ってきた新聞を取り上げ、マスタングの前に開いた。
「火事場で爆発が生じたのですが、事件性はないようです」
「フム」とマスタングは記事に目を走らせる。未だ、寝惚け気味のようだが、既に彼の思考は鮮明になっている。何しろ、彼自身が関わっているのだ。
 だが、記事にはそれと窺わせるような内容はなかった。『錬金術師が消火に協力』した旨はあったが、名前も連絡先も不明となっていた。
 どうやら、消防隊長らはマスタングの名を出さずに済ませてくれたらしい。
「それにしても、名も告げずに去っていくなんて、格好好いよなぁ」
「受けるべき賞賛を辞退する。中々、できることじゃありませんよね」
「……錬金術師は大衆のためにあれ、地でいくような人物ということかな」
 マスタングは苦笑を噛みしめながら、呟き、新聞を閉じた。ハボック少尉に放って返したが、
「あ、その錬金術師の写真、こっちの新聞に載ってますよ」
 思わぬフュリーの言葉に数瞬、固まってしまう。写真だと? 一体、いつの間に!? フュリーに歩み寄り、新聞を奪いそうになるのは堪え、
「見せてくれないか」
「は、はい。どうぞ」
 何の不審もなく、若い曹長が新聞を差し出してくれた。
 一面に取り上げられているのは黒煙を吹き上げ、炎上する建物の写真だ。急がず、ゆっくりと新聞を開く。
 確かにそれらしき写真はあった。だが、かなりの距離を置いて撮られたらしく、謎の錬金術師の後姿を小さく捉えているだけだった。
「これでは、判別らんな」
「何か? 大佐」
「……いや」
 マスタングは新聞をフュリーに返した。
「中尉。悪いが、シャワーでも浴びて、サッパリしてくる。まだ時間はあるな」
「お急ぎを」
 薄っすらと無精髭まで浮かした、寝惚け眼の上官では外聞も悪い。ホークアイ中尉はあっさりと許可をくれた。部下の許可を必要とするとは些か不可解ではあるが、この場の誰も疑問を覚えないのが実体でもある。
 そんな上官が出ていくのを見送り、部下達には仕事を始めさせるかと思いきや、
「曹長、私にも見せてくれるかしら」
 ホークアイ中尉が新聞を広げるのに、案の定、興味を持ったハボック少尉らも取り巻き、目を向ける。
「どうかしたんスか。中尉」
「いえね、妙に大佐が気にされていたようだから」
 爆発を抑え、火事も消し止めたという件の錬金術師を──隠してはいたが、写真に拘っていたのは明らかだった。僅かに緊張していたし、小さな写真と知ると、何故か安堵すらしていた。
 写真は偶然、通りかかった一般人が撮ったものらしい。カメラとて、余り普及はしていない。記者ならば、もっと近付いて、撮っただろうか。だが、
「……中尉、これって」
「そうね。気になさるはずだわ」
「え、これ、大佐ですよね?」
 一同は顔を見合わせる。ブレはないが、例えこちらを向いていても、顔の判別などできないだろう小さな写真に捉えられた、錬金術師の背中……。
 だが、彼らの目には何者かは明らかだった。
「なるほど、それで、昨日は遅刻してきたわけね」
「人助けをしたのなら、言えばいいのに」
「言えねーだろ。あの人の性格じゃ」
「それに上層部が難癖をつけてきそうですからね」
 口々に言い合いながらも、そういう上官を誇りにさえ思うのも彼らだった。
「それにしても、何で、誰も気付かねーんだよ。一目で大佐だって、判るじゃんか」
「それは、私達くらいなものじゃないかしら」
 丁寧に新聞を畳むホークアイ中尉に全員の目が集まる。
「いつも、すぐ後ろから大佐の背中を見ているのは、ここにいる者くらいでしょうからね」
 そうだ。若いながらも軍で栄達し、堂々と歩き続ける彼を前から見る者は多い。嫌でも人の目を惹きつけるのだ。
 一方で、ロイ・マスタング大佐は多くの部下を持つ身ではあるが、背中を守らせようというほどの者は自らが選んだ直属の部下達だけだ。それはそのまま、大佐の彼らへの信頼を表してもいる。
 こそばゆい思いとともに、彼らには誇らしい充足感を齎す。
「大佐が知らぬ振りを決め込むのなら、私達も気付かぬ振りをしていましょう」
「ですね。にしても、昨日はあんなに責めて、悪かったですかね」
「それとこれとは別です。遅刻したことに変わりはありません」
 ピシャリと窘める中尉に、一同は乾いた笑いを浮かべるだけだった。

 もう暫くすれば、無精髭も剃り、サッパリと身支度を整えた大佐が戻ってくるだろう。
 だが、何も知らなかった振りをする。賞賛など大佐は必要としていない。大佐が彼らに望むのはもっと別のことなのだから。
 その誇りを胸に、決意を新たにする。
 どこにあろうと、変わることのないその背中に、どこまでもついていこうと……。

中編


 20000HIT☆記念小説後編です。ともかく、完結☆
 いやぁ、やっと軍部連中が書けました。全員の名前を記しはしなかったけど、くどくなりそうなのでね。でも、ファルマン(セリフにだけは登場)もブレダもちゃんと、いるし、喋ってます。さて、どれが二人のセリフかな^^
 一方で、謎なままのことも残してしまった。最たるは
“氷炎の錬金術師”ですな。何者!? この辺はポコポコ生まれているとゆーネタに登場する捏造過去なんかに関わってるんですかね。さーて、書けますかねぇ。……無責任な奴だな★
 因に
“氷炎”なるのは造語のようです。ようですってのは輝が作ったわけではないので。『ジハード』という小説のサブタイトルに使われてて、響きと字面を気に入ってましてね。
 詳しい?後書は航宙日誌をどうぞ☆

2004.11.25.

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