休 息


「……く…」
 左腕を捕えていた痺れが次第に全身へと及ぼうとしている。
「失敗《しくじ》ったな」
 言葉を発するのさえ、負担になってきた。勿論、立っているのもやっとだ。精神力で、何とか保っているに過ぎない。
 アイオリアが纏っているのは獅子座の黄金聖衣。聖衣の中でも最高の強度を誇り、ほぼ全身を被うプロテクターだが、それでも、剥き出しの箇所がないわけでもない。上腕部や大腿部は生身のままだ。
 そして、傷付けられたのは左腕上腕──傷そのものは掠り傷程度だが、さすがに相手が悪かった。
「聞きしに勝る…、猛毒、か」
 咄嗟に小宇宙で防御しなければ、あっという間にあの世行きだったろう。
 一つ息を吐き出し、正面に蠢く影を見据える。拙いことに視界までが霞み始めた。
「……キマイラ、か」
 伝説上の異形の魔獣。だが、確かなる存在だ。
 戦女神《アテナ》の御許に集いし聖闘士が確かに此処に在るように、神話や伝説にのみ生きると思われる異形の存在《もの》達も、この世界には間違いなく息づいているのだ。
 しかも、このキマイラは単なる化物ではなく、狡猾なまでに恐るべき知能を備え、人語をも解する。厄介なことに所謂“魔法”を操り、“呪詛”も齎すのだ。
 威嚇の唸りを上げる獰猛な巨大なライオン──数多の命が、その牙や爪に引き裂かれ、呪詛の餌食となった。
 それにしても、獅子座の黄金聖闘士である自分を討伐に選んだのは聖域の皮肉か嫌味か? 鈍くなりつつある頭の隅で、どうでもいいようなことを考えた。鬣の奥に、黒々とした小山のような影が蠢いているが、それは無視した。

『なるほど、女神《アテナ》の聖闘士とやらか。それも最上の黄金《ゴールド》が現れるとはな。確かに活きの良さそうな精気を持っとるの』
 当然、人語を喋る。地を這うような嗄《しわが》れた老人如きの声が耳を打つ。
『だが、我の敵ではない』
 既に、毒尾による猛毒の洗礼を浴びせた余裕だろうか。
 だが、その余裕──聖闘士を前にしての侮りが命取りにもなるのだと、異形の魔獣も身を以て、知ることとなる。
〈時間が、ない〉
 まともに思考も働かなくなるのも、体が動かなくなるのも時間の問題だ。チャンスは一度きり。その一度に、全力を注ぐ!
 瞬時に高まる小宇宙に、異形の魔獣も僅かに動きを止める。
 高まるどころか、黄金聖闘士の小宇宙は一気に膨張し、爆発した。
「ライトニング・プラズマ!」
 縦横無尽に駆け抜ける閃光──辺り一帯を覆い尽くし、大地を、空気までもを切り裂く。
『ぐおっ!?』
 それまでは素早い動きでアイオリアの攻撃を避け続けていたキマイラだが、さすがに広範囲に及ぶ光速拳を避けることは不可能だった。
 その強靭な肉体から毒々しい色の血が散り、動きが止まった。それが、確実なる死を招く。
 いや、魔獣の足掻きは凄まじい。それでも、抵抗を諦めず、ガッと口を開いたかと思うと轟音伴う火炎が迸った。だが!
「ライトニング・ボルトッッ!!」
 続け様に雷光が集約されたが如き輝きが放たれる。一撃必殺一点集中の雷《いかづち》の牙は動きを止めた異形の魔獣を真直ぐに貫く。凄まじき火炎を蹴散らしながら!
『馬鹿、な……』
 “呪”をかける間もなかったのだろう。信じ難いという響きの呟きを最後に、どうと斃れた伝説の怪物は息絶えた。
 倒れた魔獣の、ライオンではない頭が恨めしそうにアイオリアに向けられていた。黒山羊の頭──キマイラは前半身はライオンだが、後半身は黒山羊で、双頭という異形だったのだ。
「……本当に、悪趣味、だな」
 聖域の、思惑とやらは……。

 右腕を振り抜いた必殺技を放った態勢のまま、アイオリアは膝をついた。それまでは小宇宙で、毒の回りを抑えていたが、連続しての最大級の小宇宙の放出により、抑え切れなくなったようだ。最早、一歩も動くことは叶わない。
 それでも、何とか小宇宙を高めようとする。だが、ヒーリングが巧く働かない。元々、ヒーリングは自らには効き難いものを、毒のせいで小宇宙の制御も不安定になっている。
 動くどころではない。体を支えきれず、その場に倒れ込む。冷たい大地の感触すら、掠れたものだ。四肢の自由が次第になくなってくる……。
「駄目、か」
 その呟きも声になったかどうか。だが、それでもいいか──アイオリアの中に、そんな思いも確かに掠めた。
 身を削るように、命の限りを尽くして、戦ってきた。だが、それを正当に評価されることもなかった。どれほど、命を果たそうと、彼が獅子座の黄金聖闘士であることさえ、明かされぬままで、一体、何を変えろというのか。
〈兄さん……〉
 逆賊として、討たれた兄の姿が刹那に甦る。
 逆賊の弟と蔑まれた身でも、己が小宇宙に獅子座の黄金聖衣だけは応えてくれた。それは女神からの許しにも等しかった。
 だから、この聖衣とともに聖域のために功を重ねれば──いつかは『あの獅子座のアイオリアの兄が逆賊などとは信じ難い』と、そう言わしめる日も来るのではないか。儚いまでの望みを繋いで、今日まで……だが、
〈終わり、か〉
 何一つ変えることなど叶わず、望みは潰えるのか。兄は逆賊のまま、己もその弟としてのみ、聖域の歴史に暗き名を刻むのか。
〈済まない。不甲斐ない、弟で……〉
 それでも、最後の命だけは果たせたのならば、どうか許してほしい。

 そして、一緒《とも》に在り続けた獅子座の黄金聖衣に意識を向ける。
〈レオ……聖域に戻れ〉
 戻って、伝えろ。獅子座のアイオリアは命を果たし、落命したと。
 アイオリアは体から離れるように、聖衣に命じた。だが、聖衣に変化はない。
〈どうした、レオ。何故…、従わない〉
 最後の最後で、聖衣に見放されたか? いや、逆なのか。
〈お前…、俺を守って、くれているのか〉
 こんな様でも、未だ、獅子座の宿星は己が上にあるということか。意に添わない聖衣でも喜ぶべきなのだろうか?
 だが、この獅子座の黄金聖衣こそが認めたのだ。アイオリアが、獅子座の黄金聖闘士であることを。
〈今日まで、感謝する〉
 視界が一気に暗くなる。既に指先一つ動かすこともままならない。愈々、最期の瞬間か。
 自分が息絶えれば、さすがに聖衣も聖域に戻っていくだろう。そんな中、ふと思った。
 聖域に還ることのなかった、兄を主としていた射手座の黄金聖衣。黄金の翼を羽ばたかせる荘厳な聖衣──あれは一体、どこに消えたのかと。

 最後の最後に思うのはやはり、兄のことなのか。沈み込む意識の底で、苦笑した。
「──アイオリア!」
 全ての感覚が消失していく寸前、誰かの呼び声が聞こえた。
 それは、出迎えてくれる兄の声だったのだろうか?





パチパチッ…

 炎の爆ぜる音がやけに大きく響く。辺りはすっかり日暮れていた。連絡を入れないままでいるのは拙いだろうか。
 シュラは軽く息をつき、焚火に小枝を放り込む。炎が一瞬、大きく揺らめくと、傍らに横たわっている青年の金髪がキラキラと輝いた。
 獅子座のアイオリアだった。意識はない。キマイラの毒に冒され、危ないところだったが、彼自身がヒーリングを試していたのと駆けつけたシュラの手当で、辛うじて命は取り留めた。
 だが、さすがに黄金聖闘士とはいえ、キマイラの猛毒に冒されたのでは直ぐには動かせない。
 シュラはアイオリアの戦い振りを脳裏に描いた。たった一人で、伝説上の魔獣を相手取り、そして、仕留めた。狡猾極まる難敵で、本来なら、黄金聖闘士といえども、単独で事を構えるような相手《テキ》ではないのだ。
 単独での戦いに慣れているアイオリアは十分に慎重かつ冷静に対していたが、それでも、毒尾の一撃を受けてしまった。
 その上で、キマイラを倒したのは驚嘆に値するが、本来、それは異常な状況であるべきだ。それをアイオリアの身上に於いては当然と考える聖域は、やはりどこか歪んでいるのだろう。
〈そして、俺も、だな〉
 そう、全ての経緯をシュラは黙って見ていたのだ。手出しをせず、手助けもせず、アイオリアが傷付き、倒れ伏すまで、何一つ──今、こうして、手当てしてやるくらいなら、最初から二人で戦えばよかったものを。
「……こいつが、俺と組むはずもないか」
 苦い感慨に自嘲する。
 アイオリアがもう少し落ち着いたら、この場を離れようと決めた。だが、その時、
「う……」
 アイオリアが身動《みじろ》いたのだ。シュラは目を剥く。
 気が付いたのか? 馬鹿な。まだ、そこまでの回復は──!
 咄嗟にどうすべきか判断に迷う内に、背を向けていたアイオリアがこちら側に寝返りを打った。虚ろに緩く開かれた瞳に次第に光が戻る。
 シュラも息を詰め、そんなアイオリアを凝視していたが──大きく見開かれた翠色の瞳が完全に生気を取り戻したかと思うと、身を起こして、後ろに飛び退った。正しく、毛を逆立てて警戒する猫科の動物の如き動きだった。
「──シュラ」
 低く絞り出された声が震えているのは残っている毒のせいか、それとも、彼自身が抱える怒り故か。
 シュラの方は起きるはずがないと思っていたので、幾らか動揺していたが、まだ冷静さを保ってはいた。
「無理に動くな。まだ毒は抜けては──」
「何故、此処にいる」
 シュラの言葉なぞ、聞く耳を持たぬ、と鋭さを増す瞳がそう語っている。だが、彼は自ら答えを導き出した。
「あぁ、今回の監視役はあんただったわけか」
 沈黙で返すよりない。元より、シュラが、いや、他の誰であろうとも他の聖闘士がアイオリアの任務に従うことはない。此処にいるのは偏に“監視”のためだけだった。
 逆賊の弟に与えられる任務は過酷を極めた。だが、常に援護は得られぬ単独行動を強いられた。
 逆賊の弟と行動を共にする者などおらぬだろうし、仮に命じたとしても、協調を得られるはずもない。況してや、アイオリアが獅子座の黄金聖闘士であることすら秘されている現状では現実的ではない。
 故に常に単独で投入された。だが、逆徒なり得る者を聖域の外に独り出すことに不審を訴える者も少なくはなかった。
 そして、監視役がつけられることになったのだ。それもアイオリアの“銘”を知っている他の黄金聖闘士が。貴重な黄金聖闘士を無駄に使っていることにも異論は出ているが、この数年はその形式が続けられている。
 監視役は監視にのみ徹し、獅子座の黄金聖闘士が如何なる戦い方をしたか、女神の聖闘士に相応しき戦いであったか、全てを報告する。そして、決して手を貸さない。どれほどの窮地に陥ろうとも……。

 アイオリアは左腕に手をやった。傷の箇所を確め、眉を顰める。
「……何故、助けた」
 死ぬはずだった。彼自身、そう、覚悟した。
「何があろうと、絶対に手を出すな。そう厳命されているのではなかったのか」
 確かに、その通りだ。
「放っておけば、死んでいただろうに。その方が、聖域にとっても後腐れがなかったのではないか」
 聖域の殆どの者が、それを望んでいよう。任務に出る度に、痛感させられる。

逆賊の弟なぞ、このまま還らなければよいのだ
もう、あの逆賊を思わせる顔など見たくもない
そんな汚れた存在は消えてくれればよい……

 それらの荒んだ意思の渦巻きに背を押されながら、アイオリアは任務に出てくるのだ。
 アイオリアにとって、任務は“兄の罪”とやらを贖うためのものだ。だから、どれほどに過酷だろうと、抗せず受け入れ、そして、果たしてきた。果たせずに終わることは贖うべき“兄の罪”に屈することに他ならないからだ。
 今回とて、死を覚悟したが、“魔獣討伐”という命だけは果たしおせた。それが最後の抗いでもあった。
 思惑はそれほどに乖離しているが、結果が変わるわけでもない。最早、他人がどう思おうが、アイオリアが頓着することもなかった。
 それなのに、シュラは自分を助けた。命を破ってまで、自分に消えてほしいと願う聖域の意思の筆頭であろうはずのシュラが何故?

 だが、
「死にたかったのか、お前は」
 やっと答えたシュラの口からは逆に問いが出た。鮮烈な翠色の瞳を瞠り、唇を噛みしめるアイオリアに直感する。
「図星か」
「黙れ」
「それで、兄の元にいけるとでも? あのアイオロスが、それを望んでいるとでも──」
「黙れっ! 貴様が、兄の名を口にするなっっ」
 絶叫が炎をすら揺らめかした。その烈しさに、シュラも口を噤む。
 生気が漲る翠色の瞳には最早、死を覚悟したような陰りは見えない。あぁ、こいつはこうして、また生きていく力を取り戻したのだ。
「く……」
「アイオリア?」
 次の瞬間、地にまた両手をついた獅子座の黄金聖闘士は、そのまま崩れ落ちるように倒れ込んだ。ゆっくりと、あの鮮烈な瞳の輝きが隠されていくのに、シュラは慌てた。
「アイオリア!」
 駆け寄り、様子を窺うと、再び意識を失っていた。無理もない。実際、僅かでも意識が戻り、あれほど動けること自体があり得ないはずのなのだから。恐らくはシュラの小宇宙に反応し、無理な覚醒を強いたのだ。
 だが、今回ばかりは体の方が悲鳴を上げたようだ。

 シュラは焚火の近くまでアイオリアを連れ戻し、無理のない体勢にしてやると前髪をかき上げた。体調の悪さを示すように、額も汗ばんでいた。
 汲んできてあった水で、衣服を裂いて作った布を絞ると、乗せてやる。ほんの少し、苦しげだった表情が和らいだように見えた。
「……お前は、俺の前でだけは烈しいところを見せるな」
 聖域での彼は、どこまでも穏やかで控え目だ。逆賊の弟とどれほど侮蔑され、憎しみをぶつけられても静かに受け止めるだけで、決して激することはない。
 それはシュラに会ったとしても変わらない。
「いや…、随分と、我慢しているかな」
 まず、殆ど会うことはない。十二宮外では恐らく、小宇宙の探知で、避けているのだろう。
 精々がアイオリアが教皇宮まで上がってくる時で、シュラが磨羯宮にいれば、嫌でも顔を合わさざるを得ない。
 そして、その時だけは──封じきれない怒りを、その瞳に滲ませて──だが、表面上は決して、動じる様子を微塵にも見せずに擦れ違うのだ。
 苛烈さを帯びる翠色の瞳がアイオリアの胸の内を雄弁に物語っていた。

 一体、どちらの彼が本当の彼なのだろうか。全ての感情を封じ込めたかのような聖域の彼と、何もかもを撃ち払うが如き激烈さを隠さない外での彼と……。
「どちらも、本当か」
 そんな二面性を生み出したのは他ならぬシュラに原因があるのかもしれない。
『貴様が、兄の名を口にするなっ』
 他の誰が、口にしようとも──いや、今や、その名が余人の口に上ることは滅多にない、アイオリアの兄・射手座のアイオロス。逆賊として逝ったアイオロスをその手で討ったのが彼、山羊座《カプリコーン》のシュラだったのだから……。



 あの日まで、射手座の黄金聖闘士アイオロスは双子座のサガとともに、次代の聖域を担う黄金聖闘士の筆頭とされていた。そして、年少の黄金聖闘士たちにとっては目標となるべき憧れの聖闘士でもあった。シュラもまた、年齢《とし》に見合わぬ高潔さを有し、優しく強い射手座に焦がれた一人だった。
 彼のようになりたい。彼の力になりたい。そう願い、自身を鍛えた。
 彼に誉められることが何よりも喜びだった。
 ところが、そんな優しい世界があの日、一変した。

 兆しは双子座のサガが行方知れずになったことだった。聖域に於いて、許可なく聖域を出ることは御法度。脱走は極刑だった。それは究極最強の黄金聖闘士であろうとも変わらない。
 だが、サガの行方はアイオロスらの必死の捜索にも拘らず、杳としてしれなかった。
 聖域には女神《アテナ》の結界がある。それ故に、俗世から隔離されているが、逆にその結界を中から人知れず抜けることも難しい。
 そして、双子座の黄金聖闘士がその結界を抜けた形跡もなかったのだ。
 一体、サガに何があったのか? 考え込んでいるアイオロスの姿をシュラは覚えている。
 だが、それも直後に起きた大事件により、いつの間にか忘れ去られた。いや、その首謀者により殺められたのではないか? そんな憶測が信じられるようになったのだ。

射手座のアイオロスの叛逆

 聖闘士の中の聖闘士、何れは次代の教皇とまで目されたアイオロスによる女神への謀叛。何と、アイオロスは降臨したばかりの女神の命を狙い、失敗するや、脱走を企てたのだ。
 どれほどの衝撃を聖域に齎したことか。シュラもまた、そんな大多数の一人だった。
 愕然としている内に、教皇に呼び出され、アイオロスの追討を命ぜられた。
 相手は黄金聖闘士でも最強と呼ばれた射手座のアイオロス。さすがに一人では心許ない。
 偽ざる本心を、シュラは教皇に告げたが、
『案ずるな、シュラよ。アイオロスが、お前に刃向かうことはない』
 その瞬間、教皇は驚くべき行動に出た。常に素顔を覆っていた仮面を外したのだ。
 更なる驚愕に、身動き一つできなくなる。
『…………サガ?』
 行方知れずになったはずの双子座の黄金聖闘士の顔が現れたのだ。
 そんなはずはない。では、真の教皇は?
 混乱するシュラに命じるサガの言動は凡そ、記憶にあるサガのものとは掛け離れていた。
『アイオロスは未だ、アテナを連れている。その状態で、本気で戦えるわけがないのだ』
 赤子の女神を抱えていては光速移動もできまい。追手が黄金聖闘士であれば、簡単に追いつけるはずだと。
『で、では、アテナを取り戻し……』
『構うな』
『は…?』
『アテナの命など、構うな。確実に、アイオロスの命を絶て。アテナが巻き添えになったとしても構わん』
 信じ難い言葉だった。だが、サガの発する異様な圧力にシュラはとにかく、この場を出ることを選んだ。ここで、高圧的なサガに反抗しても、何かが得られるとは思えなかったのだ。下手をすれば、シュラも処断されかねない。
 それよりも、今はアイオロスと接触する方が肝心だった。恐らく、アイオロスは“何か”を知っている。サガの身に起こった何事かを知っているからこそ、叛逆者などとして追われるハメになったに違いない。
 そして、それは──一端は事実だった。

 サガが真の教皇を害し、成り代わった上に、赤子の女神をも殺めようとしたのだと!?
 寸でのところで、アイオロスが止めたが、その際、教皇の仮面が外れ、アイオロスはその正体がサガだと知ってしまった。それも、彼の知るサガではないような、まるで異形の者だと感じられたと。ただ、アイオロスにもサガの変化の理由を察することは出来ずにいた。
『とにかく、アイオロス。聖域に戻ろう。他の者にもこのことを』
 混乱したまま、シュラは言ったが、アイオロスは首を振った。
『馬鹿な。それでは貴方は逆賊として、追われ続けることになる』
『仕方がない。今、俺が戻っても、混乱に拍車がかかるだけだ。聖域が二つに割れかねない』
 シュラは息を呑んだ。聖域が二つに割れる? そんな馬鹿な!
 いや…、言われて、初めて気付いたが、確かにそうなるだろう。
 アイオロスが女神を連れ、聖域に戻ったとして、教皇の姿のサガが彼を許すはずがない。あくまでも、女神への叛逆者として断じようとするだろう。
 それにアイオロスが対抗すれば、どうなる? サガが真の教皇を殺し、女神も手にかけようとしたと訴えれば──無論、信じる者はいるだろう。現在、教皇の間に在る教皇の仮面の下は紛れもなく、サガなのだから。
 だが、サガは……いや、あの“サガ”は間違いなく、反論する。
『教皇を手にかけたのはアイオロス自身だ』
 と……。そして、混乱を防ぐために自身が教皇の影武者を務めたのだと。やはり、こちらを信じる者もいるだろう。
 どちらも信じられずに、双方に楯突く者も現れるかもしれない。そうなれば、二つに割れるどころではない。聖域は内部抗争になり、瓦解しかねない。
 世界の平和と安寧を守るべき聖域が、醜い勢力争いの果てに、自壊していくなぞ、認められることではなかった。

 蒼褪めるよりなかった。それでは、アイオロスに選択の余地はないに等しいではないか。
『アイオロスが、お前に刃向かうことはない』
 何故、“サガ”が断言したのかが解った。そして、素顔を自分に晒した理由《わけ》も……。その上で、自分を送り出したことも!
 アイオロスが、聖域を二分しかねない以上、戻るはずがないと解っていたからだ。全ての退路を塞ぐためだ!

『そんな顔をするな、シュラ。サガとて、自身で聖域を纏められる意志があるのであれば、他の者には無体な真似もしないだろう』
 全ての命運を受け入れた者の顔だった。
『だが、アテナだけは聖域に置いていくわけにはいかない。だから、このまま行かせてくれ』
 そして、アイオロスはシュラに背を向けた。
 混乱した頭の隅で、何かが引っかかった。女神だけは、だって?
『ま、待て、アイオロス! アイオリアはどうするんだっ』
 アイオロスが歩みを止めた。聖域に残していくことになる、彼の弟。獅子座の拝命を受けはしたが、まだ幼く、その触れも出されていない。
 アイオロスが可愛がりながらも、厳しく師として指導した弟子。射手座のアイオロスの薫陶を受けた唯一の存在。
 それ故に、アイオロスが逆賊と成り果て、姿を消せば、その分身の如く、この先は忌み嫌われることになるだろう。下手をすれば、死を与えられる可能性もないとはいえない。だが、
『……アイオリアも、女神のために生きる聖闘士だ』
 唯一言だけを残し、再び歩き出す。シュラに背を向け、いっそ無防備なまでに──……。
『待ってくれっ、アイオロス! なら、俺も行く』
『!? ……馬鹿なことを言うな』
 さすがに、アイオロスも振り向いた。憂いた表情で見返してくる。
『貴方一人が泥を被る必要はないはずだ!』
『駄目だ。お前には、サガの支えになって貰わないと』
 絶句するよりなかった。叛逆者と追われても、命を狙われても、彼は友人として、未だにサガを案じているのか。
『それに、アイオリアも……』
 ポツリと付け加えられた弟の名を口にした時だけ、表情は陰りを帯びた。言葉少なだが、それだけで、アイオロスの兄としての想いは十分すぎるほどに感じられた。
 共に女神の聖闘士としての宿命を負う唯一の肉親への──なのに、アイオロスは全てを振り払って、この地を去ろうとしている。
『済まないな、シュラ』
 そんな言葉が何になる!? 何のための謝罪だ。

 行ってしまう。本当に、このまま、行ってしまう。
 止めたい一心で、シュラは技を振るった。その腕に宿る研ぎ澄まされた“聖剣《エクスカリバー》”が炸裂する。凄まじい真空の刃がアイオロスの足元を襲った。
『──ッ』
 鮮血が…、散った。
『アイオロス!?』
 シュラは蒼白になり、絶叫した。当てるつもりはなかった。だが、動揺がコントロールを乱したのか。余波が、アイオロスの肉体を捕えたのだ。
 黄金聖衣を纏ってはいなかった体が吹き飛ぶ。それでも、女神を確りと抱きかかえていた。
『アイオロスーッ!!』
 必死に駆け寄り、手を伸ばす。だが、場所が悪かった。女神を抱えたアイオロスの体は放り出され、崖下とへ転落していく……。
『アイオロス!!』
 落ちていくアイオロスと視線が一瞬だけ交わった。彼は微笑んでいた。

『アイオリアを、頼む』

 小宇宙による訴えは短くとも強烈に残った……。





バチハヂッ

 またしても、炎が爆ぜる音に過去から意識を引き戻される。
 シュラはゆっくりと重たい息を吐き出し、頭を振った。

 あれから、崖下にも兵を遣り、捜索はされたが、見付かったのは夥しい出血の痕跡だけで、逆賊の姿はなかった。それ以後、射手座の黄金聖闘士もその黄金聖衣も、そして、女神の行方もまた杳として知れない。
 ともに小宇宙は感知されなくなっており、どこかで死んだことだけは間違いないと判断され、やがては捜索も打ち切られた。
 そうして、あれから何年経ったか……。
 “サガ”は教皇として、何事もなかったかの如くに聖域を掌握した。女神は取り戻されたと触れが出され、アテナ神殿におられるのだと言い渡されている。
 そして、逆賊が聖域に残した弟は、苦難の道を歩み、それでも、獅子座の黄金聖闘士としての眩いばかりの輝きを放っている。それは任務にある時に限るが、監視役として追随する時、シュラはその輝きを目の当たりにするのだ。

『アイオリアを、頼む』

 彼の兄は、シュラにそう言い残した。だが、結果として、兄を討ったシュラをアイオリアが受け入れるはずもなかった。常に厳しい視線しか向けてこない。
 だが、それでも──他人に関心を向けない、もしくは関心を忘れてしまったアイオリアが、幾らかでも示す相手は数少ない。それが負の感情であろうとも、人である以上、アイオリアにも必要なことなのかもしれない。
 兄の仇とも呼ぶべき自分にはミロやカミュのように、友人として、アイオリアを気遣ってやることはできない。だが、見守ることくらいはできるだろう。
 ただ、それでも、
「アイオロス。やはり、アイオリアを置いていくべきではなかった」
 連れて行ってやるべきだったのではないか? 今でも、そう思うことがある。
 確かに、アイオロスの決断により、聖域は嘗てない危機に曝されることを人知れずに免れた。真の英雄はアイオロスに他ならないのだ。
 だが、それによって、聖域が受けるはずだった傷の全てを、真の英雄たるべき彼の弟が引き受けることになってしまった。
 そして、この先も、アイオリアの往く道にはどれほどの茨が生い茂っているのだろうか。

 シュラは温くなった布を絞り直し、また額に宛がう。
「ん……」
 微かに呻き、唇が動いたが、声は届かなかった。兄の名でも呼んだのだろうか。
 聖域に於ける逆賊の弟に安寧の時などはない。だが、聖域の目を僅かに離れた今くらいは、安んずることはできるだろう。
「俺が、報告しなければ、な」
 苦笑し、瞑目する。

『アイオリアを、頼む』

 そう言った憧れた人の面影は、傍らに横たわる青年に良く似ている。アイオリアがアイオロスに似てきたのか。それとも、成長し、今や亡兄の年をも超えたアイオリアによって、記憶の中のアイオロスの姿が変じているのか。
 何れにしても。アイオロスは弟が生きることを望んだのだ。どれほどの苦難の道であれ、生きいくことを──だから、『頼む』などと言い残したに違いない。
 勿論、“兄の仇”には直接に差し伸べるべき手などない。精々が怒りを掻き立て、生きるための活力にしてやるくらいだろうか。
 全てを知りながら、結局、“サガ”に従ったのも、そのためでもあった。アイオロスが“逆賊の汚名”を敢えて受けながら、唯一人の弟を置いてまで、命懸けで守った聖域を更なる混乱に叩き込むことなどできなかった。
 真の教皇もアイオロスも亡く、女神の行方も知れない中、教皇の座に納まる“サガ”を引きずりおろすことなど、できようはずがないではないか。
 仮にできたとして、誰が後を引き継ぐのだ? シュラたち黄金聖闘士とて、まだまだ幼いといっていいほどの少年に過ぎなかったのだから。
 それらは言い訳に過ぎないのかもしれない。だから、これはある種の贖罪だ。聖域のとにかくもの混乱を収めながら、逆境にあるアイオリアを影ながらにでも守ってやる。
 それがアイオロスへの贖罪になると、シュラは信じるよりなかった。

「結局、自分のためか……」
 あの日以来、シュラにも心休まる時などはない。余人はシュラを“逆賊”を討った英雄などと呼ぶ。だが、決して、そうではないことをシュラ自身が知っている。
 聖域の分裂を防いだ真の英雄が冒涜される度に、その弟が理不尽なまでの辛酸を嘗めるのを目にする都度、彼の心もまた、どれほど苛まれたことか。
 そして、それは多分、生涯、変わることはない。
 結局、そこまでなのだ。どれほど、心を痛めたとしても、アイオロスの無実を証立てすることもなく、アイオリアを逆境から救い上げてやることもしない……。
 そのために、“サガ”に抗するだけ覚悟も自信もなかった。
「度し難い、卑怯者だな」
 自嘲してみたところで、何も変わらない。だから、生涯、自分には安寧の時はない。

 では、アイオリアは──いや、もし、彼がそんな真実とやらの一欠片でも知れば、どうするだろうか。
 任務に際しては、どれほどに過酷で難しいものであっても、冷静に対処するが、内面には猛々しき獅子の如き烈しさを秘めている。一度、激すれば、止まることはないのではないか、と危惧するほどに……。
 何にせよ、彼が“真実”を知る時が訪れるならば、それは暗雲に閉じ込められたような停滞した状況が動き出す時に違いない。

 いつか……いつか、全てが明らかにされる時至れれば、彼の境遇は劇的に変わるだろう。真の英雄の弟として……。
 いや、それでも、彼が逆賊の弟なる呪縛に鞭打たれた時がなかったことになるわけではない。その心が受けた傷が癒されることも永遠にあるまい。

 いつか……いつの日か、全ては行方知れずとなった女神如何か。
 生きているのなら──いや、アイオロスが如何なる手段を以てしても、女神を逃がしおせたことは疑いないとシュラは信じているが、生きているなら、いつかは女神としての運命を知り、聖域に戻ってくるはずだ。
「その時、俺たちの罪も、問われるのか」
 全てを暴かれる時は、この苦悩から解き放たれる時でもあろう。
 シュラは女神によって、断罪される瞬間をある意味では待ち焦がれていた。
「そして、お前の手で……。それもいいか」
 訪れるかどうかも判ぜぬ、そんな“未来”を夢見る時、ほんの僅かだが、心の澱が薄らぐような気がした。

 吐き出す溜息は、どこまでも重かった。疲れを覚え、シュラも焚火の傍らに転がる。
 そのまま夜天《そら》を見上げれば、煌く星々が数を増している。
「連絡は、もう少し先で、いいか……」
 そして、焚火の向こうに横たわるアイオリアを見遣る。揺らめく炎に遮られ、表情は見えない。だが、安定が取り戻されつつある小宇宙は──感じることができた。
 夜天に目を戻し、そうして、瞑目した。

後少し…、少しだけでいい
ほんの僅かな時間でいいから、安らぎの時を──……
彼にも、己にも……
少しだけ……



 兄弟話で、純粋なシリアス物を★ 今までが兄馬鹿過ぎたから、せめてもの目標は、格好好いロス兄を! でも、我ながら、ギャップが……。しかも、直接的ではなく、仇を交えて──という辺りが輝らしい?
 しかし、オリ設定バリバリなので、シュラが何だか、予想以上に『軟弱』になってしまったかな? いや、でも、年齢からすると、このくらいで丁度いいんじゃないかと思うんだけど、さぁ、どんなもんでしょう。
 肝心の物語について──『何故、アイオロスは逃げたのか?』 つーか『偽教皇の仮面引っぺがせば良いんじゃない?』 とは昔々の、お子様な輝の純粋な疑問で☆
 そーじゃなくて、そうできなかった理由が多分あったはず──とか思うようにもなって、輝なりに捻り出してみました。説得力は……どーだろう?
 伝説の魔獣退治の下りはちょい『エピソードG』チック♪ キマイラ『ライオンと人間の頭』と輝は思い込んでいたんだけど、念のために調べてみたら、『ライオンと雌山羊(黒山羊)+毒蛇の尾』だったので、笑ってしまった^^; ハマりすぎだよ。
 因みに、密かにこの話の直後が、お題13『星に願いを』だったりします。

2007.03.27.

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