螺 鈿


 海は凪いでいた。まるで、何事もなかったかのように静かだった。
 雲一つない蒼穹《そら》と波一つ立たない滄海《うみ》の境界──水平線は霞み、朧げで、世界の在り様すらが曖昧に映る。
 その蒼一色の曖昧な世界に、金色の輝きが二つ佇む。異質なはずの輝きは静けさに同化するかの如く、そこに在る。
 輝きを生むのは黄金聖衣。黄金聖衣を纏うは女神の戦士。本来、唯一の輝きであるはず日輪の光を受け、空と海の象《かたち》を示す。
 曖昧な世界で、まるでアトラスの如く、世界を支えているかにも見える。
 静けさに同化しながらも、彼らは荒ぶる力をも具えているのだ。それもまた、聖衣を纏う者──聖闘士の本質なのだ。
「なぁ、アイオリア」
 口を開いたのは大きな輝ける翼を持つ聖衣を纏う者。
 呼びかけられた今一人の聖闘士が視線を返す。
「さっきの、トドメの攻撃、俺に当たってもいいと思っていたのか」
 その内容に反して、静かな静かな問いはただ、確認するためだけのもの。
 返しはなかった。ただ、より深い笑みが零れただけで……。



 海界からの応援要請。その使者は海龍《シードラゴン》のカノン。聖域に於いては双子座の銘も併せ持つ稀有なる存在だった。
「ケートスが暴れている? 海の眷属でも比較的、格の高いものではなかったか」
「あぁ。だが、メインブレドウィナを始めとした柱を破壊され、海界が混乱に陥った影響で、眷属としての属性を失ったらしい」
「では、そのケートスは既に魔物同然、と?」
 挙句に、あらゆる海域に出没しては艦船を襲うようになり、さすがに強者揃いな海の男たちも恐怖の只中に放り込まれているという。
「最早、討伐するより他にない。力を付けて、陸《おか》に上がるようにならんとも限らん」
 海の守護は海界の管轄だ。海皇《ポセイドン》の威信もある。だが、現実には聖域との戦いで受けた損害は大きく、柱も未だ、修復中だ。実際、手が回らないということだ。
「柱の修復さえ成されれば、本来の海の力も取り戻される。眷族が混乱することもなくなるだろう」
 つまり、現状では今回のケートスだけでなく、他への影響も残るということだ。女神を救うためだったとはいえ、柱を砕いたことは全ての生き物を含めた海なる存在に影を落としたことになる。
 尤も、その切っ掛けを作ったのが他ならぬ海将軍《ジェネラル》では申し開きもできないが。中には自らの守護する柱を破壊した海将軍もいたのだ。
 何にせよ、海界としては聖域に助力を請うしかなかった。聖域側にも否やはない。海に在る人々もまた、女神の懐に抱かれるべき人である。

 そうして、聖域からの援軍を得られたのは良いとしても、それが何故、よりにもよって、この二人──射手座のアイオロスと獅子座のアイオリアなのか。その点だけは兄サガの選択に不平を鳴らすカノンだった。勿論、はっきり口にはしない程度の分別はさすがに具えていたが。
 どうせ、未だに、あの兄弟を快くは思っていないカノンとの溝を埋める機会をと、考えてのことだろう。思い切り、余計なお世話だが。

 ともかく、二人の黄金聖闘士と共に、カノンはケートス討伐に向かった。
 とはいえ、相手は広大なる大海原の何処に現れるか、見当もつかないのではないか。
 当然の疑問に、カノンは事もなげに答える。
「属性を失っても、奴が海の眷属だったことに変わりはない。海皇の力には反応する」
「何かで釣るってわけか」
「何を使うのだ。海皇の三叉戟《トライデント》は……さすがに、今は海界から離すのは危険か」
 柱が完全でない海界を支えているのがトライデントだといっても過言ではない。
「正確には海皇の力ではない。類する海の力を使う」
「おい、まさか、それって」
「俺が、囮になる」
 短い答えに驚きつつも、予想はしていたのだろう。二人も反対はしなかった。
 カノンの実力は黄金聖闘士としても、兄サガに匹敵する。それはアイオロスにも並ぶということでもある。紛れもなく、筆頭黄金聖闘士の中でも有数の戦士の一人だ。

「ところで、ケートスには弱点などはないのか」
「いや、聞いたことはないな。とにかく、大物だ。少々傷を付けた程度ではビクともせんだろう」
 これまで、取り逃がしてきたのもそれ故だ。三人の極限の力を叩き付け、一気に片を付けるしかない。
「何か…、哀れな気もするがな」
 ボソリと呟いたのは意外にもアイオロスだ。
 ケートスは自ら望んで属性を捨てたのか? いや、そうではあるまい。海界と聖域の争いに巻き込まれたというべきだった。
 魔獣討伐の任を多く熟してきたアイオリアにも、そういう様々な要因で魔へと転化したモノを相手にした経験が多いのだろう。
「苦しんでいるはずだ。暴れるのは、そのためでもあるのだろう。寧ろ、その苦痛から解き放つために、一思いにトドメを刺してやるしかないよ。兄さん」
「……そうだな。殺すしか、ないか」
 呟きは海に吸い込まれるように、波の騒《ざわめ》きの狭間に消えていった。


★        ☆        ★        ☆        ★


 カノンは一心に小宇宙を高め、岩場に立つ。
「まるで、アンドロメダ姫の伝説だな」
 そも、ケートスはアンドロメダの伝説にも登場し、夜空《そら》へと星座として、上げられたのだ。
 だが、今回の生贄はうら若き乙女ではなく、男だった。ともすれば、アンドロメダも真青なほどに美しい青年ではあったが。

 攻撃的な小宇宙を一瞬でも発すれば、ケートスは寄ってはこないだろう。そのために、カノンは無防備になる。しかし、現れてくれなければ、話にならない。
 カノンを守るのは残る二人の役目だが、寸前までは小宇宙を燃やすどころか、極限まで抑えておかねばならなかった。
 アイオロスとアイオリアが選ばれたのは、瞬間的に小宇宙を高めることにかけては右に出る者がいないからでもあった。
 確執がないとはいえない二人に、見殺しにされるかもしれない──とは全く考えもしない自分をカノンは幾らか不思議にも思う。客観的に外から眺めれば、これほど、奇妙な構図もないだろうに。

 どれほど、経っただろうか。ポセイドン神に連なる清純なる海の小宇宙に惹かれ、ケートスが遂に現れた。頭は猪だが、とんでもない巨体を持つ化け鯨だ。
『ギリギリまで引き付けるぞ』
『了解』
 テレパシーで短く交わし、二人はカノンに迫るケートスを見据える。
「いくぞ、アイオリア」
 言葉では答えず、アイオリアは行動で示す。一気に小宇宙を高め、距離を詰めた。
 ケートスが強大にして、明らかに敵意を持った小宇宙の突然の出現に動揺を見せる。
 その瞬間を狙い、カノンは二つの結界を展開させた。海皇ポセイドンの結界と、外側に戦女神アテナの結界を! 神の力を発する呪具を授かってのことではあるが、海将軍にして、黄金聖闘士でもあるカノンだからこそ、成し得る役目だった。
 ケートスの動きが結果以内に封じられる。閉じ込める結界は入るのは容易く、出るのは不可能という代物。しかも、オリュンポス十二神に数えられる二神による二重結界だ。

「ライトニング・ボルト!」
 殆ど零距離まで迫ったアイオリアの渾身の一撃が炸裂する。
 一撃必殺の雷撃を腹に食らった大化け鯨の悲痛な叫びが上がる。身を捩り、長大な尾がアイオリア目掛けて、振り下ろされる。無論、アイオリアは飛び退り、空振りした尾が海面を叩き、巨大な水飛沫が上がった。
 退いたアイオリアと入れ違いに、アイオロスが出る。
「アトミック・サンダー・ボルトッ」
 アイオリアが傷付けたのと全く同じ箇所を射手座の必殺技が襲う。作戦前はケートスに同情的だったが、いざ開始されれば、もう迷うことはない。
 傷が広がり、大化け鯨は海中へと逃れようとするが、結界に阻まれ、完全に沈むこともできない。そして!!
「ライトニング・プラズマ!!」
 弾け飛ぶ無数の雷光が視界を真白に染め上げる。全てを切り裂く光の軌道はケートスに襲いかかるが、その結界の眼前にはまだアイオロスがいた。
「──アイオロス!!」
 囮の役目を終え、既に距離を取っていたカノンは思わず叫ぶ。正直、未だに煙たい存在ではあるが、昔ほどではない。況してや、その一撃を放ったのが彼の弟では!?
 兄をも巻き添えにしかねない一撃! だが、次の瞬間、黄金の翼が華麗に飛翔する。黄金聖衣の力とアイオロス自身のサイコキネシスによるものだろう。
 そればかりか、その体勢から、
「インフィニティ・ブレイクッッ」
 無数の雷光に交わり、無数の矢が乱れ飛ぶ。
 二人の黄金聖闘士の最大パワーによる攻撃は恐れられた海の魔物を切り裂き、貫き、叩き伏せた。

「カノン!」
 呼びかけは兄弟の何れからのものだったろうか。
 カノンは小宇宙を高め、動きの弱まった魔物──いや、海の拳族ケートスを見据えた。
「お前も、俺の愚かさに惑わされたものだな。許せとは言わん。だが、せめて……」
 罪があるのなら、自身が背負う!
「ギャラクシアン・エクスプロージョンッッ!!」
 異次元に飛ばすのではなく、一思いに──鱗衣《スケール》を着けていても、その技は聖闘士としてのものだった。それもまた、カノンの覚悟の在り様だ。
 銀河をも砕くほどの膨大なエネルギーが小さな結果以内で炸裂したのだから、如何に神の力による結界といえども堪らない。中にいたケートスを消滅させ、弾け、吹き飛んだ。
 但し、結界のお陰で、海水を延々と伝播するはずだったエネルギーは弱められ、高波も直ぐに消滅した。
 そして、海は静けさを取り戻した。


「やれやれ。終わったな」
「後始末をしないとな」
 援軍に借り出された二人を暫し凝と見つめたが、カノンは全く別のことを口にした。
「後始末は俺がやる。お前たちはもう、聖域に帰ってくれて、構わんぞ」
「しかし、そういうわけには」
 生真面目なアイオリアが抗議しかけるが、アイオロスが止める。
「元々、海界《こちら》だけで、処理すべきことだった。だが、助かった。……御助力に感謝する。後で、聖域にも出向く故、そうお伝えして頂きたい」
 最後は態度と口調を改め、頭まで下げると、アイオリアも納得するよりなかったらしい。苦笑した兄のアイオロスがその肩をポンポンと叩いているのを目の端に捉えるが……。
「了解した。間違いなく、伝えておく。ではな、カノン。あんまし、肩に力入れすぎるなよ」
 そうして、二人の黄金聖闘士はその場から消えた。
 二人を見送ったカノンは静かに波立つ海に目を遣った。
「……どこが、最良最高の連携だって?」
 その呟きもまた、波の合間に呑まれていった。


★        ☆        ★        ☆        ★


 まるで、何事もなかったかのように凪いだ大滄海……。
 蒼一色の中、金色の煌きが飛翔する。

「なぁ、アイオリア。さっきの、トドメの攻撃、俺に当たってもいいと思っていたのか」
 返事はなかった。ただ、笑い返されただけで……。
「ったく」
「当たらなかっただろう。ちゃんと、躱したじゃないか」
「そりゃま、そうだが。じゃあ、お前は俺が避けると信じていたというのか」
「さぁ? ただ、避けられなかったとしたら、兄さんもその程度の聖闘士だったってことじゃないかな」
 酷くあっさりと、恐ろしく挑戦的なことを言い放つ弟に、だが、アイオロスは怒らなかった。
 あのギリギリの緊張感──戦いより、弟から向けられる様々な感情そのものだ。ただただ、ひたすらに、その一欠片すら、余すことなく、自分のものだと……。
「確かに、その通りだ」
 こちらも受けて立つとばかりの笑顔で返すと、弟の笑みもまた更に深まった。

 曖昧な世界に迸る黄金の輝きは、揃って、加速した。まるで、競うように……。



 後日、カノンは聖域を訪れた。海将軍筆頭の海龍として、過日の応援への謝辞と結果報告に来たのだ。
 勿論、射手座獅子座の二人からの報告書も上がってはいるが、海界の報告もまた、聖域にとっては看過できない重要なものだ。
「ところで、あの二人との共同作戦はどうだった」
「あの二人? あぁ、アイオロスとアイオリアか」
 言うまでもないことだったが、少しだけ、考える時間が欲しかった。
 この兄は、本気で信じているのだろう。あの二人を理想の兄弟だと。そして、昔も今も、羨んでいる……。
「彼らのコンビネーションは黄金聖闘士《われら》の中でも、最高と誇れるものだ。彼らと組んでみて、少しは思うところはなかったか」
「どこがだ」
「何?」
 つい、口を突いて出た言葉にサガが眉を顰めるが、
「いや、確かに不安はなかった。しかし、もうゴメンだな。連中と組むのは」
「おい、カノン?」
 それ以上は答えず、カノンは退出を求めた。
 未だ、踏み込めないサガもそれ以上は尋ねようとはしなかった。


 射手座のアイオロスと獅子座のアイオリア。
 共に黄金の星を担った黄金の兄弟。誰もが憧れ、尊敬し、羨望する理想の兄弟。
 最高最良の連携を誇る最強の戦士たち……。

 確かに、あのアイオリアのトドメの一撃はギリギリのタイミングを計っての攻撃に見えた。一見は、だが。
「違うだろう。あれは」
 一見は──だが、アイオリアは頓着していなかったのではないか? 仮に兄も巻き添えにしたとしても構わない、それほどに迷いのない一撃だった。
 カノンにはそう思えて、ならなかった。

「やぁ、カノン。もう帰るのか」
「先日の報告か。海界と聖域を行き来せねばならないとは大変だな」
 人馬宮と獅子宮で、夫々の守護者とも二言三言は言葉を交わしたが、それだけだ。
 別にこの兄弟の仲が本当はどんなものであっても、俺には関係ない……。
 そうではないか。今更、彼ら兄弟に惑わされて、どうする。
 やるべきことは幾らでもある。
 聖域でも海界でも、女神や海皇に対しても。
 何れの同胞に、世の全ての人々に対しても──……!

 だから、カノンは何も聞かず、前を向いて、歩き去った。

前振り



 『兄弟聖闘士祭2008』さまへの投稿参加作品です。久々、つーか、一年ぶりの黒っぽい話。去年の『兄弟聖闘士祭』での黒っぽ兄弟話の続き、みたいな感じになりました。
 といいつつ、視点はカノンなんですが、カノンは気付いてしまったよ、という感じで、他は皆、騙されている!? のかもしれない。勿論、このロスリア兄弟は実は『お互い以外はどうでもいい』スタンスなので、騙しているつもりは更々ないんですがね。
 他人が勝手にどう受け止めようと、それは他人の感覚であって、一々訂正したりする必要も感じないということです。
 一度限りと思っていたのに、何やら降臨したらしい、この設定。また続くかどうかは、神のみぞ知る??
 タイトルの『螺鈿』は前作『螺旋』を受けてのこと。意味は全く関係ないですけどね。
 『螺鈿』は『貝殻の真珠光部分を使った細工物』で、キラキラと綺麗。その輝きと兄弟の必殺技が交わって、乱れ飛ぶ様を掛けた感じ、かな。説明しなきゃ、解らないような代物だなぁ。
 そうそう、兄ちゃんの必殺技はアニメ&エピGのオリジナル。原作じゃ、何も使ってないものね。黄金の矢以外は☆←ある意味、最強?
 因みに空に上ったケートスが『鯨座』ですが、鯨と訳されたものの、ケートスは元々はドラゴンの一種らしいです。なので、絵画調星座だと、まるで鯨には見えなかったりする^^;

2008.12.15.

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