翼舞う奇蹟


 女神の帰還──金色の翼が地上に舞い降りた日を祝福するため、日本から戻ってきた。無論、青銅聖闘士の少年たちもお供している。
「アテナ、お戻りなさいませ。星矢たちも元気そうだな」
 アテナ神殿目指し、十二宮を登る道筋の丁度、中腹辺りの獅子宮の守護者に常と変わらぬ穏やかさで迎えられたが、女神沙織も青銅の少年たちも絶句していた。
 慌てて、問い質したのは無論、星矢だ。
「ど、どーしたんだよ、アイオリア。ボロボロじゃん」
 何があったのか、あちこちに傷を作り、絆創膏と包帯塗れで笑っているアイオリアだが、獅子座の銘を持つ彼をそんな有様にできる者など、限られているだろう。
「あぁ、一寸、兄さんとな。さすがにヒーリングが追いつかなくてな」
「だ、大丈夫なのですか」
「務めに障りはありません。アテナ、お気遣いなく……」
 進んで、ヒーリングをしようとした沙織をやんわりと拒み、何でもないように言うのはさすがに黄金聖闘士だが──しかし、その黄金聖闘士たる獅子座のアイオリアがここまで傷だらけになるというのは尋常ではない。兄さん──つまり、アイオロスとどうのと言っていたが。
「何だよ、アイオリア。兄弟喧嘩か? 情けないなぁ、そんなボロボロにされるなんて」
「そういうことは兄さんに会ってから、言ってくれ」
 日頃、大言壮語とは無縁のアイオリアの自信ありげな言い様に、一同は好奇心を刺激される。

 その見送りを受け、心配する沙織を含め、とりあえず、アテナ神殿へ向かう。その途中、人馬宮でアイオロスに会えば、真相も判るだろうと思われたが、生憎と守護者は不在。教皇宮に出仕しているのだろう。
 人馬宮を抜ければ、次は磨羯宮だ。その守護者、山羊座のシュラは静かな面持ちで主たる女神一行に応じる。そして、彼も教皇宮に上がるというので、同道することになる。
「ところで、シュラ。アイオリアだが」
「あぁ、あれか。アイオロスと一戦交えたのだ」
「一戦て…、兄弟喧嘩じゃなかったのか」
 本当に信じていたのか、驚いた顔で尋ねる星矢にシュラは苦笑した。
「まさか。手合わせだ。それも、単なる訓練ではない、真剣勝負だった。勿論、聖衣は着けなかったが」
「えーっ!? で、あれ? ボッコボコにやられたみたいだけど」
「星矢をズタボロにしたアイオリアでも、アイオロスには敵わないんですかね」
「瞬! 俺を引き合いに出すなよ」
 『十二宮の戦い』の折の獅子宮での顛末はともかく、今回のアイオロスとアイオリアの対戦はシュラもその目で見届けていた。
「いや、好い勝負だったぞ」
 シュラの記憶は数日を溯っていた。



 女神の力及ぶ聖域でも、すっかり秋は深まり、冬を思わせるような日も増えた。殊に早朝は冷え込むようになってきたが、獅子座のアイオリアが朝の鍛錬を休むことはなかった。聖域中を廻り、ランニングで体を温め、独り黙々と、柔軟運動を熟す。それだけは聖戦以前より変わることのない光景だ。違うところがあるとすれば、隠れるように行わなくなったということと、帰る先が獅子宮になったということか。
 白羊宮へと上がる階段口で、そんな彼に声をかけた者がいた。振り返れば、朝陽を弾く金色の煌きが近付いてくる。
「シュラ、今、帰りか」
「あぁ。お前はランニングの帰りか。よく続くな」
「今日は教皇宮で執務がある。朝の内に、体を動かしておかないとな」
 一日に、ある程度は動いていないと、落ち着かなくなると──休みの日ですら、アイオリアの朝が早い所以だ。
 この階段もいつもなら、最後の走り込みで駆け上がっていくのだろうが、今日はシュラと一緒に歩いている。
 以前の二人の関係からすれば、考えられないことだと漠然と思う。
 聖戦を経て、聖域も彼らも、本当に変わった。聖域の中心にあるべき、女神という輝ける存在を抱いたことで、闇をも包む眩さによって……。

 といっても、その十三年も完全になかったことにできるわけではない。その長さと深さ故に、彼ら自身が切り捨てることを望まぬためでもある。
 殊にシュラとアイオリアの関係では間にアイオロスを入れると、深刻かつ複雑にならざるを得ない。 死しても尚、女神のために尽力し、二度までもその命を散らしたのを見届けたアイオリアにも最早、隔意などはないが、それだけに、どう接し、向き合ったらいいのか、量りかねている状態ではある。
 それをシュラも知っている。こればかりは時間をかけて、埋めていくしかない距離だとも思っている。だが、いつもなら、先に走っていってしまいそうなものを歩調を合わせながら、溜息などつかれたら、気になるではないか。まだまだ嘆息するほど、気まずいのだろうか。
 などと、内心ではシュラも葛藤する疑問に溺れながら、平静を装い、尋ねてみる。
「どうかしたか」
「いや…、兄さんがな」
 正直、自分といるせいではないと安堵するが、アイオロスがまた何か、しでかしたのか。また、とか連想する辺り、日頃の行いが分かるというものだ。
「この前、内輪でミロの祝いをやっただろう」
「あぁ。とても喜んでいたな」
 暫くは天蠍宮を通る度に、幸せそうな小宇宙に満たされているのを感じたものだ。無論、今でも当のミロは元気一杯だ。よほど、嬉しかったのだろう。
「で、その切っ掛けが俺…、ということになるのだが、お陰で兄さんが異様に盛り上がっていて……」
 つまり、最愛の弟が世話になった幼馴染に細やかなお返しをしたのだから、当然! 次は『この兄のためにも何かイベントを考えてくれるだろう!!』とか決め付けて、大盛り上がり中☆ ということか^^;
 ミロの祝いの後、任務に出ていて、会ってはいないが、兄馬鹿兄ちゃんの浮かれる様が目に見えるようだ;;; もし、何もなかったら──生きながらにして、氷地獄《コキュートス》の分厚い氷まで砕いて、埋没しそうなほどに落ち込むこと請け合い★

「…………考えて、ないのか」
「それは勿論、考えてるさ。考えてはいるが…、そう独創的なことを俺が思いつけるわけもないだろう」
 ミロの祝いは殆どムウが仕切っていたし、と溜息混じりに呟く。今日も執務に上がれば、アイオロスと顔を合わせる。今から、楽しみにしていて、満面笑顔で浮かれまくりながら、その日のために、全力全開で、きっちり仕事を片付けようとしているアイオロスの姿がそのままプレッシャーともなる。それが溜息の原因か。
 シュラは何ともいえない表情で苦笑した。
「お前が用意したものなら、何だって、喜ぶだろうし……。そう悩まなくてもいいと思うが」
「でも、どうせなら、兄さんを驚かせて、喜ばせたい」
 日頃、度を越した兄の愛情表現に辟易しているくせに、結局はアイオリアもブラコンだ。そーんな可愛いことを実は考えたりしているものだから、あの弟一直線兄ちゃんも暴走するのかもしれない。

 既に巨蟹宮が上に見え始めていた。思えば、こんなにも穏やかに並んで歩くなど、ほんの一年前までは思いもよらなかったことだ。
 それはアイオロスが溶け込んでいる聖域の光景も又然り、何より、射手座獅子座の兄弟が揃っている姿などに──嘗て、厳しい稽古を付けながら、唯一の弟を大事に可愛がってもいた兄と、必死に小さな体で兄の教えに食らいつき、それ以外では纏わりついてもいた弟がいた。
 その兄が誅され、永遠に失われてしまったはず未来……黄金の兄弟が並び立つ眩いばかりの姿こそ、あるべき未来が具現化された光景だ。
 正しく、一度は失われたはずの、平和な世の象徴にすら思われた。
 自らの手で葬り去ったはずの光景を目にできることは女神の許しにも等しく、それを護るためにも、蘇りを得た命を懸けてもよいとさえ、決意する。
 そうだ。彼らが、アイオロスとアイオリアが、そこにいるというだけで……。
 そして、多分、それは彼らも同じはずだ。

「俺は…、お前がアイオロスの傍らにいるということにこそ、意味があると思う。アイオロスが何より喜ぶのは、その…、上手く言えないが」
「俺が、兄さんの側にいる、か」
「うむ。お前たち二人が並び立つ姿を、聖域の誰もが眩しく見ているはずだ」
「並び…、立つ?」
 そこで、アイオリアは何やら考え込み始めた。
「どうした」
「いや。有難う、シュラ。少しばかり、思いついたことがある」
 アイオリアの全開の笑みなど、狼狽えるほどに珍しい。
「そ、そうか。それは良かった」
「ところで、兄さんの誕生日を終えたら、今度はシュラの番だな」
「あぁ、まぁ、そうだが」
「ワインでも贈るよ」
 思わぬ申し出に、反応にも困る。
「──い、いや、別に気にしにしなくてもいいんだぞ」
「シュラこそ、遠慮するな。ミロの時に良いワインを揃えている店を見付けたんだ」
「それなら、楽しみにしておこう」
 そうこうしている内に、獅子宮に辿り着く。獅子宮に入るアイオリアと別れ、シュラは更に上を目指す。
 アイオリアがアイオロスの誕生日を祝うために何を思い付いたのか、結局、聞きそびれたが、彼が兄のためにすることなら、その兄が大喜びすることは疑いないだろう。
 というか、そうでないと困る。アイオロスが満足しなければ、後でアイオリアからワインなぞ、プレゼントに貰ったら──嫉妬の炎が燃え上がることもまた確実。それだけは御免蒙りたかった。


☆        ★        ☆        ★        ☆


 その日の執務の合間、
「兄さん、一寸、話が」
「ん? 何だ、リア」
 お茶請けを摘みながら、湯飲みを啜っていた(日本派の)アイオロスは身を乗り出した。弟の話には一にも二もなく、飛びつくのは当たり前。その場にいなくても、どっからでも飛んできそうな勢いである。
「今度、手合わせしないか」
「手合わせ〜?」
 何を期待していたのか──十中八九、誕生日絡みの想像に違いないが、鍛錬好きな弟の誘いに、肩透かしを食らいながらも、嬉しいことには違いない。
「そうだな。最近、機会がなかったからな。よし、久しぶりに稽古を付けてやろう」
「いや、そうじゃなくて……。本気の、真剣勝負をしたいんだ」
「何?」
 思わぬ言葉に弟を見返す。それこそ、真剣そのものの真面目な表情──元より、冗談を言うような弟ではない。
「真剣勝負ねぇ…。ま、いいだろう。お前がどれほど、腕を上げたか、見せて貰おうか」
「余裕だな、兄さん。そりゃ、簡単に勝てるとは思わないが、あっさり負ける気は全然しないよ。……射手座のアイオロス」
 ズズーッと残りのお茶を啜りながら、それはそうだろう、と内心では思う。
 アイオリアの戦歴は尋常なものではない。あの十三年、魔獣討伐に始まり、危険かつ困難な単独任務を熟してきたのだ。そして、聖戦も──嘆きの壁まで、落命することなく戦い続けた黄金聖闘士の一人……。
 アイオロスもあの日まで、任務に出ることはあったし、危険な目に遭ったことも一度や二度ではない。だが、アイオリアほどではなかっただろうとは承知している。それに、聖戦とて、殆ど参戦していないに等しいのだ。
 余人は“英雄”と持て囃してくれるが、そう呼ばれる資格を持つ者は他に大勢いるだろう。無論、アイオリアもその一人だ。
 それでも、嘗ては師として鍛えた弟の成長振りをこの目で、いや、全身で感じられる機会を逃がす手もなかった。


 翌日、二人は約束通り、手合わせを行うため、聖域の外れへと向かった。アイオリアが幼い頃、アイオロスに稽古をつけられていた岩場付近だ。
「……兄さん、皆に話したのか」
「いや、俺が話したのは、サガとシュラと、後はミロだけだそ」
「…………ミロ、だな」
 溜息一つ。後ろから着いてくるのは、とりあえず、本日は任のない十二宮常駐の黄金聖闘士たちだ。
「いーじゃないか。こんな見物、中々ないんだからさ」
「だからってな、言い触らしすぎだぞ、お前は」
 何しろ彼らの背後には、他にもゾロゾロ、これでもかというほどの人間が集まってきている。非番の者だけでなく、一寸、任を抜けてきた者もいるようで、頭の痛いことだ。
「ま、そう何時間もかけなければ、いいか」
 大らかな射手座の黄金聖闘士は体を解しながら、苦笑で済ませた。今頃、教皇宮に残っているサガが苦い顔をしていることだろう。
「さぁて、準備はいいか」
「いつでも」
「それじゃ、始めようか。獅子座のアイオリア」
 無論、聖衣はない。だが、その瞬間、聖域の外れに、強大な二つの黄金の小宇宙が湧き上がった。



「で、で? 勝負はどうなったんだ。どっちが勝ったんだ」
 興奮しまくりの星矢が先を促すが、シュラの反応はどうも微妙だ。
「さて、どっちなんだろうな」
「シュラは見ていたのではなかったのか」
 代表して、紫龍が訝しげに尋ねると、シュラも頷く。
「見ていたさ。それも大変だった。辺りへの被害が大きすぎてな」
 闘技場ではなく、外れの岩場を対決の場に選んだのも被害を見越してのことだ。軽く地形が変わったし、一つ拳を振るう度に、怪我人の大量生産。さすがに死者までは出さなかったが。
「聖衣ナシでも、あの二人が本気でぶつかったんだ。当然といえば、当然だな。ともかく、見ていた黄金聖闘士《おれたち》の間でも、判定が割れるほどの名勝負だった」
「シュラはどちらが勝ったと思うのだ」
「俺か。俺は──引き分けかと」
「引き分け〜? 何だよ、それ」
「いや、俺にはそう見えたというだけのことだ」
「では、肝心の当人たちは何と言っているのだ」
 こういうことは案外、対決した当事者たちの方が判ったりするものだ。
「何も……」
「何も? 聞いても答えないということですか」
 沙織までが不思議そうに確かめる。
「ハイ、アテナ。二人は何も言いません。ただ、とても満足そうに笑うだけで……」
 恐らく、勝敗を決することが彼らの目的ではなかった。対戦を持ちかけ、兄に挑んだアイオリアも、それを受け、弟に全力で応えたアイオロスも──多分、勝ち負けなど、問題にしてはいなかったのだ。
「貴方も、嬉しそうですね」
「え…?」
「本当だ。シュラ、あんたもスゲェ嬉しそうに笑ってるぜ」
「シュラの笑顔なんて、そんなに見られないものね」
 揶揄われているのだろうか。
 だが、確かにそうかもしれない。あの二人が並び立つ姿に、誰よりも心躍らせているのは、この山羊座のシュラなのかもしれなかった。


☆        ★        ☆        ★        ☆


「アテナ、お戻りなさいませ」
 教皇宮で女神様御一行を待っていたのは教皇及び、その補佐だった。以前は一々、十二宮をも降りて、出迎えていたが、時間の無駄にもなると、沙織が止めさせ、その挨拶も教皇宮で受けることとなった。それはともかく!
「うわ、アイオロス。あんたもスゲェな」
「ハハ、これか? ヒーリングが追いつかなくてな」
 弟と同じようなことを同じような苦笑いで、答える瓜二つの兄。本当に怪我の度合いまでが同程度らしい。
「お目汚しなことで、申し訳ありません。アテナ」
 代わりに恐縮したのは無論、サガだったりする。
 沙織はシオン教皇とサガを従え、アテナ神殿へと移り、アイオロスは青銅の少年たちを『応接の間』に案内した。『教皇の間』に続く、謁見者を待たせる部屋だ。
 聖域にいる間、彼らは夫々の師の宮などに世話になるが、その前に一息とアイオロスがお茶を用意させた。聖域で、何故に緑茶が出てくるのだろう、と少年たちは首を捻ったものだが。

「一輝は元気にしているかな」
 此処にはいない者の名が出ると、その弟が首を竦めた。
「済みません、アイオロス。貴方の誕生日なのに、来ないなんて、失礼なことで」
「気にするな。強制して祝われても、嬉しいわけがないだろう。本当は祝いの言葉だけでも、十分なんだ。だが、アテナが形にすることに拘るからな」
「沙織さんて、その辺はやっぱ、お嬢様だよな」
「星矢も済まないな。明日はお前の誕生日なのに。日本で一緒に祝いたい者も多いだけろうに」
 時差を考えれば、こちらで、アイオロスの誕生日を祝っている宴の最中に、日本では十二月を迎えてしまう。
 だが、朗らかな星矢の笑顔は、まだまだ少年っぽさが抜けないが、とてつもなく明るいものだ。
「気にすんなって。今は学校優先で、俺たち、沙織さんにくっついてこなきゃ、聖域《こっち》にも中々来られないんだぜ。魔鈴さんやアイオリアにも会いたいしさ」
 黄金聖闘士たちも師匠の魔鈴も、女神護衛のお供で、日本に来ることはあるので、全く会えないわけではないが。
「それに、その日じゃなくたって、姉さんや美穂ちゃんが、ちゃんと祝ってくれるってさ。だから、俺も楽しみにしてるんだ」
「そうか…。その日でなくとも──そうだな」
 それは全くの同感だ。アイオリアとの、あの対戦もまた、その一つの形だった。

「にしても、俺も見たかったな〜。何で、俺たちが来るまで、待ってくれなかったんだよ」
「済まんな。だが、祝いの当日に主役が動けなかったりしたら、さすがに不味いだろう」
 あっさりとした答えに、目を瞬かせ、驚く一同。
「つまり、本当に動けなくなったと?」
「あぁ。二人とも、翌々日の昼頃までは枕が上がらぬ状態だった。ま、周りが動くなと煩かったのもあるんだが」
 星矢もビックリなくらいに朗らかに笑うと、唖然とされた。
 黄金聖闘士の実力は無論、小宇宙や攻撃力も飛び抜けているが、防御力の根幹となる体力や頑丈さも半端ではなかった。それが二日ほども絶対安静とは。
「それにしても、シュラの言う通りだな」
「ん? シュラが何だって」
「いや…、貴方方二人がとても満足そうだと聞いたもので」
「あぁ…、そうだな。よく見てるな、あいつ」
「誰が見ても、そんな感じだぜ。下で会ったアイオリアもな。でも、どっちが勝ったかもハッキリしないってのは兄貴の沽券に関わるんじゃね? 七つも年下の弟と引き分けってのは一寸、情けないんじゃないか」
 些か挑戦的な星矢の言い分だが、揶揄い半分だろう。アイオリアの強さは星矢も、それこそ、身を以って、知っているのだから。
 それでも、アイオロスは少しだけ表情を改めた。
「獅子座のアイオリアの戦歴は俺など、遥かに上回るものだ。実戦を熟し、強くなったあいつを、この目で見られる日がくるとは思いもしなかった」

 あの日、赤子の女神ごと、未来を城戸光政なる姿で現れた運命に託した日。女神への責は果たしたとしても、置き去りした弟は──ただただ、その毅さを信じるしかなかった。
 どのような逆境に放り込まれようとも、心折れず、立ち続けてくれることを。逆風にも立ち向かい、その宿星《ほし》を輝かせることを……!
 その願いは、見事に果たされた。否、果たしてくれた。

「獅子座のアイオリアの兄であることを、俺が、どれほど誇らしく思っているか……」
「────……」
 どこまでも真摯な表情から紡ぎ出される言葉は伝え聞く兄馬鹿兄ちゃん発言ではない。聖闘士が聖闘士として、相手を認める──その一事に尽きよう。
 だが、その兄はそこで不敵に笑った。
「尤も、次にまた戦ったら、勝つのは俺だろうがな」
 今回の対決で、戦法や僅かな癖も存分に見せて貰った。十分に攻略できるはずだ、と。
「それは、アイオリアも同じなのでは」
「確かにな。多分、あいつも同じことを言うだろう」
 今度、戦ったら、俺が勝つ──と。
 そして、相好を崩す。とことん兄馬鹿兄ちゃんである。
「アイオリアが強いなんてこと、俺はとっくに知っていたけどな」
「星矢こそ、アイオリアにボコられたもんね」
「そうそう★ 瞬、あのなぁ! そーじゃなくて、今更だって言ってんだよ」
「だが、俺にとっては今更ではないよ」
 微笑がまた少し、深まる。
「嘗て、俺はアイオリアを師として指導した。だが、中途で放り出してしまったんだ。あの時に──」
 女神を救うために、聖域を出奔したあの日、あの時。
「でも、アイオロス。それは──」
「アテナの御為…、そうだ。アイオリアもまた聖闘士。だから、俺を責めもしない。それでも、俺が師でありながら、弟子を捨てていってしまったことは紛れもない事実だ」

 それからのアイオリアの苦難の道。どこまでも続き、開けない茨の道を、傷だらけになりながらも、決して歩みを止めることはなかった。
「あいつは独りで、全て乗り切った。ミロたちの支えがあったとしてもな。それから、星矢。お前やイーグルの存在も大きかっただろう。だが、最後はいつも独りきりで……。俺がそうさせたのだと、思っていた」
 自身のこと以上にも辛そうに顔を歪めるのに、誰もが言葉を失う。今や“英雄”とも讃えられる人が、死ぬことよりも尚、幼い弟を残していくことを恐れたのだ。
 そして、失われたはずの命さえもがこの世に戻され、平和を迎えたのだと──その奇蹟に誰もが喝采し、暗黒の過去よりも光溢れる未来に目を向けようとしている中、今尚、彼は弟のために、自分を責めているのか。
 アテナの為、女神の御為──だが、他にもっと、より良い道はなかったのかと。弟ばかりか、親友や同胞をも苦しめてしまう結果が果たして、最良だったのかと。
「俺は、間違ったのかもしれん。それでも、そんな愚かな兄でも、アイオリアは許してくれる。許してくれていたんだ」
「アイオロス……」
「今回の勝負で良く解った。──まるで、俺自身と戦っているようだったよ」
 勿論、姿形が似ているというようなことではない。戦い方が──その基本は遠い昔、アイオロスが幼いアイオリアを鍛え、身につけさせたものだった。
 師を失い、“逆賊”とされても、アイオリアはその教えを忘れなかった。捨てなかった。逆に昇華させ、己のものとしていた。
 自分自身を映す鏡と戦っているようでも、それはアイオリアが十三年もの歳月《とき》と実戦で培ってきたものだ。時には予想を上回る攻撃を受け損ない、この有様だ。
 無論、それは逆にもいえることで、アイオリアも相当手傷を負った。
「俺は…、アイオリアを独りきりにしてしまったと思っていた。でも、あの十三年、その間も俺はあいつの傍にいることができたんだな。俺を見捨てずに、切り捨てずに、あいつは…ずっと──」
 目頭が熱くなるのを抑えられない。さすがに年若い少年たちの前で、涙を見せるのは憚られたが、隠すのも無理なことだ。
「駄目だなぁ。年食うと、涙脆くなって困る」
 自ら茶化すように言うと、瞬に笑われる。
「そんな年でもないじゃないですか」
「そうだよ、いいじゃん。それに、そういうトコもアイオリアとソックリだよなぁ」
 え? と星矢を見直す。そういうトコとは『涙脆い』ところか? あの弟が人前で泣くことがあったとは信じられないが。それも、弟分にも等しい星矢に見せたと? いや、逆に余程のことがあったのか。

「俺さ、あんたのいなかったアイオリアの十三年、全部を知ってるわけじゃないけど、でも、最後の六年は知ってるんだよ」
 アイオリアがどんなに強い人間か──勿論、それは聖闘士としての実力だけを示すのではない。人としての心の毅さを含めて、だ。
「アイオリアからは色んなことを教わったよ。俺にとっては魔鈴さんだけじゃなくて、アイオリアも師匠みたいなもんさ」
「アイオリアが、星矢の師匠か」
「あ、そーすると、俺はアイオロスの…、えーと、何だっけ、弟子の弟子のこと」
 氷河が「孫弟子か?」と言い添えるのに大きく頷く。
「そう、それそれ。孫弟子ってことになるんだよな」
「なるほど」
 この元気な少年が孫弟子か。それも悪くはない。何しろ、最後まで、女神を護り、神とのタイマン勝負まで成し遂げた正しく女神の聖闘士なのだ。
 自分の思いは確実に継がれたのだと──あの日の選択が今日のこの日を生んだのならば、自らを許してもいいのかもしれないとも思える。
「でさ、昔の聖域って、本ト、何でか東洋人には厳しくってさ。日本に帰りたいって思ったことも何度もあったけど、踏ん張れたのはアイオリアに教えて貰った言葉のお陰なんだ」

『唯の一つでもいい。自分の中に、確かな拠所《もの》があれば、揺らぐこともないんだ』

「アイオリアが…、そんなことを?」
「あぁ! アイオリアの確かなものは何かって聞いたけど、教えてくれなかった。人のものは人のものでしかないからって──でも、それって、アイオロスだったんだよな。きっと」
 そうだと思う。それをあの勝負でも見せて貰ったと……。
 手合わせを通して、アイオリアは見せたかったのだろう。兄と一緒《とも》に在った、あの十三年間を。そして、兄の教えの下、その兄とも並び立てるようになった聖闘士としての姿を──……。
 それは弟からの、この上なく特別な兄への贈り物に違いなかった。


「アイオリア! また暫く、世話になるぜ」
 獅子宮に飛び込み、言うなり、パンチやキックを繰り出す星矢だが、簡単にアイオリアにあしらわれる。
「ズルいよ、アイオリア。俺もアイオロスとの対戦、見たかったのに」
「仕方がないだろう。大体、人に見せるために、兄さんと戦ったわけではなのだから」
「見せたかったのはアイオロスだけなんだ?」
「……そうだな」
 弟分の少年に、あっさりと看破され、アイオリアも苦笑するよりない。
「アイオロス、スゲェ喜んでたぜ。嬉し泣きするくらいに」
「嬉し泣き? あの兄さんが泣いたのか」
「そっ。アイオリアと同じ。感激屋なんだよな」
「あのな……」
 そういえば、星矢の前で泣いたことがあった──あれも嬉し泣きには違いなかったな、とアイオリアは苦笑した。
 別に恥ずかしいことでも何でもない、と……。
 ただ、その場には女神沙織もいたことをアイオリアは失念していた。



「十二宮の戦いの前に、最初に日本の青銅聖闘士討伐に来た黄金聖闘士がアイオリアでしたわ。その時、貴方の、射手座の黄金聖衣が助けてくれたのですよ」
 行方不明になっていた射手座の黄金聖衣は己の聖衣を着けていなかった星矢の下に飛来し、その身を鎧ったのだ。
 アイオリアは、その時、星矢の背後に黄金聖衣姿の亡き兄を見たという。そして、叱責され、戒めの如き、手痛い一撃を受けたと……。
 死しても尚、やはり兄は女神のために戦い続ける聖闘士であったのだと──……。

「そうですか。そんなことが」
 星矢たちを下に送り出し、アテナ神殿に報告に向かったアイオロスだが、話が星矢たちのことに及び、また、アイオリアとの対決もあり、当時の詳しい経緯を知るに至る。
 二つの人格の戦いにより、聖域を暗黒の時代の只中に突き落した張本人としてはサガには居心地の悪い話題ではあろうが、最早、見ぬ振り聞かぬ振りをすることはない。
「覚えていないのか? お前の魂は射手座の黄金聖衣に宿り、ずっとアテナを護っていたのでは」
「まさか。そんな器用じゃないよ。それにアイオリアも…、俺の姿を見たと言うが、それは多分、アイオリア自身の心の反映だ」
「心の反映? つまり、アイオリアこそが心の奥底で、思っていたことだと」
「そうだろうな。偽アテナだと言われても、この雄大なる小宇宙を前に何も感じぬ聖闘士などいない。それでも、確かめざるを得なかったアイオリアの立場と、アテナに拳を向けることへの躊躇いが見せた幻なんだろう」
「アイオリアの、正義の心ということか。その具現化した姿が兄たるお前そのものだと」
 シオンも感じ入ったように呟いた。が、直ぐに一つ付け加える。
「まぁ、実態はこんな兄馬鹿野郎だがな」
「何を仰います、シオン様。最も近しい肉親への情愛は隣人愛へと繋がるもの。それこそが世の全ての人々を慈しむ心にも通じるもの。このアイオロス、その心を以って、アテナの御許、世界の安寧のため、誠心誠意尽くす所存──」
「解った解った。……なーんか、ウソ臭いが。単に弟大好きなだけじゃ
「ハイ? 何か仰いましたか。シオン様」
「いーや、何も」
 アイオロス相手となると、シオンの謹厳実直さまで刃毀れを生じるようだ。

「でも、アイオロス。良かったですね。アイオリアと思いっきり、戦えたのでしょう」
「ハイ。あのチビがあんなに立派な聖闘士に──お前にも感謝しなくてはな。サガ」
「なっ!? 何を言い出すのだ、お前はっ。私は──」
 サガが慌てふためくのも無理からぬことだろう。教皇を害し、女神まで手にかけようとした。護ったアイオロスを死に至らしめ、残されたアイオリアの苦難の道の要因を作った。
 彼ら兄弟に関してだけでも、償いようのない罪を重ねたと信じている。女神に許されたからといって、サガが己を許したわけではないのだ。況してや、アイオロスに感謝される謂れなどあるはずがないではないか!
「でも、サガはアイオリアを殺さなかっただろう」
「それは…、アイオリアが獅子座の黄金聖闘士だったからだ。もう一人の私も、ただ、その利用価値のためだけに」
「どんな理由だっていいさ。“サガ”はアイオリアを殺さなかった。生かしてくれた。聖闘士としても、ちゃんと使ってくれた。あいつを鍛えたのは俺だけじゃない。数々の任務を果たしたことで、強くなったんだよ。それも良く解った」
「ア、アイオロス」
「有難う、“サガ”。お前だけじゃなくて、もう一人のサガにもそう言いたいよ。できれば、ちゃんと話したかった。いや、そうするべきだったんだな。あの時」

 聖域を逃げ出し、女神を日本に向かわせたことが星矢たち青銅聖闘士の誕生に繋がり、良い結果を生んだのだとしても、聖域に残る道もまた、あったはずだと今は思う。
 サガの厳しさが自身の中の暗い部分を認めず、人格まで裂いてしまったのだとしたら──戻してやろうと努力するべきだった。親友の苦しみに気付かず、より深い嘆きに叩き落とすことにもなった。
 己が所業を悔やんだサガが更に分裂を深め、もう一人のサガが圧倒し、長く聖域に君臨することになり、結果、アイオリアも同じ時間、逆賊の係累たる身に甘んじた。
 師を失ったムウも聖域に戻ることもなく、教皇の死とサガの狂乱を知るシュラ、デスマスク、アフロディーテは、どれほど苦心したことだろう。

「光と影を表裏一体です。光だけを持つ者などいるはずがありません。人だけでなく、そう、神であってさえも」
「アテナ……」
「冥王や海皇とて、そうですわ。畏怖されるべき面と慈悲深き面を持ち合わせています。冥王ハーデスなど、意外と純情なところもあるのですよ。ペルセポネに恋焦がれて、よりによって、ゼウス大神に相談などしてしまうのですから。あの色欲大魔神…、いえいえ、あのお父様にですよ。伯父様もどっか抜けてますよねぇ」
「ア、アテナ…;;;」
 さすがに三人三様、冷や汗を流したものだが、その色欲大魔神…、いやいや、ゼウス大神の絶大なる信頼を得ている愛娘たる女神様はあっけらかんとしていた。
「サガ、己を否定することなどありません。そんな悲しいこともないでしょう。私は…、今一人の貴方が狂乱したのだとしたら、それは貴方自身が認めなかったからではないかと思います。私とて、確かに弱い小娘でしかありませんわ。貴方方聖闘士を始めとした多くの人々に支えられているのです。ですから、貴方もちゃんと、自分を見てあげて下さいね」
「アテナ…。ハ、心して!」
「そんな大袈裟ですわ」
「サガは真面目すぎるんだよなぁ。もう一人のサガも、十三年、何だかんだで聖域を取り纏めて、世界のために尽くしてきたんだもんなぁ」
「うむ。方法は少々、間違っていたがな」
 少々、間違って殺されたはずの二人もまた、やけにあっけらかんとしていて、サガを神妙にさせた。

 十一月三十日、金色の翼が地上に舞い降りた日、祝いの宴は迫っていた。

後日談・拍手篇



 今年も巡ってきたぞ〜♪ な『ロス誕2008』参加作品。主催者様、有難うございます☆
 それにしても、兄ちゃん誕だと、どうして、こう明るくなるんでしょうね。弟の方は暗いのに;;;(いや、別にアイオリアが暗いわけでは? 兄ちゃんも拍手では暗かったぞ^^;)
 兄弟対決場面は長くなりすぎるので割愛。ま、そこがメインどころでもありませんしね。寧ろ、『十三年分の凝《しこり》の清算』という感じで、自然、サガやらシュラやらとの絡みも多くなりました。
 サガについてはまだまだ、掴みきれていないところも多いので、現時点での挑戦的解釈かな。今後、また変わることもあるかもです。
 とまれ、ロス兄、誕生日おめでとう♪

2008.11.30.

トップ 小宇宙な部屋