悠遠なる絆

其の壱


パァンッッ……

澄み渡った秋の昊《そら》は蒼く高く──突き抜けた響きも、負けず劣らず、高々と渡る。
色のない風に、優雅に舞う鳥もまた、驚いたようだった。



「兄上──」
 窺うように府庫内の管理室を覗き込んだが、その主にして、敬愛する兄の姿はなかった。誰も見る者はいないが、傍目にも判るほどに肩を落とし、紅黎深《こうれいしん》は踵を返す。
 ──と、いつの間にか、背後に人が立っていたことに気付く。気配も感じさせずに、いきなり後ろを取られるようなことを、常の黎深ならば、許しはしない。『させない』ではなく、『許さない』わけだが、数少ない例外もいる。
 一瞬で、秀麗な面を破顔させる黎深を見れば、その相手が数少ない例外であると判る。
「あ、兄う──」
「これは紅官吏。何か御用ですか」
 恐ろしく他人行儀な言葉に、いつものこととはいえ、大打撃を受ける。
「……勘弁して下さい。兄上」
 いつもなら、泣いて、縋りつかんばかりになるのに、今日は少々、様子が違った。情けないほどに肩を落としている弟の姿に、紅邵可《こうしょうか》は苦笑した。
「まぁ、入りなさい、黎深。お茶でも淹れてあげよう」
 邵可の出すお茶は、味覚がまともな者なら、聞いただけで、裸足で逃げ出す苦さであると云う噂の代物で、平然と何杯でも飲めるのは弟である黎深くらいだった。尤も、黎深の場合は味覚云々ではなく、いわば『愛』の問題だったが。

 湯飲みとお茶菓子を弟の前に揃えてやりながら、
「で、鳳珠殿と喧嘩でもしたのかい」
「……何で、鳳珠の名前が出てくるんですか」
「だって、それ──」
 チョンと軽くつついた黎深の左頬が幾らか赤くなっている。殴られたというほどではない。恐らく平手で叩《はた》かれたのだろうと当たりをつける。
 この傲岸不遜な弟と真っ向からぶつかって、手まで出せる相手となると、指の二、三本で済む。その中で、真先に浮かぶのが黄鳳珠《こうほうじゅ》だった。
 いつもなら、笑顔全開になる兄の前だというのに、全くニコリともせずに、ブスッとしたまま、茶を啜っている。見上げた根性で、超絶苦い茶にも眉一つ動かさない。
 邵可は首を傾げた。顔を合わせれば、しょっちゅう喧嘩しているような二人だが、それだけに反応も解りやすい。大体、鳳珠の悪口をぶちまけて、兄に宥められ──それでも、普段は疎遠を装う兄と話ができたことに満足し、ケロッとして帰る。
 それで終わりのはずなのだが……。
〈鳳珠殿じゃ、なかったのかな〉
 他にも取っ組合いの喧嘩をするような相手もいないではないが、この態度は今までにない。今まで、喧嘩したことのない相手……だろうか?
 となると、思い当たるのは一人だけ──……。とはいえ、相当に意外な相手ではあるが。
「もしかして………、まさかー、悠舜殿?」
 恐る恐るといった風に尋ねる兄に、黎深は沈黙で応えた。いや、渋茶を一気に飲み干した★
 邵可は盛大に溜息をつき、
「……黎深、何やったんだい」
「いきなり、それですかっっ!!」
 ガンッと湯飲みを卓に叩きつける弟に、中味がなくなってて、良かったと心底、思う。
「本当に、悠舜殿なんだ」
 正しく確かに、悠舜に張り飛ばされたのだ。いわば、自分は被害者ではないか。なのに、何故、まるで責められるように詰問(当人の意識上に於いては)されなければならないのかっ。酷いっ、あんまりではないかっっ。
 ──などと、目まぐるしく高速回転する黎深の頭脳は、とことん自己中な被害妄想街道驀進中。はっきりいって、十二分に明敏な脳ミソの使い方を間違っている。

 ところが、悲しいまでに現実的な兄は冷静に一刀両断する。
「だって、そうでもなきゃ、あの悠舜殿が手を上げるなんてこと、考えられないもの」
 最愛の兄にして、弟の信用はその友人よりも低いと判明。零なら、まだしも負まで暴落しそうな勢いである。
 ドンヨリと沈み込む弟に、邵可は茶菓子を摘みながら、あっさりと続ける。
「何があったかは知らないけど、素直に謝ったら?」
「私は悪いことはしていませんっ。またぞろ、悠舜に下らない嫌がらせをする阿呆どもに、相応の報いをくれてやっただけです! なのに、何で──」
 捲くし立てた黎深は、だが、次には唇を噛みしめた。
「……何で、あいつが怒るんですか」
 いつもは穏やかに微笑んでいる悠舜の、あんなにも厳しく、そして、悲しげな表情《かお》は見たことがなかった。

 空の湯飲みにお茶を注いでやりながら、傲岸不遜な自己中人間──しかし、どこまでも不器用でもある弟に嘆息する。
〈そんなに落ち込むくらいなら、とっとと謝ればいいのに〉
 とはいえ、素直さを母親の胎内の置き忘れてきた弟である。それができないから、珍しくも落ち込んでいるのだろうが。
 入朝するまでは黎深が気にかけ、喜怒哀楽を露にするのは兄である自分絡みのことでしかなかった。黎深にとって、世界は『自分』と『兄』と『その家族』と、他はペンペン草程度の区分でしかなかったのだ。
 だが、今は少しだけ世界が広がっている。僅か数人ではあるが、初めての『友人』と呼べる存在を確かに、弟は得たのだ。

 彩雲国に於ける朝廷の人材徴用制に、国試がある。これは貴族のみならず、広く国民全体からも人材を集めるために執り行われる。
 名前の上がった黄鳳珠、鄭悠舜《ていゆうしゅん》は紅黎深とは同じ年に国試を受け、及第した同期である。三魁──上位三位までの及第者──だった彼らは正式な部署が定まるまでの進士の頃、通常の吏部試を受けずに朝廷預かりとなり、共に仕事をする機会《こと》も多かった。
 そうでなくても、その年の国試はトアル事情から荒れに荒れて、落第者続出。国試史上最低の及第者数だったものだ。
 因に誰が言い出したものか、その及第者達は『悪夢の国試組』などと呼ばれている。『悪夢』の修飾先が『国試』なのか、『国試組』なのかは──語る人によるとのことだ。

 それはともかく、兄さえいれば、他はどうでもいいという姿勢を貫く黎深が、別に同期だからとか、単に優秀だからという程度で、ペンペン草を意識したり、認めたりするはずもない。
 だが、進士時代の僅か数ヶ月間に、そんな弟が『他人』を懐近くまで入れたことには──望んでいながらも、願っていながらも、実は諦めてもいたので、かなり驚いたものだった。
 そればかりか、喧嘩した上に怒られたからと、こんなにも落ち込む姿など、誰に想像できただろうか。何しろ、黎深は冗談でも比喩でもなく、周囲にとんと関心がない。己の言動が他人にすれば、どれほどに傲慢で、許しがたいものであるかが解らない。それが他人を怒らせようと、喚かれようと、まるで動じない。
 黎深の認識は余りにも余人とは異なりすぎていた。誰にもそんな黎深を理解などできない。
 弟として生を享けた時から、見守ってきた邵可でさえ、完全に理解しているわけではなかった。それでも、この兄の存在が余りにも高みにありすぎる──稀有なる天才を、只人近くまで引き寄せているのだ。
〈そういえば、私も叱ることはあっても、怒ったことはなかったな〉
 我儘な弟だが、兄には従順だった。それでも、時には常軌を逸し、心配した邵可は諭すように叱ったものだ。大抵はそれで納得してくれたので、怒りに任せて、怒った覚えは──況してや、手を上げたことなぞ一度もなかったわけだ。
 当然、それは黎深の方も同様だ。兄以外は、それが父親でさえも、従うに値しないと見ていた。幼い頃から、弧絶した瞳をした黎深を諌められる者は邵可以外にはいなかった。
〈うわっ…。今更に、気付いたけど、もしかしなくても、殴り合いの喧嘩したのなんて、入朝してから……初めて?〉
 二〇歳そこそこでの初体験……ただし、拳の衝突;;; 何にせよ、勝手が違うのも解る気はする。案外と楽しんでいる可能性もあるが。
 ただ、今回ばかりは楽しんでもいられないだろう。
〈しかし、悠舜殿が怒るっていうのは全然、想像つかないな〉
 鄭悠舜は非常に理知的理性的な人物だ。
 黎深と鳳珠がやたらと衝突するため、その仲裁役に回る方が多い。二人より、幾らか年上でもあるので、自然と抑え役を引き受けている。勿論、穏和な性格もあるだろう。懇々と二人を説教したり、叱ったりしている。
 そして、不思議なことに、誰に何を言われようと馬耳東風な黎深が、悠舜の説教には一応は耳を傾けるのだ。(兄である邵可の言葉にはほぼ無条件で従ってしまう)
 尤も、完全に聞き入れることは殆どない。その場では納得した様子でも、少し経つと、忘れてしまうのか抑えが効かなくなるのか──似たようなことを繰り返したりもする。
 黄鳳珠の方も十分に冷静沈着なはずだが、黎深を前にすると、何やら土手が決壊するように熱くなるのだ。逆にいえば、鳳珠が黎深以外と激しい衝突をすることはない。これはもう相性の問題だろう。

〈でも、妙だな。今まで、散々黎深のお節介で、とばっちりを受けても、そのことで悠舜殿が腹を立てたことなんて、なかったはずだけど〉
 黎深は悠舜を庇っているつもりらしいが、普段、他人への気遣いには、とんと無頓着な弟のことだ。慣れない気遣いが空回りして、どちらかというと、悠舜への被害を拡大しているとしか思えないこともままある。
 ただ、黎深の為人《ひととなり》を承知の上でか、事態が悪化しようと、悠舜が黎深を責めることは決して、なかった。
 それが今回に限り、怒ったという。それも、手を上げるほどに……。
〈何だかなぁ。どうも話が食い違っているような〉
 ともかく、考えていても、進展のしようがない。多分に主観的になること疑いないが、一応、黎深に説明を求める。
「黎深、愚痴でも何でも聞いてあげるから、話してみないか」
 兄の勧めに、暫し躊躇いを見せたが、やがて黎深は重い口を開いた。

其の弐



 えー、遅ればせながらの5周年記念は『彩雲国物語』に走りました☆ すっかり、その時のハマりものに走る傾向になっている。しかも、終わってないし^^;
 一押し君は今回はまだ、名前だけで登場していません。続き、頑張ります。
 しかし、ビーンズ文庫に手を出すとは──かなり、買うのは恥ずかったりする★

2006.10.20.

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