悠遠なる絆

其の弐


 軽い衝撃に息を詰める。踏ん張りが利かないまま、体は地に投げ出された。手放さざるを得なかった杖が高い音を立てて、転がった。
 背後から数人が近付いているのには気付いていた。かなりの勢いで迫っているのには良からぬ意思が感じられた。避けるつもりがないのだと。
 とはいえ、書翰《しょかん》の束を抱えているだけで、動きを制約されてしまう。そんな己に苛立つ前に、衝突されたのだ。実は肩が触れる程度ではあったが、彼には脅威だった。
「邪魔だな」
 嘲笑い《せせらわらい》と共に短く捨て置かれる科白は慣らされたもの。それでも、確かに心を切り刻む刃の如し鋭さと冷たさを伴っていた。
 何とか、放り出さずに済んだ書翰の束を収めた袋を──何度なく放り出し、散開させれば、嫌でも学ぶ。纏めて袋に入れるようになった──抱え直し、顔を上げた時には既に相手は遥か先を歩み去っていく。その背中には見下すどころか、その存在さえも認知していない。そんな意思が読み取れた。
 鄭悠舜は息をつき、僅かに軋んだ心を調える。
〈今に始まったことではない〉
 そして、どこまでも予想の範疇だった。とはいえ、いつまで経っても、こういう嫌がらせがなくならないのにはさすがに辟易する。
 転がった杖を手に、ゆっくりと立ち上がる。そして、一歩一歩を慎重に踏みしめるように歩き出した。その歩みは遅い。
 彼の片足は不自由で、思うようには動けない。
 国試状元及第者に相応しく、仕事の手は早く確実で、ほぼ完璧と評される。欠点らしい欠点のない彼の、唯一にして最大の、欠点ともいえない欠点だった。



 少し歩いたところで、ふと歩みを止める。何やら、向こうで大きな水音がしたような……。それに、幾らか気配が騒《ざわ》めいでいる様子だ。
 そこで、苦笑する。
〈どうも、妙に過敏になっていますね〉
 再び足を進めるが、次に遮られたのは決して、悪意の主にではなかった。
「おや、黎深。お久しぶりですね」
 同期にして、数少ない友人の朝廷での顔は大抵は傲岸不遜なほどの冷笑か、今のような不機嫌そうなものだ。自分の前では後者が殆どだ。というよりは、自分が原因で不機嫌にさせることが多いような気がする。
〈あぁ、また、何かしたな……〉
 はっきりと嘆息しなかったのは努力の賜物というよりは習い性か。
 とりあえずは気付かぬ振りをして、笑いかける。
「お仕事中ではないのですか」
「ふん、大した仕事などない」
 既に所属部署では若くして、重要な職責を負う中堅であるくせに、このような放言《こと》を平気で口にするものだから、生真面目な鳳珠などとは反りが合わないのも当然か。
 尤も、だからといって、嫌い抜いているというわけでもなく、連れ立って、悠舜の元を訪れることも度々あるから、不思議だ。
「……吏部《うち》宛の書翰があるのなら、預かってやるぞ」
 やるぞ、と言う辺りがどこまでも黎深らしいが、一応、気遣ってはくれているらしい。
「有り難うございます。ですが、色々と説明しなければならないこともありますし、自分で持っていきます」
 正しく出世頭の黎深や鳳珠に比べれば、官位の階《きざはし》を昇る歩みは遅いが、それでも、単なる新米官吏時代とは違う。それなりに責任を負っており、真摯に果たさねばならない。
 そうやって、一つ一つを熟《こな》していくことでのみ、自分のような者は周囲に認めさせるしかない──そう、自らに言い聞かせているのかもしれない。

 小さく黎深が鼻を鳴らした。秀麗な面で、形の良い眉根が寄る。だが、予想はしていたのだろう。口に出したのは別のことだった。
「そろそろ、昼だ。付き合え」
 意訳──一緒に昼飯でも、どうだ……と言いたいらしい。こちらの予定を無視した、この上なく高飛車な物言いも今に始まったことではない。
 予定は勿論、腕に抱えているが、昼時間までには届け物も説明も終えられるだろう。
 大体、昼食は如何にして、兄上様と御一緒するかとの最重要課題の攻略に毎日毎日、挑んでは、毎度毎度、玉砕している黎深が他の誰かを昼食に誘うなど、青天の霹靂ものだ。時偶の例外が他ならぬ己であるのを、喜ぶべきなのだろうか。
 いや、確かに感謝にも等しい思いを抱いていると自覚する。
「お付き合いします。いつもの場所で?」
 当然だとでも言いたげに、黎深は頷いた。尊大を絵にしたような態度なのに、様になりすぎていて、苦笑するよりない。それでも、口の端に刻む笑みは常の如き冷笑ではなく、存外に優しいものだ。
 とりあえず、満足してくれた様子には悠舜の胸の裡も漣立つ。
 恐らくは孤立するだろうと思われた朝廷で、これほどに優れた者が、自分を『友人』と認めてくれるとは──それこそ、望外の幸いといわずして、何といおうか……。

 二人は立話をしていたわけではなかった。ゆっくりとだが、前へと進む。
 それにしても、と悠舜は思う。人の後ろに従うなど、考えもしないし、似合いもしない。一人、倣然と先を行ってしまうような黎深が、どうして、自分とは肩を並べてくれるのか。人よりも歩みの遅い自分などに、歩調を合わせて……。
 理由を尋いてみたいと思わないでもないが、
〈きっと、そうしたいから、としか言わないのでしょうね〉
 黎深には黎深の思いもあろうが、それを言葉となすのは──多分、無理なのだ。そして、そのような必要性も感じていないに違いない。自分のやりたいようにやるだけの傲慢さ、と殆ど全ての者に受け取られてしまうのは、それ故だろう。
 ただ、そんな子供のような傲慢さを貫き、周囲を従わせさてしまうだけの抜きん出た力を有しているのも又、事実だ。
 黎深は六部筆頭の吏部に所属しているが、何れ、その尚書の地位を担うことも確実と言われている。それも、配属以来の就任最速記録を更新するだろうとも。
 それは戸部の中堅である鳳珠も同様だ。正に彼らは同期の──いや、若手官吏全ての出世頭だった。
 そんな彼らと自分とを比べるようなことは、それだけは、しない。
 細やかな矜持か、或いは──……。

 内心はともかく、他愛のない会話を続けながら、二人は建物と建物を繋ぐ回廊が囲む庭院に差しかかる。そのような場所は多いが、ここは比較的、広く、池もあった。休息時は憩いの場となるその辺《ほとり》に、人垣ができている。
「何かあったのでしょうか」
「さぁな」
 誰がどれほどに騒ごうが、黎深が気にするはずがないが、衆人環視の中にいる者達の姿に、悠舜はゆっくりとした足取りを止めてしまった。仕方がないとばかりに、黎深も立ち止まる。
 その者達は池に落ちたらしく、全身濡鼠になっていた。
「物好きな連中だ。泳ぐような季節でもあるまい」
「……黎深」
 悠舜は呆然と、空惚ける友人を見遣る。その物好きな連中とは先刻、悠舜を転がした官吏達だった。偶然かどうかは判らぬが、見ていたのだ。あの瞬間を……。
 そして、報復したらしい。
〈あぁ、やっぱり……〉
 何かしてくれた、とは思っていたが、こういうことだったのか。
〈こんなところが、幼稚《こども》っぽい〉
 国を動かす朝廷の、六部筆頭でも要職にある官吏が何という児戯を……。
 それでも、この他人に興味を持たぬ黎深が『実兄以外の誰かのため』に何かをした、ということは貴重なのかもしれないが。無理に慰めているようで、もう一つ苦笑が零れる。

「悠舜、そんなことより、さっさと仕事を済ませろ。遅れたら、許さんからな」
「……そうですね」
 苦笑と同時に溜息が出たのは、濡鼠の一人と目が合ってしまったからだ。
〈あぁ…、こちらにくるな〉
 それこそ、とばっちりが。
 常にそうなのだ。悠舜自身は報復など、思いもよらず、だが、どういうわけか、黎深が『仕返し』をすることは多い。勿論、悠舜が頼んでいるわけではない。
 そして、この癖の強い『やられたら、百倍返し』が信条という紅家の男に意趣返しができる強者はいない。返ってくるとしたら、その要因たる悠舜へと返ってくるのが常だった。黎深が下手に手を下さねば、そんなこともないのだが……。
 濡鼠達も剣呑な顔をしていたから、気をつけた方がいいかもしれない。尤も、気をつけたからといって、逃げようもないのが悠舜の現実だった。
 そんな堂々巡りに、黎深は気付いていない。そういう意味での陰湿さは持ち合わせていないからだ。やる時は本当に遠慮も何もなく、とことん徹底的に叩きのめすが、絶対に当の本人にしか刃を向けない。
〈捻くれているようで、真直ぐなんですよね〉
 その分、一本気で、自分にとって、無意味なものは目にも入らないが。
 だからだろうか。
『とばっちりも多いから、余計な真似はしないでほしい』
 その一言を口にできないのは。
 自分が黎深にとって、無意味な存在ではないと、確認したいから……。そんな奇妙な真直ぐさを変えさせたくないから……という思いもあろうか。
〈私も案外、馬鹿ですよねぇ〉
 この場合、馬鹿とお人好しは同義である。
 その辺は、鳳珠にもやたらと指摘されるが、自覚はあった。

其の壱 其の参



 5周年記念なのに、一月以上もかかっちゃ、ダメだろう〜★ というお叱りの声が聞こえてきそうです。
 ともかく、本作品に於ける一押し君が、しっかり登場してくれました。『足が悪い、穏やか系』だなんて、どこかの誰かさんをチトばかし髣髴させますが、勿論、そればかりではありません。
 序でに特定少数にしか興味のない誰かさんも、どっかにいたなぁ。
 何にせよ、次章で、黎深悠舜に引っ叩かれる予定……です。大丈夫かなぁ。

2006.11.06.

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