悠遠なる絆
其の捌 ガタガタガタ…… 進むにつれ、貴陽を離れるにつれ、馬車が跳ね上がる頻度が多くなる。貴陽の関を出た辺りから、急激に確実に道は悪くなった。 この道を戻ってくる日はいつになるのか──そも、戻ってこられるのかどうかも定かではない。
『後を継ぐ公子のために、必ず生きて、戻ってくるように』 覇王と呼ばれた王は確かに言った。そう…、言った。全てを承知の上で、悠舜を茶州へと送り出した。そこに如何なる狙いがあるのだろうか。様々な思惑故と考えられる。 彼の王は──どこまでも自らの目指すもののためのみに動く。邪魔と思えば、全てを蹴散らし、役立つと思えば、素知らぬ顔で拾い上げる。 或いは唯一つの結末だけを求めているわけでもないのかもしれない。 悠舜個人に関してさえも──いや、悠舜なればこそか。 「なるようになれ、というところでしょうか」 茶州で、官吏としての道を貫きながら、生きるか死ぬか──どちらの結果でも構わないと考えているような気がする。 王の思惑が何にせよ、今の悠舜は負けるわけにはいかない。遠き地で死ぬわけにもいかない。負ける勝負は一度でも沢山、だと思う。 ガタン…! 大きく馬車が跳ね上がった。愈々、悪路に突入したようだ。座っているだけとはいえ、足にも響く。庇いながら、なるべく、楽な姿勢を取り、少ない荷物を身に寄せる。本当に、その身一つといって良いほどだ。 悠舜の持ち物の大多数は書の山だったが、さすがに全てを持っていけるはずもない。こんな時、良家の友人がいるのは助かるものだ。 鳳珠に『処分』を頼むと、快く「預かっておく」と言ってくれた。「きっちり保管しておくので、必ず受け取りにこい」と……。 細やかな壮行の宴となったのは、仕事場での飲み会;;;だった。どんな事態に遭遇しても大して、動じないような同期たちが、それでも、悠舜の選びし道と行く末を案じ、集まってきてくれたのだ。 彼らを得ただけでも、朝廷に来た意味はあったのだろう。そう…、信じたい。 ただ、黎深に関してだけはそれが全てとも言い切れない。
絶交など一方的に宣言されて、黙っていられる性分でもあるまいに、文句を言いつつ、「何故だ」と詰め寄ってくるかと思いきや、あの黎深が途惑ってさえいる様子だった。 暫くは遠巻きに此方を窺っていたが、茶州行きを聞いたことで、何らかの覚悟は決めてきたらしい。尤も、勢いで乗り込んできたものの、飲み食いもせずに、独り悶々と座っているだけだったが。 勿論、同期連中が相手にするはずもない。というか、宴の主賓のはずの悠舜をまともに相手しているのも鳳珠くらいなものだからして。 それでも、全く関心がないわけでもない。普段は、相手の都合などお構いなしの癖に、大魔王様には似つかわしくもなく、らしくもない遠慮?をしているのが間怠《まだる》い。 彼らには余計なお節介などする気は更々ないが、見ているだけというのも消化不良気味になる。 〈何やってんだか。いつもみたいに、とにかく言いたいことを言えばいいのによ〉 〈それができれば、ここまで拗れまい〉 〈全く、本当に馬鹿っつーか〉 〈いや、馬や鹿に失礼だ。莫迦だ、莫迦〉 好き勝手な内心の呟きのはずが、まるで心で会話しているような『悪夢の国試組』の面々★
宴は進み、用足しにと席を外していた悠舜は戻ってくると、切り出す。 「そろそろ、お開きにしませんか」 一応は職場なのだし、宴の後始末をしておかぬわけにもいかない。少しでも痕跡があれば、翌朝、色々と言われるのは悠舜なのだ。 「え〜、全然、飲み足りねェよ」 「河岸を変えて下さい。私としてはもう十分です。今日のことは忘れません。続きはいつか、戻ってきた時に」 どこまでも変わらず、穏やかに──その言葉を信じるよりなかった。そして、彼らもまた、この日の悠舜を忘れることはないだろう……。 ゆっくりと片付けを始める悠舜を鳳珠が手伝う。 その時、眠っているかのように動かなかった黎深がガバッと立ち上がった。 「何だね、いきなり」 無論、文仲など眼中にあるはずもなく、 「ゆ、悠舜…!」 「はい?」 絶交はしているものの、真っ向から名を呼ばれ、無視するほど子供でもない。手は止めずに、次を促すように、黎深の言葉を待つ。他の者も同様だ。 「そ、その…、つまり……。いや、だから〜〜」 〈えぇ〜い、間怠《まだる》っこいっっ!!〉 またもや、心の中で同時に突っ込む面々。 「す…、すっ、す〜〜」 〈す・ま・な・い、だろーがっ! そのたった一言が何故、言えん!?〉 それは紅黎深だから……。などという、どうしようもない認識はさておき、本当に口が裂けても言えないのかと、呆れるばかり。頭の一文字で閊《つっか》えている様はある意味、喜劇の様相すら漂う。 しかし、当人は大真面目なのだ。兄以外には大した興味も持たないはずの黎深が、悠舜を前に、一応はその内心を慮ろうとしては叶わず、アタフタしているわけだ。 「すぅ〜」 「黎深、もういいです。無理に言わなくても」 そんな悲壮な覚悟でもしたような顔で、無理矢理、謝られても伝わるものがあるはずもない。 邵可の言うように、余人には決して向けないはずの拘りを幾許かでも持ってくれているとはいえ、黎深自身を揺るがしかねないことなのだろう。『謝る』ということは。 また、そんな黎深を見たいとも思わない悠舜にしても、だからといって、自らが歩み寄るわけでもないのだ。 大体、茶州に行ってしまえば、目の前から姿を消せば、黎深も悠舜のことなど、あっさりと忘れてしまうかもしれないではないか。 だが、真正面から切り捨てられたと感じたらしい黎深も黙ってはいない。 「そんなことはない! 別に無理矢理など──」 実際、言えないくせに、と全員が内心で溜息をつくが、無論、お構いなしの黎深だ。 「私は、悠舜! すっ──」 それはもういいって、とさすがに三人が突っ込みを入れかけた瞬間、 「す…っ、好きだぞ! 悠舜!!」 ……居合わせたのが同期の面子だけで幸いだったろう。でなければ、下手をすれば、廃人に追いやられていたかもしれない。 何せ、心臓に毛が生えているような強者揃いでも、確かに数瞬は固まったほどなのだから! 次の瞬間、悠舜はコロコロと笑い出し、怒髪天を衝く鳳珠が秀麗な顔を怒りに染める。 「この大莫迦者がっ! 言うに事欠いて、何とふざけた科白を……!!」 「一々、五月蝿い! 君が口を出すことかっ」 負けじと、というより、何故、莫迦呼ばわりされたのか理解できず、黎深も吼えるが、衝撃覚めやらぬ残る二人は苦笑雑じりでヒソヒソと、 「つか、んなの今更、宣言せんでも、皆、知ってるよな」 「しかし、改めて口にされると、意外と新鮮だな」 新鮮? 笑い話にしかならないが、当人にとっては心臓に悪すぎる『告白』だろうに、悠舜に限ってはツボに嵌まったように、まだ笑っている。 「悠舜、笑うところか」 「そうだ! 私は真面目だ」 「だから、笑えるんですよ」 それこそ、迷惑だとか怒りだとかも失せるほどに。これでは、皇毅に呆れられるのも当然だろう。 「……真面目な話と言うのなら、私如きと絶交したところで、痛痒を覚えることもないでしょうに」 「私のことをお前が決めるな」 幾らか本調子に戻ったらしい。その傲岸な物言いに、鳳珠が更に噴き上がる。 「貴様! 何という言い草だっ。少しは相手の気持ちを酌《く》もうという気にならんのか」 気を放ちそうなほどに怒り心頭に達している鳳珠だが、悠舜は静かに止めた。 「鳳珠、貴方が怒ることはありません。今に始まったことではないでしょう」 何気ない物言いだが、その意味するところは中々にきつい。 さすがに黎深も顔を顰《しか》めた。いつも、何をしても、結局は笑って、許してくれていた悠舜に慣れすぎているのだ。それほど、彼が怒っているということなのかと思えば、またまた意気消沈する。 自分は他者の気持ちを酌まない──酌めないのに、相手には無条件で求めようというのは幾ら何でも、虫が良すぎる。その程度は如何な黎深でも解ってはいるのだろう。 黙ってしまった黎深に、悠舜は向き合う。 結局のところ、黎深との友人関係がここで終わったとしても、仕方がないとも思っていた。続くか続かないか──それは黎深次第なのだ。自らが現状維持のために必死になることはない。 そして、それは黎深に限ったことではなく、貴重ともいえる、この同期の友人たちでさえ──この執着のなさだけは自分でもどうしようもない。自分に拘りを見せる黎深や鳳珠たちとは正に対極だった。 彼らが何故、何も返せないような自分に、好意を持ってくれるのか。悠舜もまた、本当の意味で理解しているとは言い難いのだ。 それでも、唯一つ、明らかなこともある。それは──、 「……私も、貴方のことは好きですよ」 「──え?」 余りにサラリと口にしたものだから、黎深すらが目を真ん丸にして、返す言葉を失う。他の三人など、この日だけで、どれだけ驚かされただろうか。何とも言えない気分で、悠然としている悠舜と茫然自失中の黎深を交互に見遣った。 「それに鳳珠も、飛翔や文仲もね」 それも間違いはないのだ。確かに掛けがえのない友人と思ってはいる。 ただ、彼らとの温度差があることもまた事実なだけ……。彼らがいなくても、困ることがない。だが、それでも、夫々に対する親しみに類する感情を有するのもやはり、別のことだ。 「ですが、黎深。その言葉一つで何もかもを許してしまうほどには、私は優しくはないのですよ」 そして、優しくされたいとも願ってはいない。望んでもいないのだ。 今回の茶州行きには自分の中でも幾つかの理由はあるが、或いは彼らと距離を置こうという気もあったかもしれないと、今にして気付く。 真意を読み取った同期たちは黎深だけでなく、黙り込む。 官吏としての悠舜が何を目指し、何を為そうとしているにせよ、独りで立つことだけを選んだのだ。そうでなければ、互いに協力し、支え合えるわけがないと。 その思いは自分たちにも返ってくる。おちおち、のんびりとしていたら、とっとと置いていかれてしまう。 そのことに黎深は気付いているだろうか。 「黎深、私は茶州に赴《い》きます。止めても、無駄ですよ」 「…………そんなことは解っている。お前が私の言葉を聞いた例《ためし》がない」 我がまま放題やりたい放題、迷惑かけ通しで、随分と振り回しておきながら、この台詞。黎深には負けるとはいえ、一緒に迷惑の種だった飛翔ですらが顔を引きつらせた。 尤も、鷹揚に構える悠舜の反応からすると、二人の間に通ずる認識なのだろう。悪夢の同期とはいえ、おいそれとは共有できない認識だ。やはり、悠舜は凄い☆ 「また、こうして、お会いして、飲めるのを楽しみにしていますよ」 さり気なく付け加えられた言葉に、黎深が顔を上げた。 「ゆ、悠舜…?」 「そんな顔しないで下さい。貴方が悄然としているなんて、何かの天変地異の前触れかと怖くなりますよ」 「いや、あの──その、それじゃ、ぜ…、絶交は?」 「まぁ、貴方なりに反省はしてくれたようですからね」 どこが? と同期たちが肩を竦めるが、悠舜が納得しているのなら、口出しも無用だろう。悠舜が茶州へ去った後にまで尾を引くのも困る。 〈本当は、皇毅殿にも謝って貰えたら、言うことはないのですけど〉 自分にも『謝った』わけではないのだから、これは無理だろう。あり得ない。 それでも、茶州行きの前に、方を付けられたのには違いない。十全を望むことでもない。 だが、 「悠舜──」 「はい?」 「そのっ、わ…、悪か…った」 頭を下げるほどではないが──少しだけ俯き、言葉に躓きながらも、だが、確かに『自分が悪かった』のだという意思表示は示した。当然、数瞬ばかし一同、沈黙★ 「なっ、なぁ〜にぃ!? 俺の耳がおかしくなったかっっっ」 「黎深が…、黎深が……。錯乱したのではないか」 「あり得ん。正に空前絶後。これこそ、天変地異の前兆疑いナシ」 「喧しいわっ! 外野はだあっとれっ!!」 真赤になっているのは照れ隠しか。それなりに親しい同期たちとはいえ、他の者もいる前で──確かによもやの不意打ちだ。 〈こんな思いがけないこともあるから、切り捨てられないのかもしれませんね〉 甘いのだろうか? その答えは悠舜には出せなかった。……今は。 結局、別れの宴は明け方近くまで騒がしく、続いた。
春の除目《じもく》を以って、鄭悠舜は茶州州尹に任じられ、任地へ向かう馬車の車中に在った。 小さな荷の中に顔を覗かせる古びた箱を取り出し、蓋を開けると、箱には全くそぐわない美しい笛が収まっている。 「餞別だ」と放ったのは皇毅だった。彼の生家たる葵家伝来の二つとない一品のはず。勿論、悠舜は返そうとしたが、 「これから忙しくなるだろう。笛など吹いている場合ではないだろうからな」 「それは私も同じですよ」 「ならば、預かっていろ。帰ってきた時に返して貰う」 言うだけ言うと、いつもと変わらず「ではな」と背を向けた。他に別れや励ましの言葉の一つもないのが如何にも皇毅らしかった。
悠舜は改めて、手の中の笛を見る。これが皇毅にとって、どれほど大切なものか──残した言葉が「必ず帰ってこい」という意味であるのも明らかだった。 「……確かに、お預かりします」 そうして、改めて覚悟も決めた。 茶州行きの馬車の中、懐かしさに浸っていられるのも今の内だけだろう。 「これから、忙しくなる、か」 既に遠退きつつある貴陽に、どのような事態が待っているのか。朝廷に、何が起きるのか。民に…、如何なる火の粉が降りかかろうとしているのか。その全てが見えているわけではないが──……。 それは悠舜には関わることのできないことでもある。 彼が赴くのは茶州──既に、彼の地も戦場の如き混乱の地。残してきた人々を案じている場合でもない。 だが、悠舜は確かに『彼ら』と約束した。 数少ない、その絆の端と端を遠き彼方の地に結びつけたまま、いつの日か、手繰り寄せるために……。生きて、必ず茶州を立て直してみせよう。 悠舜は蓋を閉じ、前を向いた。暫く、貴陽を思い返すことはないだろう。 その決意は十年の歳月をもって、成し遂げられる。年若い二人の州牧の茶州赴任を契機として……。 そして、鄭悠舜は十年ぶり貴陽に帰還し、尚書令として、時の王に迎えられるのだ。 果たされた約束と為された再会──十年の歳月を越えて、切れることのなかった絆。 ただ、それも次なる未来を前に、試され続けることになる。
其の漆
《悠遠なる絆・了》
てなわけで、やっとこ完結です。意外に長くなったので、二つに分けようかとも思ったけど、それほどの文章量でもないかと思い直し、一気に完結です。いや、それにしても、時間かかりすぎ;;; どこが五周年記念作? オチの纏めはどの話でもそれなりに悩むところですが、今回はタイムリーにも『悪夢の国試』の実態が前編だけとはいえ、雑誌掲載されたので、まぁ、大変大変。なら、書き上げるまで、読まなきゃいいのに、とか言われそうだけど、やっぱ『悪夢の国試組』贔屓(でも、日頃の刑部尚書はやりすぎだと思うけど;;;)としては『遂に明らかに!?』という心境ですからね。出たと知れば、読まずにもいられなくて……。 でもって、影響されまくりで、更に大変★ できるだけ、影響は抑えようと努力したんですが──国試の頃の悠舜の、結構、いい加減というか、無気力ぶり? そっか、自分から国試を受けたわけではなかったのか……。この辺でも輝展開は幻ですね。ハハハ。 でも、国試の頃の悠舜も黎深もビックリなくらいに他人には関心がない──ただ、それを表に出すことがないだけで、皆騙されてる? てな感じですが、それも時とともに、彼らと付き合う内に、やはり黎深同様、変わっていくものだと思います。でないと「国試に通っても、任官はしない」と言っていたのに、任官したことも、十年後に、凜さんと結婚だなんてのも、あり得ないでしょう? それはともかく、後編もだけど、愈々、本編その後が心配です。胃が痛くなろうが、ここまできたら、最後まで見届けないと気が済まないっスよね。本ト、どうなるんだよTT 本姓の姫氏としての名前は別にあるとも思えるし……『鄭悠舜』は旺季辺りが付けた名前とか?(舜の字を使ってるから、自分で考えたとは思いにくいんだけど。ま、現実の古代中国の伝説的聖王の名だからといって、彩雲国とは関係がないといえば、それまでだけど。一応、作者の意図としては無関係ではないかもしれない?) さておき、長いことかかりましたが、ここまで、お付き合い下さいまして、有難うございました。本トに、お待たせしましたね^^;;;
2009.02.06. |