悠遠なる絆
其の漆 彩雲国──彩八仙の力を借り、世に跋扈する魑魅魍魎を退けた蒼玄の建てし国。 以来、その子孫たる紫氏が治めてきた。そして、今現在、王位に在るのが──……、 「鴛旬から、報せがあったか」 「はい。例の者ですが、そろそろ、使い時のようだ、と」 「フム…」 玉座の男、彩雲国の現王、紫戩華《しせんか》は暫し、考えを巡らす。 「思った以上に早かったな」 戩華の言葉に尚書令を務める霄瑤璇《しょうようせん》も頷く。 「これまで、待たされた時を思えば、何ほどのこともないがな。漸くという思いではある。茶州が鴛旬を得てから、どれほど経ったか」 報せを寄越した茶鴛旬《さえんじゅん》は茶州を治める茶家の当主でもある。ただ、分家も分家、庶流の出であるため、本家筋に近い者ほど侮る者も多い。 尤も、彼が当主の座に就いた経緯から、表面上は従っている。流血によって、当主の座を奪い取った彼を恐れるが故に──……。 それでも、既に数十年を経ているが、茶家の本質が変わったわけではない。彩七家でも家格が低く、その分、矜持が高い。王家にすら、あからさまに反抗の意を見せる。無論、茶州府の官吏などに、唯々諾々として従うはずがない。 逆に従わせようと画策し、州府の長たる州牧ですら、意に沿わぬと見れば、襲撃、暗殺するのが当たり前という実情だった。 そして、遂には茶州行きを自ら望む官吏など殆ど皆無状態、指名されるのは左遷も同然。遺言まで置いていくようになってしまったのだ。
勿論、『血の覇王』とまで畏怖《おそ》れられる戩華が意味なく、黙しているわけではなかった。 「此方からも、鴛旬の選びし者にも劣らぬ肝の据わった官吏《もの》を送らねばなりませんな」 「送る者は決まっている。あの者しかおるまい」 「御意……」 二人の脳裏には同じ顔と名が浮かんでいたことだろう。優しげな面立ちでありながら、決して暴力などには屈せぬ、毅き心根の持ち主……。 茶家にも従わぬだろう毅さと意地を具えた官吏ならば、他にも、まだ残されてはいるが、優秀な官吏が必要とされているのは茶州だけではない。また、茶州の場合、荒事は必定。送った官吏を無駄死にさせる恐れすらあり、『血の覇王』と雖も、慎重にならざるを得なかった。 さすがに「茶家の者など、片端から斬って捨てれば良かろう」とまでは言わなかったのも後々のことを考えての上だろう。でなければ、当主にして側近たる鴛旬の一門を残し、悉く抹殺くらいになりかねないのだ。 「まぁよい。潮時だ。あの者にとっても、この上ない箔付けとなろう」 王は自らの選んだ者が茶家如きの手にかかるとは露ほどにも考えていないようだった。 「尤も、最近では妙な箔がついているそうだがな」 「お耳に届いておりましたか」 「あぁ! 正に愉快痛快。あの、我儘なボンボン当主の情けなくも萎れている様を拝みに行ってやりたいほどだ」 まさか、本当に行ったとは思えぬが、戩華は意地の悪い笑みを深めた。 「この人事を知れば知ったで、あのボンボンのことだ。またぞろ、火を噴くかもしれんな。私のものを云々と、勘違い発言をカマしてくれるか。考えただけでも笑えてくる」 「笑い話で済むように、あの者に含めておきましょう」 長き混沌にある茶州を鎮めれば、下らない理由で侮り、謗る者も消えるに違いない。それは先を見た人事でもある。 「……我が公子たちの何れが後を嗣ぐにしてもな」 その次代の王を支えるべき未来の宰相を、何より、この国が得られるようにと……。
黎深が悠舜に絶交宣言されてから、既に十日ほどが経っていた。宣言は未だ撤回されておらず──つまり、黎深は謝り損ねているのだった。 無論、傲岸不遜の代名詞のような男が幾ら相手が悠舜とはいえ、あっさり、頭を下げるなどあり得ない。だが、今回は悠舜が本気で怒ったばかりか、敬愛する兄までが悠舜に同調するかのようで、府庫出入禁止を申し渡されてしまったので、さすがに直ぐに折れるだろうと思われたのだが──やはり甘かった。伊達に代名詞になっていないと呆れるべきだろうか。 『余人《だれ》がどう思おうが、知ったことか。私が法だ!』が信条のような男だ。一寸やそっとの打撃では真実、揺らぐことはないらしい。 それでも、『もういい』とは完全には吹っ切れないようで、悠舜の周囲に時折、出没しているのは変わらない。謝るどころか、話しかける勇気もないようだが。 「全く、本当に何とかと紙一重か」 紙一重どころか、正真正銘の大莫迦者としか言いようがない。 あれから、忙しさもあって、悠舜とゆっくり話もしていないのは鳳珠も同じこと。 故に、その噂を耳にしたのも突然のことだった。
──鄭悠舜、茶州に赴くと…… その日、仕事を終えるや否や、悠舜を捉まえに走るが、途中、鳳珠の方が捉まった。尤も、目的地は同じなので、困るわけでもなかったが。 「おー、鳳珠。悠舜トコ、行くのか」 既に少々、呂律の怪しい声の主など、振り向かずとも判る。だが、気配が一人ではなかったのに、足を止め、顔を向ける。此処に至る道すがら──余りにも真摯な表情で、絹糸の如き髪を靡かせながら、走り抜ける傍から、帰り支度を済ませた官吏をバタバタと薙ぎ倒した威力が初めて、不発に終わる。悪夢とまで称された国試の同期が立っていた。 「飛翔、文仲。二人揃ってとは珍しいな」 「いやぁ。悠舜のこと聞いたからよ。祝い酒とでも」 「良く言う。理由を付けて、飲みたいだけであろうが」 緊張感の欠片も感じさせない管飛翔と羌文仲《きょうぶんちゅう》に呆れる。勿論、ただの口実に違いないという意見に賛成だが、今はそれどころではない。 「お前たちは、どう聞いている」 「悠舜のことかね。茶州行きを自ら志願したと」 「おうよ! 今じゃ、あそこは地獄行きと同じだかんな。それこそ、地獄の沙汰も何とやらを地でいってるよーなトコに行きたがる奴なんて、そうそういねェしよ」 茶州行きを免れるための賄賂やらが横行してさえいるほどだ。 「嘆かわしい話だ。何のために、官吏になったのだ! 何故、そのような者が幅を利かせている…!!」 気功の達人が本気で腹を立てると、周囲が迷惑する。 「どー、どうどう。差し当たり、それは関係ねェだろう」 「それに、いつまでも彼奴《きゃつ》らの天下が続くこともあるまいよ。天網恢恢、疎にして漏らさずと言うではないか」 「聞いたことねェぞ。そんなん」 「フッフッ。異国の格言だ。覚えておきたまえ」 荒事向きの飲んだくれに見えても、国試を突破した男だ。その飛翔をして、この格言は知らなかったらしい。 とりあえず、夫々の情報を交換しながら、悠舜の元に向かう。纏めると、他の官吏の余りの弱腰振りに、自ら茶州行きを王に願い出て、認められたというのだ。 「無茶なことを」 「そうかぁ。悠舜らしいと思うぜ。なぁ」 「うむ。この上なく、な」 「だが、あの体で──」 口にしかけたものの、習慣が言葉を呑み込ませる。 足が悪くとも、悠舜は官吏としては優秀だ。それは間違いない。 だが、茶州に於いては、この貴陽や他の州とは比較にならないほどの弱みになってしまう。茶家の意に沿わない官吏は、それだけで命まで狙われるのは常套。 悠舜の不自由な足では、いざとなっても、走って逃げることさえできないのだ。 これが鳳珠やあの黎深であれば、彩七家の後ろ盾があり、手出しもできないだろうが、悠舜にはそれもない。あるのはただ、官吏としての理想と矜持のみだった……。 「王とて、そんなことは百も承知でおられよう。然るに、悠舜を茶州に送るというのであれば、何らかの算段がおありなのであろう」 「鳳珠はちーッとばかし、過保護なんだよ。あの悠舜だぞ。恐怖の大魔王すら、引っ叩けるよーな奴を、茶家に何をどーできるってんだ」 残念ながら、その武勇伝は茶州には伝わらないかと思えるが。 「そういえば、その大魔王はどうしたのだ。彼奴《あやつ》のことだ。この話も噂になる前に、掴んでいたのではないか」 文仲の予想──賭けにもならないほどに大的中だった。 「おー、悠舜。酒持ってきたぞー」 他に言いようはないのかと、溜息をつく二人を尻目に、上機嫌の飛翔は悠舜の所属する部署にズカズカと入り込んでいく。 勿論、非難の眼差しを向ける他の官吏たちだが、後に続く超絶美丈夫に、蒼くなったり赤くなったり──……。 「うわっ、来たっ」 「馬鹿ッ、目を合わせるなっ」 「逃げろー」 「荷物なんて、明日でいいっ」 などなど、蜘蛛の子を散らすように遁走し、室には悪夢の同期だけになってしまった。どうやら、本日の残業者はいないらしい。
まるで、怪物扱いに怒りで肩を震わせる鳳珠の心境を解かっているはずなのに、これまた飛翔がズケズケと言わなくてもいいことを言う。 「さすが、威力絶大だな。これで、心置きなく飲めるぜ」 「飛翔。貴方でも遠慮することなどあるのですか」 いつもと変わらぬ穏やかな口調で窘める悠舜──とても、近く修羅場にも等しい危険な任地への赴任が決まったとは思えない。 この一瞬で、止めることなどできようはずがない、と鳳珠は理解した。なればこそ、悠舜は志願し、王も認めた。或いは、その逆かもしれないが。 となると、問題は──、 「鳳珠、気付いておるか」 「あぁ。あの莫迦。終業前から、ウロウロしていたに違いない」 その内、本当に免職《クビ》になるぞ、と毒づかせたのは言うまでもない、莫迦だか阿呆だかの大魔王様だ。もう一つ嘆息し、 「悠舜…、その」 「──そうですね。折角、久々に揃ったのですから……。構いませんよ。でも、私は絶交したので、皆さんが付き合ってあげて下さい」 「冗談を言うな」 「俺は飲みに来たんだ。人の世話なんて焼いてやれるか」 「……面倒」 全員に殆ど同時に、拒絶され、大魔王様は躍り出た。 「貴様らっ! 揃いも揃って、何だその言い草はっっ」 これで、『悪夢の国試組』でも最凶とまで目された面子が揃った。 その陸 その捌
そろそろ、七周年なので、何とかその前に完結させたかった五周年記念作^^; でも、後一章は必要のようです(本当か?) 先王は、登場も少ないので、今一掴みきっていないのですが、まぁ、それなりに結び付けてみました。悠舜の背景はまだ不明だけど、当然、先王も知っていたはず。その上で、『次に玉座に座る公子のために、必ず生きて戻ってくるように』と送り出したわけですから。 尤も、既刊本を読み返してみると、更に怪しい部分なんかも発見したりもします。どっちに解釈すればいいのか迷うというか。というのも、現時点の最新刊では悠舜にまで、王の味方か否か? という疑問が生じているくらいですからね。 とにかく、次の巻が出る前に、完結させたい。 『天網恢恢、疎而不失』──老子だけんど、一応、中華風でも彩雲国とは異国ということで^^
2008.09.22. |