秘 匿

前篇


 清々しい気分だった。帝国軍に身を置くようになって、かくの如き気分を味わったのは実に久し振りだった。
 ウルリッヒ・ケスラーは今し方、別れたばかりの若者達の姿を心に思い描いた。豪奢な金髪と鮮烈な赤毛の若者達……。
〈彼らは、この帝国《くに》を変えようとしている〉
 全てを根底から覆すような何かを──これは予感などという程度のものではない。確信に等しかった。
 そう、彼の金髪の若者、ラインハルト・フォン・ミューゼルは確かにこう言ったではないか。

『歴史が門閥貴族どもの独占物でなくなる時までだ』

 そして、ケスラーが預かることとなったこの文書──グリンメルスハウゼン子爵が、その人生の全てを費やし、帝国に打ち込んだ一つの楔だ。
 貴族達のスキャンダルの集大成ともいえる、この文書を子爵は金髪の若者に委ねよと、ケスラーに託した。だが、彼の美しい若者は自らの戦いには使わないと宣言したのだ。
 そう、彼は皇帝の寵妃となった姉の力での栄達を望んでいるわけではあるまい。確かに速く速くと、軍での階梯を駆け上がっている。近く、伯爵家を継ぐらしいとの噂は真実であると、グリンメルスハウゼン子爵からは内々にだが、教えられていた。
 だが、それのみが彼の者の目指すものではあり得まい。なればこその、あの言葉なのだ。
「歴史が、門閥貴族の独占物でなくなる時、か……」
 そして、こうも言った。

『私は三年後には、現在《いま》よりもっと大きな力を得ているだろう。
その時は卿をオーディンに呼び戻し、卿の力量に相応しい地位に着いて貰う。
だから、それまで、待っていてくれぬか』

 まるで、夢物語のような話であろう。多くの者が呆れ、笑うことだろう。
 だが、ケスラーは彼の者の宣言を信じてみたかった。いや、信じさせるに足る『力』を感じたのだ。
「……三年か」
 それまでは信頼に応えねばならない。
 さしあたり、この文書を如何に管理すべきか。己もまた、彼と約したのだ。『私が可能な限りの力を尽くして、保管します』と……。
 だが、オーディンに戻れば、直ぐにでも辺境へと飛ばされかねないのだ。グリンメルスハウゼン子爵の容態は思わしくない。最早、余命幾許もなし。ケスラーの帰還と報告を迎えることはさえ、叶わぬかもしれぬ。
 せめて、葬儀の警備くらいは全うしたいものだが、それさえも難しいかもしれぬ。
 この文書にしても、辺境まで携えていくのは、なるべくならば回避したい選択だ。やはり、それは危険が大きすぎる。物が物なので、幾ら厳重な保管をしても足りないものではないが、そのような行為自体が注意を引きやすい。
 身一つで赴く辺境の新任地で、目立つ行為は望ましくない。今はまだこの文書の存在は知られてはいないが、何処から漏れるか分からないのだ。
「請け負ってはみたが、これは案外、難問だな」
 オーディンの銀行の貸金庫に預ける手もあるが、長く不在になるとなれば、何があるか分からない。それどころか、ケスラー自身が任地で、命を落とすようなことがあれば、貸金庫は開けられてしまう。
 あれやこれやで、却下せざるを得ない。全く、早々に躓きかけているではないか──いや、必ず何らかの方法があるはずだ。見つけなければならないのだ。
 オーディンに帰還するまでの数週間では正直、厳しいが、だが、ここでケスラーは思いがけない再会を果たすことになる。それはある種の運を感じさせた。

 叛乱軍によるイゼルローン要塞攻略戦は終息した。かつてないほどに肉薄され、難攻不落を謳われる要塞も小揺るぎ程度の損害を被ったのだ。
 更なる被害の拡大を防いだのは偏に二千隻程度の小艦隊の活躍にあるのは疑いない。その指揮官、ラインハルト・フォン・ミューゼル少将は「才幹を認められるかが問題だ」と言っていたが、これが功として評価されぬはずがない。中将への昇進も間違いないだろう。
「三年、か」
 彼の明言も十二分に実現させ得るものと期待したくなる。
〈……だが、その前に閣下が害されたりすることがなければよいが〉
 自然とそんな連想に至ってしまい、ケスラーは暗澹な気持ちになりつつも、己の暗い発想をこそ忌みたくなる。
 この近過去はグリンメルスハウゼン子爵に従っていたがために、より貴族社会の暗部に接し、その深淵を嫌でも覗き込まねばならないことも多かったのだ。そのような社会と任務を忌みながら、それ故に一層、口が堅くなった。元よりの性格でもあるが、己がそのような世界に接していると周囲に喧伝したいと思わなかったのだ。
 そして、その口の堅さ故にグリンメルスハウゼン子爵は、更にケスラーを重用してくれた。
 だが、その子爵も遂に俗世を去ろうとしている。もしかしたら、今この瞬間にも天上《ヴァルハラ》へと旅立っているやもしれぬ。
 そのように誰からも軽視され続けてきた子爵が、その人生の全てをかけて、密かに帝国に打ち込んだ楔──その証が今、ケスラーの手の中にある。その扱いについて、最善策をケスラーはまだ掴めずにいた。
「こうなると、信頼できる者に預けるしかないか」
 堂堂巡りをしつつも、そこに行き着き、また行き詰まる。オーディンに到着次第、直ぐに会い、この貴重かつ危険極まりない代物を預けられ、秘密も絶対に漏らさないような知己がいるだろうか。
 数人の顔を浮かべ、順次、消していく。それは信頼の深さというよりもやはり、軍人である以上、自分と同じく転任の恐れがついて回るためだ。
「やはり、あいつしかいないか」
 それでも、最後に一人だけ残った顔がある。
「だが、今、何処にいるんだ」
 そういえば、ここ一年ばかりは音信不通だ。別に珍しいことではない。互いに積極的に連絡を取ることもなく、それでも、二、三年に一度は偶然に顔を合わせ、互いの無事と近況を知り、また別れるのが常だった。
 それがオーディンでのことであれば、家に招かれたこともあった。執事夫妻が主人の友人として、気に入ってくれているようで、よく持て成してくれた。主人である彼自身がどう思っているかは謎だが……。
 そう、執事を抱える彼は曲りなりにも貴族の一員だった。だが、他の貴族とは故あって、一線も二線をも画している人物だった。
 セキュリティ万全の邸宅と確り者の執事も揃っている。万一、彼がオーディンにおらずとも、きっちり守ってくれるだろう──と思われた。些か希望的観測の気もないではないが、今はこれが最善だろうか。
 とにかく、話してみることだ。オーディン到着前に超光速通信《FTL》で、連絡くらいは取りたいところだが、軍務に関わらない私信なぞは中々、許可されまい。それ以前に傍受や盗聴の恐れは回避せねばならない。
「オーディンに着いてからが勝負だな」
 彼がオーディンに不在であれば、話を通すだけでも手も時間もかかる。巧くいかなければ、諦めて、何が何でも自らの手で守り通すだけのことだ。


 ところが、既に運は開けているのかもしれない。それも彼の若者と知り合えたためだろうか。ケスラーは現実的な男だが、この時は漠然と、そのような運命論的なことを考えたものだった。

 オーディンに帰還する艦への搭乗二時間前のことだった。イゼルローンでの最後の食事を済ませ、私室の荷物も引き上げようと席を立ったケスラーは不意に足を止めた。
 視界を掠めた何かに気を引かれたのだ。その正体を確めようと、士官食堂を見回した。視界を流れる黒と銀の軍服の群れ……。その一点に目が止まる。
 テーブルに座る背中は確かに見知ったものだ。半白の髪と少しこけた方頬……ケスラーは引き寄せられるように、その者に歩み寄った。
 イゼルローンは一つの大都市とも譬えられる巨大な要塞だ。士官食堂の数だけでも、数える気にもならぬほどに存在する。別に食事時とはいわず、今まで出会《くわ》さなかったとしても全く不思議ではなかった。
 やはり、知己であるのに間違いがなかった。その偶然に、ケスラーが忘我となった一瞬を置いて、相手が振り向いた。気配を感じたのであろうか。
 そして、立ち上がり、端正な敬礼を施した。
「ケスラー大佐。お久し振りですな」
「あ、あぁ。オーベルシュタイン中佐も」
 とりあえず、返礼し、繁々と相手の細い体を眺める。
「イゼルローン勤務になっていたのか」
「一月ほどになる」
 それではケスラーが此処にくる前から任に就いていたことになるか。
「そういう卿は、オーディンでグリンメルスハウゼン子爵閣下の下にいると聞いていたが」
「ん…。その関係で、イゼルローンにまで足を伸ばしたようなものだ。もう、今日の内に帰還する」
「慌しいことだ」
 感情に乏しい平坦な声は囁くようだ。それでも、幾分には残念がるようなニュアンスをケスラーは感じた。彼だからこそ、感じられたのかもしれない。
「仕方がない。それより、オーベルシュタイン。食事は済んだのか」
「後はコーヒーをと」
「悪いが、後にしてくれ。話がある」
「……食堂《ここ》ではできない、ということか」
 軽く眉を顰めた中佐は感情の読み取れない瞳をも眇め、数秒、ケスラーを見返したが、その要求には応じた。ケスラーが意味もなく、他人を急かしたりする人物ではないことを、彼もまた知っていたからだ。
 二人はオーベルシュタインの私室へと向かった。



 パウル・フォン・オーベルシュタイン──その名が示すように貴族に連なる者である。門地はないが、先代先々代とやり手の当主が続いたお陰で、かなり裕福な家だった。
 だからこそ、オーベルシュタインは成人し、士官学校に進むことさえできたのだ。
 感情の薄いと称される、瞬くことも殆どない両眼……彼は義眼の持ち主だった。生来の障害故に盲目であり、義眼の助けなしでは世界を見渡すことはできなかった。
 無論、この義眼の維持は相当の負担となる。支えられるだけの資産家でなければ、彼は光を失うだけだったろう。
 そして、今でこそ形骸化したとはいえ、ルドルフ大帝が定めたもうた『劣悪遺伝子排除法』の影も付きまとった。執行されることはなくなっても、生まれながらに持った障害は有形無形の人の害意をオーベルシュタインに突きつけ、彼は何よりもそれらと戦わねばならなかったのだ。
 家にいる間はまだよかった。彼は長男であったし、再び同様の障害を持った子が生まれるのではないか? その恐れをどうしても拭いきれなかった両親は彼の弟妹を成すこともなかったのだ。
 とりあえず、跡取である彼はそれなりに大事にされ、必要以上の教育も自宅で受けさせられた。盲目である以外は十二分に聡明であった彼は家庭教師を瞠目させたほどだった。
 だが、いつまでも自宅に籠るわけにもいかなかった。将来、家を嗣ぐにしても、外界を知らぬままではいかない。
 その最初の場としては、結局、幼年学校が選ばれた。初めての集団生活で、オーベルシュタインは外界と接するようになった。
 ただ、それは厳しい場となった。同年代の少年達──彼らは幼いが故に、自らとは違うものに対し、酷く敏感であり、排他的だった。そして、何よりも狂暴だった。
 幼年学校には楽しくも温かい思い出など一つもなかった。
 多勢に無勢どころではない。誰一人庇ってくれることもなく、時には体への仕打ちとなって、現れたが、ひたすらに耐えるしかなかった。暴風が過ぎ去るのを待つだけだった。
 ただ、彼らもまた、恐れていたのかもしれない。自らとは異なり、また黙って、堪《こら》えるだけのオーベルシュタインを理解できない存在《もの》として、排除したがったのかもしれない。

 そんな彼が士官学校への入学を決めたのは何故か──それは此処では語るまい。ただ、胸の内に秘した思いがあったとだけは記しておく。
 さすがに選ばれて士官になるべく教育を受ける者達の多くは自らへの自負もあってか、幼くも愚かしい暴挙に出る者は少なかった。それでも、全くの皆無ではなかったのは士官学校も貴族社会の延長のような面があったからだ。
 殊にオーベルシュタインが入学したオーディン校は帝都に存在する唯一の士官学校であり、いわば、エリート校だった。当然の如く、貴族であるが故に入学を許された者も少なくはなかったのだ。
 いや、殆どが貴族の子弟だった。門閥貴族縁の者が多く──権門であるほど、他の星系校に行く者など面目からも殆どいない──次に帝国騎士《ライヒスリッター》だ。平民などはコネのある者などが数えるほどしか存在しなかった。
 銀河帝国の領土は広大であり、数多くの星系がある。巨大な帝国軍を支えるために、士官学校も帝都オーディンだけでなく、幾つもの有人惑星を抱えた大きな星系には大抵、一つは置かれている。
 小星系や辺境区となるとないことも多いが、それらの出身者は近隣の士官学校を有する星系まで、赴くことになる。
 そして、稀ではあるが、時には止むを得ぬ事情から、休校になる星系校もあった。
 オーベルシュタインが三年次に上がった時、そんな何処《いずこ》かの星系の士官学校から候補生があちこちの星系に振り分けられた。オーディン校にも同学年では十人ばかりが編入されてきた。
 当然、門閥貴族は一人もおらず、帝国騎士よりも平民の方が多かったのはオーディンから、かなり離れた星系校だったからだろうか。お陰で平民の割合が幾らか増えたものだった。
 その中に、ウルリッヒ・ケスラーという候補生がいたのだ。

《後篇》



 ちと(大分?)遅れましたが、3万HIT☆記念作品でございます。今回は『銀英伝』にて、しかも、OVA第二期以降観賞にて、ツボに嵌まったウルリッヒ・ケスラーをメインてことで☆
 しかも、相手役には何と、あのオーベルシュタインなんぞを^^; いや、一度は扱ってみたい人ですので。
 実際、掴めているかどうかは怪しいもんですが、まぁ、チャレンジしてみました。折角の記念だしねー。
 士官学校の設定については輝オリジナルです。ただ、あんなにも巨大な軍組織を抱えるのに一校だけとは合点がいかなかったもので……同盟はどうだろか。テルヌーゼンだけ?

2006.07.31.

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