秘 匿

後篇


「それで、話とは?」
 出港まで間がないことはこの部屋までの道すがらで、既に語ってあった。椅子に座るような暇も惜しみ、テーブルに置いた鞄を示す。
「これを、預かって貰いたい」
「……中は何かと尋ねて、答えて貰えるのか」
「詳しくは言えない。私自身、ある御方からの預かり物でな」
「ある御方、か……」
 義眼が鈍く光る。そもそもの持ち主がグリンメルスハウゼン子爵であることは察しをつけられたようだ。正しく、一から十を知る、明敏さの持ち主だった。
「私はオーディンに戻れば、即座に辺境へと飛ばされるだろう。だが、これを伴うような危険は避けたいのだ」
「そこで、偶然にも私に会ったので、預けたいと? 卿にしては些か、慎重さに欠けるように思えるが」
 平坦な声に、ケスラーは手を振る。
「いや、預けられるとしたら、卿しかいないと考えていた」
 オーベルシュタインがオーディンにおらずとも、連絡さえ取れれば、その屋敷に預けられる。後は有能な執事殿が何とかしてくれるだろうと。
 物が物だけに緊張し続けていた姿勢が、ここで僅かに緩んだ。
「しかし、まさか、ここで会えるとはな。細やかな幸運というべきだな」
「卿が運命論者とは知らなかったな」
「信じてみるべき時もあるというだけのことだ。いいか。俺は一刻も早く、卿と連絡を取りたかった。オーディン到着まではその可能性はなかったはずだ。ところが、出発直前になって、卿に会った。この巨大な要塞の一角で、だ。中々、天佑という奴とは思えんか?」
「何と呼んでも構わぬが、話を先に進めるべきではないか」
 確かに、それこそ、出発時間は迫っている。
「卿の口振りでは私に、というよりは、私のオーディンの邸宅に預けたい、との趣旨に取れるが」
「セキュリティの確りした、これほど信用の置ける金庫は他にないだろう。今はこれの存在そのものを秘匿せねばならないからな」
「フム……存在までが知られては拙い代物か」
 オーベルシュタインは口を閉ざし、軽く顎に手を当て、何やら沈思の姿勢を取った。時間はないが、急かしてはならない時だと、ケスラーは経験から知っている。ただ、その反応を待つ。
 生来の障害故に、オーベルシュタインがどのような目に遭ってきたか──その全てではないにしても、ケスラーは知っていた。士官学校での、そもそもの出会いからして、その影があった。そして、それ故に、彼がどのような思いを育んできたのかも、語り合うまではいかなくとも、知り得る立場にもなった。
 だからこそ、ケスラーはこの危険極まりない代物を託す相手として、彼を望んでもいた。そこには紛うことなき信頼があった。
「オーベルシュタイン。これは、子爵閣下がその人生の全てを費やして、帝国に打ち込んだ楔の一つだと思って貰いたい」
「……だが、今は秘匿すると」
 やがて、オーベルシュタインが顔を上げた。感情の薄い義眼が、それでも、斬り込むように直視する。
「ケスラー……。一つだけ、これははっきりと教えて貰いたい。グリンメルスハウゼン子爵閣下は何方に、これを託したのだ」
 ケスラーは一瞬、言葉を、その名を呑み込んだ。これは、非常に重要な確認だった。
「卿は、何方から、これを任せられたのだ」
 ケスラーは息を詰め、その名を吐き出した。
「ラインハルト・フォン・ミューゼル少将閣下」
「ホゥ、グリューネワルト伯爵夫人の……。金髪の子孺か」
 勿論、そこには大多数の貴族が侮蔑するが如き響きはなかった。
「良かろう。確かに預かろう。封印を破らず、外部に漏らさず、時が来るまで、秘匿すればよいのだな」
「そ、そうか。いや、助かる。では、オーベルシュタイン」
「少し待て。今、ラーベナルトに一筆書く」
 超光速通信を使うわけにはいかないのは当然だ。オーベルシュタインは立ち上がり、デスクに向かった。無駄なことを好まない彼は必要なことだけを簡潔な文章で記すと、ケスラーに差し出した。
 一読するのに、30秒とかからない指示書だった。だが、助かる。
「恩に着る。オーベルシュタイン」
「いや。だが、そうだな。序でに言伝を頼まれてくれ」
「何か」
「ラーベナルト達に、私は息災にしていると伝えて貰いたい」
「…………あぁ。まぁ、解かった」
 ケスラーは溜息をつきたかったが、それは堪えた。幼い子供でもあるまいに、そんな心配をされる身も堪ったものではなかろう。
 だが、心配性の執事夫妻にとっては決して、理由のないものでもないのだ。特に彼の夫人を心安らげることに異論はない。
 とはいえ、苦笑が零れるのも仕方がない。
「しかし、卿自身の言葉は信じて貰えんのか」
 オーベルシュタインは義眼を伏せたが、それに対しては特に応えず、
「時間がないのではないか」
 慌てて、時計を見遣ると、確かに思いの他、時が経っている。
「伝言は承知した。では、オーベルシュタイン。慌しくて済まんが」
「気にすることはない」
 挙手の礼を施すオーベルシュタインに、ケスラーもきっちりと返礼する。
 久方ぶりの再会は短かった。



 数週間の旅路の果て、オーディンでケスラーを待っていたのはグリンメルスハウゼン子爵の死であった。
 彼の金髪の若者の選択を伝えることは叶わなかったが、或いは子爵は予想していたのではないかと思える。凡庸さに隠された理知的な瞳は誤らずに、彼の若者──黄金の獅子を見定めていた。
 一生を費やした成果を託しながら、使嗾するかに見せながら、その実は獅子の決意の程を確めたかったのかもしれない。
 幸いというべきか、せめてと願っていたグリンメルスハウゼン子爵の葬儀の警備はケスラーに委ねられた。葬儀とそれに連なる儀式は一日で終わるはずもなく、その合間には軍務省への出頭命令があり、予想通り転任も告げられた。
 出発は葬儀の後始末が済んだ直後の予定だった。
 グリンメルスハウゼン子爵は誰からも軽んじられていたが、それでも、皇帝フリードリヒ四世の侍従も務め、皇帝よりの悔やみの言を請けた使者が参列したため、権門の貴族達も挙って、弔問に訪れた。故に警備の担当は多忙を極めた。
 些末事であれ、何事かが起きれば、代替わりしたとはいえ、恩あるグリンメルスハウゼン子爵家に類は及ぶ。無論、たかが平民に過ぎないケスラーなどは、あっという間に処断されるだろう。
 それは黄金の獅子に委ねられた文書を危険に晒すことにもなりかねず、獅子の信頼を裏切ることにも等しい。万一に備え、一刻も早く、この危険かつ重要な代物を安全な隠し場所へと持っていきたかったが、警備責任者たるケスラーにはその時間すら与えられなかった。
 二つの理由から、恐らくは戦場に立つ時よりも、この数日間は緊張していたに違いない。
 幸いなるかな、葬儀は滞りなく進められ、さしたる問題も起きず──グリンメルスハウゼン子爵の人生は完結した。……殆ど全ての人々にとっては。

 ともかく、やっとのことで、ケスラーは自分のことに向ける時間を得た。限られた時間ではあったが。若き獅子より託された『秘密』を堅固なる『金庫』に預けに向かえたのは正に出発前夜のことだった。
 オーベルシュタインの手紙を胸に、幾度か訪れたことのある邸宅の前に立った時にはもう日が暮れていた。手紙を執事に読んで貰い、ブツを預ければ、務めは完了だ。大した手間も時間もかからない。 ……はずだったのだが;;;
「まぁまぁ、ウルリッヒ君。久し振りねぇ。元気だった?」
「は、はい。フラウもお変わりなく……」
 三十も間近になって、「ウルリッヒ君」などと呼ばれるのは、ここに来た時くらいなものだ。だが、懐かしい響きには心を過る温かみがある。既に亡き母を思い出すからだ。
 最初に出迎えてくれた執事たるラーベナルトは一度、奥に引っ込んだ。代わりに出てきたのがその夫人のエルザだ。当然の如く差し出された手に、コートを手渡す。勿論、長居をするつもりはなかったのだが──その予定は次には大いに狂うこととなる。
「遅かったな」
「………………て、何で」
 ここにいる? などと、ついつい聞くまでもないことを口にするところだった。
 軍務を終えて、帰宅すれば、ここにいるのが当然な当家の主は、しかし、ケスラーの記憶ではイゼルローン要塞にいるはずではなかったか?
 それとも、つい数週間前に彼の地で会ったのは夢か幻であったか。
 数瞬の間の後、ケスラーは盛大に嘆息した。
「もう、転任か」
「そういうことだ。戻ってみれば、まだ卿が来ていないと言うので、待っていた」
「……そうか」
 飛ばされたのか、何だかよく解からないが、相変わらず全く気にもしていない様子に、一気に脱力したケスラーだった。
「旦那様。お食事の用意はできております」
「うむ。夕食はまだなのだろう。ゆっくり話も聞きたい」
「余り、ゆっくりはできないんだがな。明日、出発なんだ」
「らしいな。ならば、尚のこと、エルザの料理を食べずに帰れるか」
 できるわけがない。よく解かっていらっしゃる。それを見越して、今夜は必ず来るはずだと、準備万端で待っていたと……。
 ケスラーはもう一つ溜息をついた。だが、それは完敗を示すものだった。

 フラウの料理の腕には一層、磨きがかかった様子だった。
「全く、毎日のように、こんな美味いモンを食っていて、何だって、そんな欠食児童のような顔をしているんだか」
 そんなケスラーの揶揄いにも、オーベルシュタインは黙って、口をナプキンで拭っていた。オーベルシュタインにしても、戻ったのは数日前のことで、エルザの料理は御無沙汰だったらしい。尤も、オーディンに長くいても、その顔色が変わることはないだろうが。
 エルザが食器を下げ、コーヒーとデザートを持ってきた。
「ウルリッヒ君。お口にあったかしら」
「はい。堪能させて頂きました」
「それにしても水臭いわ。聞けば、最近はオーディンにいたそうじゃありませんか。だったら、顔を見せてくれればいいのに」
「はぁ、申し訳ありません」
 更に明日には辺境区へ向けて、出発すると言うと、心底残念そうな顔を見せた。
「どこの星区かは話せるのかしら」
 場合によっては話せないこともあるのをエルザも学んでいた。だが、今回はそれ程、機密に触れるような人事でもなかった。
「イゼルローン回廊に近い星区です」
「まぁ。それじゃ、叛乱軍との戦闘に参加したりもするの? 危険はないの」
「ハハハ、主戦場はイゼルローン要塞の向こう側ですから。あの星区の役割は要塞への兵站にあります」
「エルザ、もう下がっていい。暫くは呼ばない限りは、顔を出さないでくれ」
 放っておくと、いつまでもお喋りを止めないだろう。久し振りにお気に入りの昔馴染みの青年と会えたのだろうから、気持ちは解からないでもないが、今回はそれを許してやる時間はなかった。
「はい、若様。承知致しました」
 何か重要な話があるのだろうと察したエルザは残念そうながらも下がっていった。
 残された二人は共にコーヒーを一口、啜り──カップをソーサーへと戻したオーベルシュタインが核心へと斬り込んできた。
「さて、ケスラー。今日は時間があるが、どこまで話して貰えるかな」
 一つ大きく息をついたケスラーは全ての経緯を包み隠さずに語った。
 信頼故に他者より託された物を更に預けるのだ。こちらも生半可な信頼ではないのだ。
 そして、その真意を信を受ける側も正確に識っていた。

「話は解った。だが、ケスラー。いつまで預かれば良いのだ」
「……閣下は、歴史が門閥貴族どもの独占物でなくなる時まで、と仰られた」
「なるほど」
 では、あの若者は、そのような時代を求めているということか。そればかりか、正に時代を引き寄せ、作り上げる意志があるということだろう。
 その時、果たして、自分はどこにいるのだろう。如何なる役割を得るのだろう。
 そこで、オーベルシュタインは密かに笑った。あの若者の野心が果たされることを信じているようではないか。更には自らが、その傍らにあって、何らかの役目を負う可能性を──。
〈望んでいるのだろうか。私は……〉
 まだ、彼の若者の真価を己が眼で認めたわけではないものを。
 ふと、ケスラーに目をやる。彼は既に彼の若者を認めたのか?
 他人の判断は他人のものでしかない。それは解っている。他人の判断に左右されることはない。それでも、無視はできない数少ない相手でもある。
 ケスラーは彼の若者の信頼を受けた。そして、己はそのケスラーの信を受け、現体制にとっては危険極まりない代物を預かった。

 この、後に『グリンメルスハウゼン文書』と呼ばれる文書を──……。

 オーベルシュタインは軽く瞑目した。少なくとも、時は満ちていない。彼の若者が辿る道筋を距離を置いて、慎重に見極める時間は十分にあるだろう。
「ところで、出発の準備は済んでいるのか」
「碌に官舎に帰る暇もなかったからな。尤も、元々、大した荷物などないさ」
 辺境任務には慣れているケスラーだ。そのためか、持物を必要以上に増やさないようにする癖がついていた。
「しかし、墓参りくらいはしたかったな」
 半分は諦め口調の僚友にかけるべき言葉はなかった。

 程なく、翌朝も早いケスラーはオーベルシュタイン邸を辞した。その際、
「ケスラー。もし、私が封印を破ったら、どうする」
 この期に及んでの、突然の問いにケスラーは瞠目した。だが、一瞬の沈黙のみで、
「卿がそうしたいと……そうすべきだと考えたのなら、構わないだろう」
「……構わない、と?」
「全ては卿に託した。そういうことだ」
 義眼を微かに眇《すが》めた僚友に、ケスラーは端正な敬礼を施し、背を向けた。
 沈黙で応えたオーベルシュタインもその背に向かって、敬礼を送った。


 『グリンメルスハウゼン文書』──『ゴールデンバウム王朝』の終焉を彩る貴族達の数々の行状は、次の世の『ローエングラム王朝』の御世に詳《つまび》らかにされ、それまでは決して、その存在が人口に膾炙《かいしゃ》することはなかった。

《了》

《前篇》



 相当に遅れた3万HIT☆記念作品完結でございます。
 ケスラーあのオーベルシュタインとで、話を書き上げるのがこんなに大変だとは!? まぁ、色々と……『鈴置さんショック』も重なったりもしましたが、とにかくラストをどう纏めるかで恐ろしく苦労しました。ラストだけで、時間食った。
 うちの(未来の)憲兵総監と軍務尚書はこんな感じの関係です。表立って、ベタベタと(爆)友人付き合いもしないけど、相応の親しみは持っているとでも言いますか……。
 それなりにその後も考えたけど、一寸、文章化する自信はないかも。正しく記念向け突発本の如きネタとゆーことで、御容赦を★

2006.10.02.

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