腕時計・外伝−EXTRA− 輝 彼は今、運命に立ち向かおうとしている 過酷であろう運命こそ、その手に掴むために……
アグラーイ邸に向かうスノーを見送ったレオン・リーフェイは運転席で息をつく。 「さて、どうするかな」 少しは様子を見なければ、何とも動きようがない。いや、自分から動く必要もないだろう。 そう思い定めたところに、コンコンと運転席のウインドゥを叩く者があった。アグラーイ邸のすぐ近くの通りに長く駐車していれば、嫌でも目につくだろうが──ガラス越しに顔を覗かせているのは予想通り、昔馴染みの男だ。ウインドゥを下ろし、軽く体を乗り出す。 「やぁ、ハンス」 「お疲れ様です。リーフェイ少佐」 「やめてくれないか。疾うに軍とはオサラバした人間だぞ」 「そうでしたね。あの、一緒に来て頂けませんか」 「また、あの御屋敷に入れってのかい。勘弁してもらいたいところだが──そうなると、君が困るんだろうね」 窺えば、本当に困ったような、申し訳なさそうな顔をしている。 「ご明察です」 「仕方がないね。まぁ、彼女にはもう一度くらいは会っておきたいからな」 肩を竦めると、レオンは車外に出る。アグラーイ家の警備担当者であるハンスに従い、その豪奢な屋敷に招き入れられた。
★ ☆ ★ ☆ ★
先刻、スノーを迎えにきた時の部屋から、更に奥まった屋敷の中枢に近いだろう辺りまで、執事の案内を受ける。余程のことがなければ、こんな奥まで、余人が足を踏み入れることは叶うまい。信頼されている、と考えてもいいのかもしれないが、レオンには関係のないことでもあった。この屋敷の主との関わりも最初で最後となるはずなのだから……。 そして、辿りついた部屋には二人の人物──一組の男女が待っていた。 レオンは目を細めた。青を基調とした美しい造りの部屋に美事に調和した一幅の絵姿の如き光景は余りに眩しかった。 ……そう、比喩ではなく、レオンの目には二人が眩い光に包まれているように見えたのだ。 その内の一人、優美な女性が立ち上がった。 「お久しぶりです。レオン・リーフェイ少佐」 「全くです。マルーシャ様にはお変わりもなく……」 真面目くさって応えると、一転、彼女は態度を変えた。 「あぁ、もう止してよ、レオン。悪かったわよ」 「いや、お互い様だね。しかし、本当に元気そうで何よりだ。クリス」 「貴方も、ね?」 どこか蓮っ葉な物言いだが、快活さが際立ち、少しもその嫋《しな》やかは損なわれない。 「お変わりなく、というのも訂正するよ。綺麗になったね」 「ヤダ、レオンったら。そんなホントのこと。嬉しいわ。もっと褒めて♪」 「ハハハ、やっぱり変わってないかな?」 二人はかつて──一年戦争当時、同じ情報局特務班に籍を置いていた。但し、同じ任務に携わったことはない。 だが、互いにある意味、特殊な能力を特務班に望まれての、似た境遇もあってか(レオンにしては)親しくしていた。それもこれも今となっては懐かしい昔話だ。 ワザとらしい咳払いが親しげに旧交を温める二人の注意を引く。今一人の美しい青年が少々、不満そうに見えなくもない表情を向けていた。 すっかり忘れていたらしいマルーシャことクリスティーヌ・ダーエはまるで、オクビにも出さず、 「レオン、紹介するまでもないでしょうけど、これが──」 「これとは何だ」 「細かいことを気にしないの」 短いやりとりに、レオンは小さく笑みをもらす。 「スヴャトスラーフ・ミハイロビッチ・アグラーイ閣下。勿論、存じ上げております。レオン・リーフェイです」 「またの名を“チャイナ・ムーン”か。私も貴方のことは知っていた。後ろ盾になりたがっている政府関係者やら資産家やら、その他大勢が山のようにいるとか」 「尾ひれがついているようですが」 「あら、よく当たるって、評判よ。地球にまで聞こえてきているくらいだもの」 「大ゲサだよ、クリス」 放っておくと、どこまでも喋りそうな勢いだ。 「……とにかく、お座り下さい。マルーシャ、茶を頼む」 「──ハァイ」 さり気なくというよりはあからさまに釘を刺されたマルーシャ、いや、クリスは少々、端なくも舌を出した。
『青の間』に芳醇な香が立ち上る。香だけでも、最高級の葉が使われているのだと、そういったものには興味の薄いレオンにでも想像がつく。 そんな葉から抽出された琥珀の液体を一口だけ啜り、スビャトスラーフは話を進める。 「貴方のことはミライからも聞いていた。シュネーヴァイスを引っぱり出すのに、協力してくれたとか」 「協力したつもりはありません。ただ、私は彼のために、それが最善だと信じただけのことですから」 「フ…、最善か? では、スヴェータのことはどうでもよかったのかな」 「そこまで、私が考える必然はありません。それに、マサキさんにとっても、最善なのだと──閣下御自身が判断されたのでしょう?」 だからこそ、ミライ・ヤシマを寄越したのではないか? 返答はなく、屋敷の主は二口ほど、紅茶を嗜む。 〈図星だわね〉 クリスは内心で苦笑する。人並外れたレオンの読みの深さもこの場合では大した助けとなるまい。『誰が考えても』その結論しか出ないのだから。 カップを置いたスビャトスラーフは案の定、話を変えた。 「それはそうと、貴方はシュネーヴァイスのことはどの程度、ご存知なのだ」 「どの程度とは」 さすがに質問の意図が掴めない。 スビャトスラーフに目で促され、クリスが用意してあった書類袋をレオンの前に差し出した。読んでも構わない意思表示と見て、中身を引き出す。全く表情を変えないのは難しいものだ。 「“雪の日に生まれし者”、か。故に“白雪姫”《スノーホワイト》とは中々、洒落ている」 「本心からのお言葉でしょうか。いや、それはつまり、どこの馬の骨とも知れない者には大事な従妹御はやれない、とでも?」 僅かに、本当に僅かにレオンの声が低くなる。珍しいことだが、彼が本気で怒っているのだと、クリスは知る。そして、 〈あのレオンを怒らせられるんだから、やっぱ大した奴だわ〉 などと、些かズレた感慨を抱いていたりする。 レオンにしても、アグラーイの『闇将軍』を前に、全く物怖じせずに応対していられるのだ。 彼らの静かなる対決は中々に見物といえる。
「血統に拘るなど、下らんことだ。血や家だけに拠り、己の自尊心を満足させることほど愚かな所業もない。肝要なのは如何に『家』を背負うかだ。その重責は名前だけでも、血脈だけでも負いきれるものではない」 それは或いは自身の半生を語っているのかもしれない。生粋のアグラーイ家の嫡子でありながら、彼を追い落とそうとする者は後を絶たなかった。降りかかる火の粉を払いのけ、頭上に落ちかかる火山弾を叩き落しながら、彼は若くして、『連邦の闇将軍』であり続けたのだ。 だが、それとマサキと、このベルンハルト・シュネーヴァイスの身上調査書と如何なる関係があるのか? 次の瞬間、ある推測に達したレオンは現『闇将軍』を直視する。 彼は、笑っていた。 「大事な妹を預けるのだ。勿論、どんな奴かは知っておきたい。いや、預けるに足る人物かどうかを見定めぬわけにはいくまい。私は血統などは信じぬがな、人の生い立ち、その生き方から見えてくるものはあるとは思っている。私が知りたかったのは、正にそれなのだよ」 「……それでは、最初の関門はクリアしていたわけですね」 でなければ、わざわざ遠くサイド2から地球まで、招いたりはしまい。 「アグラーイ家を継ぐ過酷さは余人には到底、想像もできん。だが、人夫々の苦しみや悲しみもまた、比較できるものではないな」 「スノーは、閣下のお眼鏡に叶ったのですか」 「賭けてみようという気持ちにはなった」 だから、この部屋の先に──マサキの元に送ったのだ。 「あのベルンハルト・シュネーヴァイスは、スヴェータとは全く異なる生い立ちだが、どこか似ているな」 『純潔を尊ぶアグラーイ家』の『異端』とされたスヴェトラーナ・マサキ・アグラーヤ。異端故に『マサキ・ヒカル』と名乗り、その出自を疑われることもなかった。 そして、ベルンハルト・シュネーヴァイスは──『親を知らない』孤児だった。その名とて、真実の名ではない。自分が何者かも知らず、成長した。 生まれに、家に、血統に拘るのは愚の骨頂だとしても、それが人にとっての『最初の拠り所』となるのもまた、確かなことだ。 逆にそれを持たぬ者は、己の核となるべきものが曖昧かつ不安定で、揺らいでいる。 「“アイデンティティ・クライシス”ね」 「あぁ。今の、記憶を失ったスヴェータにはその傾向がある。仕方がないことだ」 紛れもないアグラーイの一員でありながら、『異端』とされ、その存在を公にされることもなかった。父親にさえも『捨て』られた。此処にいながら、彼女は『存在しない者』の如く扱われ続けたのだ。 彼女の『存在』を確かに受けとめていた従兄《あに》や友人がいなければ、疾うに彼女は我を失っていたかもしれない。 「だから、悩みも心配が尽きないのね。お兄ちゃんは」 「茶化すな。シュネーヴァイスはスヴェータを救う、最後のカギかもしれん。だが、奴にもスヴェータ同様の危うさはあるだろう」 クリスは不安を隠そうともせずに唇を噛みしめるスビャトスラーフの手を取った。 一方、レオンはスビャトスラーフの吐露したところの真意には意見せず、友人の身上書を簡単に読み流していった。 そこにはベルンハルト・シュネーヴァイスなる『存在』の半生が詳細に記されていた。施設での生活、軍での任務。そして、結婚と不幸なる別れ──その後の日々についても、よくも調べたものだが、何枚目かを捲ったところで、息を呑む。 「これは──」 レオンの緊張を感じ取ったスビャトスラーフの目が鋭く光る。 「そこまで調べるには大層、苦労した。何しろ、一年戦争で、かなりの記録が散逸している。おまけにシュネーヴァイスの故郷のサイド2は壊滅状態だったからな」 「確かなことなのですか。これは」 「──残念ながら、100パーセント間違いなしとは言えん。だが、ほぼ確実だ」 「よくもまぁ……。調査費用もバカにならなかったでしょうに」 「スヴェータのためだ。惜しくはない」 余りにも率直な言葉と態度には呆れながらも、恐れ入るばかりだ。 「それで、閣下はこの内容《こと》をスノーに知らせるおつもりなのですか」 「勿論だ。断っておくが、慈善事業をしているつもりはないぞ」 「……でしょうね」 全てはスヴェトラーナ・マサキ・アグラーヤを支えるためだけに、一つでも不安要素を取り除いておきたいのだとは先刻承知だ。 だが、嘆息するレオンにクリスが疑問を覚える。 「どうしたの、レオン。何か気になることでも」 「いや、閣下の用意周到さには感歎するばかりですが──これは恐らく、必要ありませんよ」 「必要ない? 何故だ。シュネーヴァイスとて、己の出自は知りたいだろうに」 そう。身上書の問題のページには正しくベルンハルト・シュネーヴァイスの出生についての報告が纏められていた。身元不明のまま死んだ母親と謎でしかない父親についての推測も記されている。 「否定はしません。これが完全に疑いようのないものであれば、それも良いでしょう。ですが、スノーのアイデンティティがどうのなど、他人が勝手に定めるものでもありません」 「勝手だと」 「全くもって、勝手なことです。閣下、お解かりになりませんか。幼い頃はいざ知らず、今の彼には確りとした自己というものが存在しています」 鋭敏なスビャトスラーフですらが戸惑い、クリスと目を合わせる。クリスは説明を求めて、レオンに頷き返す。 「この調査書にも書かれています。彼は多くの友人を作り、そして、家族を得た。確かに不幸な結末が待ってはいたが、しかし、ベルンハルト・シュネーヴァイスは隣人の良き友人であり、家族にとっては良き夫、良き父親だったのですよ」 「だが、それも無惨にも奪われた。レオン・リーフェイ。一体、何が言いたいのだ。その後のシュネーヴァイスがどんな状態だったか──一緒《とも》にいた貴方が一番、よく解かっているはずではないか」 「確かに、解かっています。そして、識っています。そんな彼の心の奥底には淡い灯火が輝き続けていたことも」 「灯火?」 「名の如く、マサキ・ヒカル。閣下の従妹御、スヴェトラーナ・マサキ・アグラーヤ様です」 漸く飲みこめた、スビャトスラーフとクリスは大きく息をついた。 「マサキがいるから、マサキがいるなら、彼は大丈夫だということ?」 「そうさ。何の心配もない。不安に背中を押されながらでも、天下のアグラーイ家まで乗り込んできたんだよ。あいつはさ」 ただ、マサキのためだけに──……。 「ご存知でしょうか、閣下。『アイデンティティとは“他者なしに在りえない自己”なのだ』と」 「……エリクソンだな」 旧西暦二十世紀に『アイデンティティ』なる概念を周知に広めた人物だ。 シュネーヴァイスの半生は正に古来の学者の言葉を体現している。 家族を持たなかった彼は、だが、新たな家族を得ることで、自己という根を下ろしたのだ。それを失った痛みと衝撃は測り知れなかったが、その後、長らく会うこともなかった一人の女性を、親友だと互いに言い聞かせていた彼女を、支えとしてきたことも確かなのだ。 「……必要、ない。そうか、必要ないのだな」 その述懐は賭けに勝ったのだという安堵感から出たものでもあった。 「それじゃ、その報告書はどうする?」 「処分してしまえばいい。確かにな。未来を歩めと送り出したはずが、過去に縋りつかせようとしていたとは──己がとんだ愚者であったと気付かされるのは腹立たしいが」 「時にはその高〜い鼻っ柱をへし折られるのもスビャートンカのためになるわよ」 「マルーシャ、口が悪い」 「アラ、気を悪くしたかしらん」 実は少しも怒っていないのは明々白々だ。 「閣下、差し支えがなければ、これは私にお預け頂けませんか」 レオンの申し出に二人は顔を見合わせた。重要な判断には必ずクリスの意見を参考にしているのだとは、今までの対応から察せられた。 「では、頼むとしよう。貴方の望むように、処分して構わない」 「承知しました」 書類袋に調査書を戻したレオンはふと、視線を上げた。スビャトスラーフにもクリスにも向けられていない。だが、彼は間違いなく何かを見つめていた。 どうしたのかと、問いただす間もなく、レオンは書類袋を脇に抱え、立ち上がった。 「では、私はそろそろ、失礼を……」 唐突だったので、スビャトスラーフもクリスも驚きを隠せない。 「あの人を待たなくてもいいの」 「うん……。その必要も、なさそうだからね」 単に『勘が鋭い』では済まされない言動は昔から変わらない。クリスは何となく納得し、珍しく理解が追いつかないらしいスビャトスラーフに声をかける。 「送ってきても宜しい?」 「え? あ、あぁ。そうしてくれ」 そこで、スヴャトスラーフ・ミハイロビッチ・アグラーイも席を立ち、レオンに右手を差し出した。 僅かに瞠目したレオンは、だが、臆することなく『闇将軍』の手を握り返す。 「無事、“式”が成就されることを、お祈り申し上げます」 「ん……。色々とご面倒をおかけした。感謝します」 最大級の謝辞といえよう。レオンは目礼し、クリスに従い、『青の間』を後にした。 一人残されたスビャトスラーフは更に奥の、シュネーヴァイスが入っていったマサキの部屋を見遣る。そして、気付いたのだ。先刻、レオン・リーフェイが見ていたのも二人のいる部屋の方だったと。 「……“チャイナ・ムーン”は人ならざる“眼”を持つ。本当なのかもしれんな」 独り言ちたスビャトスラーフはクリスと出ていったレオンへと、ゆっくりと深く頭を下げたのだった。
シュッ…
一瞬の輝きは暗闇の中では焦がれるほどに眩い。その一瞬が短ければ、短いほどに縋りつきたくなるばかりの確かな輝きと映る。 レオンはその炎に貰い受けた煙草を寄せ、火をつけた。 火を灯した燐寸《マッチ》をハンスが軽く振る。軌跡が燃え上がり、不意に消える。闇夜の下で美しく、残像が目に残る。 「少佐がお喫りになるとは知りませんでした」 「そうだな……昔は吸わなかったからな」 薄く白い煙を吐き出しながら、呟く。煙草を覚えたのはかなり遅い口だ。それも滅多に手は出さない。 元階級での呼びかけについては二度は訂正しなかった。ハンスにしてみれば、他に呼びようがないのだろう。思えば、情報局時代も気軽に、或いは親しく名前を呼びかけてくれる相手は数少なかった。将来を嘱望され、相応の敬意と更なる畏怖の念を向けられていた。それだけに距離を生んだのだ。 だが、人生はどう転ぶか判らない。今、レオンは軍を離れて久しく、占い師などという、嘗ての同僚が聞けば、耳を疑うような仕事についている。 「それにしても、マッチとはな。随分と懐古趣味じゃないか」 「ハァ、行きつけの店が凝ってましてね」 「ふぅん。それ、くれないか。地球土産にさ」 「そりゃ、こんなもので宜しければ」 ハンスは嘗ての上官(実際に下に着いたことはないが)の奇妙な申し出をあっさりと受けた。 礼とともに今は懐かしの燐寸を受け取ったレオンはハンスの顔を数秒、眺めやる。勿論、ハンスには居心地の悪いことこの上ない。 「な、何ですか。少佐」 「いや。──お礼に、一つ占ってやろうか? 昔馴染みの誼で、安くしておくぞ」 これほど、表情の選択に困った顔も中々、お目にかかれないだろう。 「えーっと、タダじゃあないんですね」 「それじゃ、有り難味に欠けるだろう」 どこまで、本気で言っているのか、ハンスには即座に判断できなかった。今に始まったことではなく、レオン・リーフェイが底の知れない人物であるのは昔から不変ともいえる事実だ。 そして、彼が時に信じがたい洞察力を発揮するということも──……。 ハンスは軽く息を呑み、恐れを綯い交ぜとした誘惑を断ち切った。 「まぁ、後に取っておきますよ。占いに頼るほど、切羽詰まってもいませんしね」 「そうか。そりゃ、そうだろうなぁ」 レオンは肩を揺らせて、笑った。それがハンスには酷く珍しい反応のように映る。彼の知る元少佐はこれほど、軽快に笑う人物ではなかった……と思う。 ハンスの感慨に気付いているのか否か、煙草を振るような仕草を見せ、 「まぁ、万が一、切羽詰まったりしたら、相談に乗るぞ」 「ハハ、サイド2まで行かなきゃならないんですか」 「万が一さ。確かに君には無縁だろうからな」 幾分、断定的な物言いをレオンがするのは珍しい。これも一種の『予言』だろうか? などとハンスは思いながら、携帯灰皿を取り出した。レオンが大して吸ってもいない煙草を始末する。 それらが合図だった。ハンスは部下に目配せし、預かっていた車のキーをレオンに渡す。 「それじゃあな」 実にあっさりとした挨拶だけで、レオンは立ち去ろうとする。 何事に対しても、公平で客観的──そう評価されていたレオンは優秀な情報局員だったが、私人としては実に付き合いづらい人間だった。彼には壁を作っているつもりはないのだろう。結果として、そうなっていただけだとしても──だが、悲しいことに彼自身はそれ故に痛みを覚えたりもしなかった。 今になって、そうと悟ったハンスもまた、レオンを苦手と感じ、極力、近付かないようにしていたものだ。平気で話しかけるクリスに感心し、特に語り合うわけでもなく、ただ一緒に座っていただけの男──シュネーヴァイスだ──には不審の念を隠せずにいた。だが……。 「あの、リー……」 咄嗟に発しかけた呼びかけを呑み込む。レオンは気付かないのか、歩みを止めない。 「あ…、レオン!」 驚いたのは自分自身の声の大きさだったのか。レオンも立ち止まり、こちらを振り向く。 内心、パニックっていたハンスはどうするべきか悩みなからも、走り寄る。 表情は変わらないが、暗がりの中で、間近に浮かぶ周囲に同化したような瞳はそれでも、ハンス以上の驚きを湛えていた。感情を表に出すことの殆どのないこの人も、やはり感じる心を持っているのは当たり前なのだと、今さらのように気付く。 習性の如く反射的に敬礼しかけた手を、ハンスは躊躇いながらも、レオンに差し出した。 一瞬の間の後、レオンは苦笑したようだ。ただ、握手は交わしてくれた。 「お元気で、レオン」 「あぁ、君もな。ハンス」 恐らく、長の別れになるだろう。宇宙と地球に分かれ、ひょっとしたら、二度と会うこともないかもしれない。 車に乗り込んだレオンが一度だけ、窓から顔を出し、手を振った。走り去る車が街路の向こうに見えなくなっても、暫くハンスは立ち尽くしていたのだ。 いつか──そう、いつか、切羽詰まらなくとも、話をしに、そのためだけに会いに行くのもいいかもしれない。そんなことを考えながら……。
「あら、マサキは?」 「眠ったそうだよ」 『青の間』に戻ったクリスはマサキと話していたはずの人物がスビャトスラーフと向かい合っているのに、尋ねる。答えたスビャトスラーフの声が落ちついているので、その話も上手くいったのだろうと解釈した。 「それは良かったわ」 軽く息をついたクリスはかなり冷めてしまったカップに口をつけた。 「淹れ直したら、どうだ」 「そうねぇ」 快活な彼女が何故か、鬱屈しているのに、スビャトスラーフが眉を顰めるが、気を回す余裕などない今一人の人物──ベルンハルト・シュネーヴァイスが口を挟む。 「それで、構わないのか。俺が彼女についていても」 「スヴェータが望んだのならな」 「疑っているのか。まさか、彼女を叩き起こして、確めはすまい」 「そう、突っかかるな。いい加減、わざわざ貴様を呼び寄せた意味に気付いてほしいものだ」 シュネーヴァイスが面白くもなさそうに黙り込む。気持ちを静めるような数瞬を置き、 「だが、その前に一度、外に出たいんだが。友人を待たせているんだ。彼に──」 「その必要はないわよ」 新しい紅茶を準備するクリスに二人の目が向く。 「レオンなら、今し方、帰ったもの」 「……帰った?」 「えぇ、待っている必要はないだろうからって」 茫然としていたシュネーヴァイスは軽く頭を振った。 「え…と、レオンもここにいたのか」 「つい先刻《さっき》までね。ねぇ、シュネーヴァイスさん。お願いだから、レオンの気遣いを無になさらないでね」 半端な返答など許さぬかのように、美しく輝く碧い瞳が心の奥底まで射抜く。 「レオンはああいう人だから、黙って、身を引いちゃうけど、あの人も犠牲になってるってことを忘れないで」 「犠牲って……」 「まさか、解かってないなんて、言わないわよね」 睨みつけられ、口ごもる。 「いや、そんなことはない」 レオンにとっても、自分は数少ない友人だ。それは理解している。彼が決して、孤独を苦にはしないのだとしても、ここ何年か一緒にいたことの意味がないわけでもない。 そして、自分がマサキの傍にいることを選んだ今、レオンはまた、独りになるのだ。それが解かっていて尚、背中を押してくれた。 「それにしても、貴方はレオンとは──」 「私も昔からの友人よ。貴方のことも知ってたわよ。よーく、彼と一緒にいるとこ見てたもの」 「それじゃあ、貴方も連邦の……」 「昔のことよ。貴方もレオンも、疾うに軍人じゃないでしょう。ま、そんなわけで、もう外にもいないのよ。だから、マサキのところに戻ってあげたら?」 「あ、あぁ……。そうさせてもらう」 何となく釈然とはしていないようだが、一度スビャトスラーフを見遣り、シュネーヴァイスは奥の部屋に戻っていった。 「世話の焼ける」 「世話焼きのつもりだったのか。私には嫌味に聞こえたが」 「あら、何のことかしら」 クリスは幾分、不機嫌そうに紅茶を啜った。 「どうした。見送りに行って、リーフェイと何か揉めたのか」 「何で、そう思うの」 「顔に書いてある。かなり大きく」 「あっそ。でも、別に揉めたわけじゃないわよ。私が勝手に苛ついてるだけ」
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「本当に、挨拶もしないで帰っちゃっていいの」 「二度と会えなくなるわけじゃないだろう。荷物の整理やら何やらで、スノーも一度はプロミス・ランドに戻ってくることになるさ」 「でもねぇ」 執事の申し出を断り、クリス自らが玄関口まで案内している。さすがアグラーイ家のお屋敷だけあって、素晴らしい広さだ。尤も、ただ広いだけなら、レオンに案内なぞ必要ないのは承知している。 「それより、クリス。いや、マルーシャ様は彼と上手くいっているみたいだね」 「ケンカも絶えないけどね。一筋縄じゃいかないわよ」 「彼も同じように思っているだろうね。だから、合ってるのかもしれない」 やけに面白そうに笑うのが癇に障る。だが、レオンの感覚は間違いがない。きっと、多分、間違いなく──自分たちは合っているのだろう。 「ね、レオン。最初に部屋に入ってきた時なんだけど。何か、妙な顔してたわよね」 「妙って何だい」 「うーん。何かこう、顔を顰めていみたいな。目を細めてたような」 クリスの語る印象にレオンは一頻り笑った。 「あぁ、顰めてたように見えたかい? あれはさ、文字通り眩しかったんだよ。君たち二人がね」 「眩しいって」 「君だから、大真面目に言うけど。二人で一つのオーラってのは中々お目にかかれないんだ。それも飛び切りに強くて、美しいものにはね」 本当に大真面目なクセに、意外というか、常識離れした理由なので、クリスも反応に困る。別に疑っているのではない。ただ、 「幸せなんだね、クリス。本当に良かったよ」 彼は知っている。自分がどんな風に歩んできたかを。何を失い、独りで生きていたかを。 そして、彼ほどには“独り”を恐れずにはいられないということも……。 「本当に、良かった」 レオンが地球にまで来たのはシュネーヴァイスのためだけでなく、それを確認したかったからなのだと、唐突に気付かされる。そんな気遣いが重く感じる。公平で客観的で、その分、己には無頓着にも思えるレオン……。 「ね、レオン」 「何だい」 「貴方の幸せは、何なの」 全く、思いもよらない質問だったのだろう。確実に返答に詰まっている。 「そうだねぇ」 苦笑し、頬を掻き、宙を見つめながら、呟いた。 「お客様の笑顔、かな」 占い師らしい発言というべきか。フザけているわけではないはずだ。それは解かっている。だが、クリスは真面目に言うからこそ、腹が立った。そして、悲しかったのだ。
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「マルーシャ」 「────」 「顔が怖いぞ」 「!? 何よ、ケンカ売ってるわけっ」 思考に沈んでいたクリスを現実に引き戻すには十分な破壊力を秘めた言葉だったようだ。困ったことに、クリスは口だけでなく、手も出るタイプだった。それも淑やかな外見に反し、半端ではない力の持ち主だったりする。 「怒るな。そんな顔をするほどに、リーフェイが心配か」 「何よ。ひょっとして、妬いちゃったりしてるわけ?」 口調に滲む気配はそう陰りのあるものではないが、確かに違和感は感じられる。 「まさか。まるで気にならないといえば、嘘になるがな。その……君と彼の関係って奴を」 一瞬だけ、自信なさげな不安を帯びた表情が、その秀麗な面を過ぎる。『アグラーイの闇将軍』には全く似つかわしくない表情だ。 不意にクリスにだけ弱味を見せるスビャトスラーフには彼女自身も弱い。怒気も失せ、スビャトスラーフに歩み寄ると、肩に手を置く。 「そぉんなに知りたいんなら、全部、話してあげるわよ。寝物語にでもね」 「──冗談ではないな」 重ねた手を握り、引き込み、互いの顔が寄る。既に見慣れた、美しい──だが、それだけではなく生命力に溢れた熱い輝きを宿す双眸を間近に魅入る。 「誰が他の男の話など、聞きたいものか……」 可笑しそうにクリスが笑う。その輝きに、スビャトスラーフは惹かれたのだ。
とりあえず、ホテルに入り、ノア夫妻に結果《こと》の報告をしなければならない。そして、宇宙に戻る。今となっては自分の拠るべきサイド2・16バンチ“プロミス・ランド”に……。 「地球に来るのも、これが最後かもしれないな」 レオンもまた、地球生まれではあるのだが、不思議と郷愁というものを感じることは少なかった。やむなき機会と確固たる意思がなければ、その必要もあるはずがない。ならば、もう一度くらい故郷を見ておくのもいいかもしれないが、取り立てて、焦がれるような思いもないのだ。 そういう自分はどこか人より欠如している部分《ところ》があるとは理解していた。それが持って生まれた性質であり、人にはない能力《ちから》を有するがために引き換えたのかもしれない、とも想像している。 尤も、それで困るのは自分ではなく周囲の人々だった。彼らの反応に戸惑い、やがては一線を引くことで、回避することを覚えた。 それでも、その一線を軽々と超えてくる者も稀にはいた。それがシュネーヴァイスであり、クリスであり──嘗て所属したMS小隊隊長だったりもした。数少ない、大切な友人たちだ……。
空港に隣接する都市部の郊外に居を構えるアグラーイ家を離れ、その狭間の人家のない公道を走っている。時間も時間なので、行き交う車も殆どない。周囲は時折、流れる街路灯以外には光もない。向かう先に煌く都市部のイルミネーションがやけに浮いて見えるほどだ。 バック・ミラーをチラッと見遣り、軽く息をついたレオンは車道から逸れ、停車すると、エンジンも切った。他に通る車もなく、完璧な沈黙だけが煩く耳の中で騒《ざわめ》く。そう、沈黙は決して、無音ではない。 スビャトスラーフから預かった書類袋を手に車を降りると、後部座席のドアを開いた。 「降りておいで」 シュネーヴァイスが聞けば、耳を疑うほどに優しい声音だった。誰もいないはずのない車内を覗き込み、手を差し伸べる。 「さぁ」 余人がいれば、奇異な行為と疑われる違いない。だが、レオンの目にはその手に誘《いざな》われ、しゃくり上げながら、現れた少女が映っていた。まだ、幼い、稚すぎる女の子……。 「お母さんが心配している。もう、お行きよ」 いるはずのない少女は頭を振る。大粒の涙が散っては消える。 「──お父さんは、君たちを忘れたわけじゃないんだよ」 寧ろ、逆ではないか。強い強い、強すぎる思いが彼女らを引き止めてしまったのかもしれない。今でも、彼女らを想っている。愛している。 だが、悲しいことに今は世界を別たれてしまった。 「君たちのところに帰るまで、お父さんが、こちらで生きていくことを許してあげてほしい」 ただただ、父を慕う幼い娘に、どんな言葉が届くのだろう。無論、レオンに確かな自信があるわけでもない。ただ、彼もまた、真摯な想いを伝えるより術はなかった。 「お母さんが、待っているよ」 振り向けた視線の先、暗闇の下で仄かに光る人影。 「さぁ、お行き。ミリシア」 背中を押す──現実に触れられはしないが、“迷子”になっていた少女はコクリと頷き、その光へと駆けていった。少女が飛びつき、胸に顔を埋め、盛大に泣き出す。優しく娘の髪を撫でてやる女性の姿がはっきりと見えた。そして、レオンを見返す。 ──ありがとう…… 嘗て見知った二人の姿は光へと戻り、光は闇い空へと昇っていく。闇い──満天の星を頂いた夜空へと……。 レオンはハンスから貰った燐寸《マッチ》を取り出すと、躊躇いもせずに書類袋に火をつけた。素晴らしい勢いで、瞬く間に炎に包まれる。闇に慣れた目には痛いほどに揺らめく炎が大地を焦がす。 どれだけの手間と経費と時間をかけたかも知れぬベルンハルト・シュネーヴァイスの身上書はものの一分とかからずに灰燼と帰す。だが、遠すぎる過去など、今のシュネーヴァイスには必要ない。彼が愛した家族のための“送り火”くらいにはなるとしても、だ。 レオンは今一度、目を上げた。 『死した人は星になる』──そんな伝説《いいつたえ》を信じてみたくなる。夜天《そら》へと昇っていった母子もまた、無数の星々の中へと消えていった。 だが、彼女らは何処にいくのだろう。何処で、愛した人の訪れを待つのだろう。そればかりはレオンにも解からないことだった。
車に体を預け、暫し、レオンは宇宙に見入る。地球生まれの彼も、今はあの広大な空間の一角で日常を過ごすのだ。その変転を不思議とは思わない。いつの間にか、自分でさえが宇宙という広大な時空間に魅入られているのかもしれない。
吹き抜けていく風に身震いする。こんな感覚だけはコロニーでは味わえないものだ。懐かしいはずだが、実は認識してもいない。 「少し寒いな」 そんな散文的な思いしか湧かない自分にも多くを感じない。だから、地球でも宇宙でも、独りきりでも生きていけるのだ──……。 「さぁて、俺も帰るか」 車に戻ると、彼方に見える地上のイルミネーションへ向け、発車させる。 巻き上げる風が灰を跡形もなく吹き飛ばし、何もなかったかのような暗闇だけが残った。
《了》
『最終章(前編)』 『外伝・レオン編』 真面目な外伝ファンの方々及び、(もし御覧になることがあるとしたら)『生みの親』の皆様方へ──ス、スミマセン!! 先に謝っておこうなくらいにレオンがイッちゃってます。特別編ということもあるけど、Ark☆版設定でシリアスやるから、こーゆーことに;;; 少なくとも、輝版のレオンはこんなに人間離れしとりゃしません(核爆) とりあえず、オリ・キャラを貸して下さった入江さん(スビャ兄)とりんださん(クリス&ハンス)には大感謝☆ 時間食って、ゴメンだす。でも、輝んトコのスノーとの三人の共演はなったぞ♪
2003.10.31
輝版『腕時計・外伝』です。とりあえず、まだ続きます。何か、書いてみたら、案外に長い^^; 当然、これまでの輝版スノーとは違い、入江さん版に準じていますが、その生い立ちについてだけ、『MINUS』版設定を一部、組み込みました。この辺、混乱している読者様もいるみたいですが、別設定と謳っているので、過去の設定も全く違うと考えて下さい。 というわけで、入江さん&りんださん、オリ・キャラ拝借どうもです。あんなんなってるけど、怒らんといて。うちのオリ・キャラくんは名前しか出とらんが。 2003.09.06. |