星の影から


「なぁなぁ、アイオリア。聞いてんのか」
「あぁ…、うん。聞いてるよ」
「そっかぁ? ならいいけど…。なーんか上の空でさぁ。やっぱり、まだ調子悪いのか」
「……」
 答えようがないぞ。その沈黙をどう受け取ったのか、セイヤという少年はまた、とんでもないことを言い出す。
「俺もさ、甦った時は体が自分の体じゃないみたいでさ。歩くのもしんどかったんだ」
「…………」
 ヤバい! 本当に大マジにヤバいぞ。早くアイオロスに会わないと!
「あっ。そうだ!!」
「な、何だ?」
 いきなり大声を出されると、さすがにドキッとする。今度はどんな奇天烈な話で、俺を驚かす気だと身構えるが、お構いなしに彼は俺の腕を掴むと、
「冥界ではずっと俺についていてくれて、ありがとな」
「……めい、かい?」
「まさか、それも忘れちまったのか。アイオリア、大丈夫か? アイオロスのことは覚えてるんだろう。じゃ、アテナは……沙織さんのことは」
 思わぬ名前に、別の意味で驚いた。
「サオリ・キド……総帥?」
 それがアテナ? アテナといえば、確かギリシャ神話の主神ゼウス神の娘の戦女神だろうに。そんな異称も持っているのか、あの少女は。
「あぁ! さすがにアテナのことも忘れないよな。良かった」
 言葉もないとはこのことだ。
 だが、確かに何かが引っかかる。「アテナ」という言葉がこの少年の口から出たためか。
 引っかかっていた何かがまた、弾けた──が、引き寄せる前にセイヤが叫ぶ。
「こっちこっち! 直ぐそこだよ」
 駆け出したセイヤを慌てて追いかける──一瞬、その姿が掻き消えたような気もしたが、目の錯覚だろう。すぐに小柄な背中に追いついた。

 だが、軽い眩暈を覚え、たたらを踏んだ。
「アイオリア?」
「いや、一寸……何か、変だぞ」
 空気も妙に冴えたように研ぎ澄まされている。高山にでも登ったような感覚だ。
「そりゃ、結界を越えたからだよ」
「結界?」
「アテナの結界だよ。聖域に入ったんだ」
「聖域……」
「さっきから、聞いてばかりだな、アイオリア。そんなに色々、忘れちまったのか」
 問われても、迂闊な返事などできない。心配そうなセイヤを見ると、尚更だ。きっと、アイオリアに彼は懐いていたのだろう。
「ま、いいや。とにかく行こうぜ。アイオロスや沙織さんに会えば、何とかしてくれるよ」
 大らかというか大雑把というか、深く考えない質なんだろうか。俺の腕を引っ張り、また歩き出すセイヤに本気で不安になってきた。
 この先に本当にアイオロスがいるのか。況してや、多忙なはずのキド総帥が?
 死んだアイオリアが帰ってきたと本気で喜ぶセイヤ。そのアイオリアがまた消えないようにとか、俺の腕を強く握って、離さなくなった。子供の手など、振り払うのは簡単だが、余りに真摯な思いが伝わってきて、その気になれない。

 既に夕闇も深く、聖域とやらの全容は窺いしれない。アテネのすぐ近くに、こんな街灯一つない処があるとは思いもしなかった。これでは一人では帰れまい。迷うのがオチだ。結局、様子を見るしかない。
 すると、程なく前方に揺れる明かりが見えた。あぁ、人は光を見ると、ホッとするのは本当なのだと実感する。だが…、
「な、何なんだ。此処は」
 神話の時代と現代とが混在した国ギリシャ──だが、これは正しく、神話の時代そのものではないのか? 特に詳しくなくとも写真などで見知っている、古代ギリシャ風様式の神殿が向こうに立ち並んでいる。
 そして、ようやっとチラホラと見られるようになった人々も──映画にでも出てくる兵士のような格好をして、篝火の周りに屯《たむろ》しているのだ。
「おぉ、星矢。帰ったのか。……? ──って、アイオリア様!?」
「えぇっ! アイオリア様だって?」
「本当だ。アイオリア様が……」
「でも、そんなこと」
「だって、アイオリア様は──」
 また始まった。N.Y.で間違えられるのは殆どアイオロスとだったが、此処ではアイオリアの名前しか出ない。アイオロスの言う通り、アイオリアを知る者にはより彼と酷似して映るらしい。
 しかし、
「そうだよ。アイオリアが戻ってきたんだ!!」
 セイヤのこの思い込みは何とかならんのか? 誰も何とかしようとは思わなかったのか。
 周囲の視線や囁きに辟易しつつも、迂闊に反応はせずにセイヤの後についていった。



「やっと帰ったね、星矢」
「全く遅いよ」
「ゴメンゴメン、魔鈴さん、シャイナさん。でもさ──」
 目の前に現れた二人の女性の姿に唖然とした俺はセイヤに背中を押され、彼女たちの前に立たされた。
「ホラ、アイオリアが戻ってきたんだよ!」
「アイオリア…、だって?」
 二人の女性は俺を凝然と見ている──らしい。だが、その表情は判らない。何しろ、二人は銀色の妙な仮面で顔を覆っているのだから! 此処の風習か? ただ、見事なプロポーションと張りのある声から極若い女性であることだけは察せられた。
「アイオリアねぇ。確かに、似てるけど」
「星矢、この人は──」
 あぁ、この二人は俺がアイオリアじゃないことに気付いたんだ。何となく、ホッとする。
 その時だった。
「リア、君か?」
 これまた唖然とした知った声に引かれ、振り返ると、そこには走ってきたらしく、軽く息を弾ませているアイオロスと、ミロにムウまでがいて……、
「アイオロス! 良かった。本当にいたんだな」
 初めて声を出した俺に、周囲がざわついた。声もアイオリアに似ているというのはアイオロスに聞いている。そのせいだろう。
 だが、そんなことは疾うに知っている三人までが今更に、お目にかかったことがないほどに驚いた顔をしているのは何故だろう。
 それに、三人だけではない。何だか、更に奥の方から人が集まり出している。アイオリアのそっくりさんが現れたと、もう噂が広がっているのか? ヤケに早い噂の回り方だな。それに、意外と多くの人がいるものだ。

「どうして、此処に」
「いや、これを返すのは忘れていたから」
 時計を差し出すと、アイオロスは困惑した表情で受け取った。
「明日でも良かったのに」
「俺もそう思ったが、彼に会ったからさ」
 セイヤを指すと、三人が更に目を瞠った。
「星矢。アテネに出ていたのか」
「う、うん。魔鈴さんから使いを頼まれてさ。マズかったかな?」
「いや……。師匠が弟子に使いを頼むなど、咎められるものではないからな」
「そっ、そっか。良かった。でも、そこでアイオリアに会うなんて! 俺もうビックリしたよ」
 マリンというのはセイヤの師匠か。何の師匠なのか? とにかく、そのマリンらしき赤毛の仮面の女性がセイヤの肩を叩く。
「星矢。だから、この人は──」
「イーグル。待ってくれ」
 鷲《イーグル》? 格好からして、格闘家にでも見えなくもない。リング・ネームか何かか? 猛禽の鷲とは随分と勇ましい女性なのだな。
 置き去りにされたまま、話が進んでは、こちらも勝手に想像しているしかない。

 だが、マリンだかイーグルだかを制止したアイオロスは俺を見返す。
「リア……」
「アイオロス。あの子…、セイヤだっけ? ヤバいんじゃないのか」
「え?」
「俺を本当にアイオリアだと思ってるぞ。甦りとか、冥界がどうのとか……こんなことを言いたくはないが、死んだ人間が生き返るわけがないだろう。放っておくのはマズいぞ」
「それは──」
 妙に歯切れが悪いのがアイオロスらしくない。
「どうかしたのか」
「いや…。それより、此処に入った時、何か感じなかったか」
「何か? あぁ、一寸だけ眩暈を」
「それだけか」
 畳みかけるように尋ねるアイオロスに目を瞬かせる。ムウやミロを見ると、彼らも答えを待っている様子だ。そんなに重要な質問なんだろうか。
「ん……空気が変わったような気はしたが」
「どんな風に」
「どんなって……そうだなぁ」
 俺はあの時の感覚を何とか思い出してみる。今は慣れたようだが、入ったばかりの時の肌を刺すような冴えた感覚を……。
「山……」
「山?」
「うん、高い山に登ったような、冴えた空気ってのか。汚れていない鮮烈で清純な気配ってのかな。そんな感じだ」
 そういえば、アテネの標高は意外と高かったか? ギリシャ自体が山も多いし。
「まさか、聖域って、オリュンポス山なのか? さすがに神話の国だな」
 雑ぜ返したが、アイオロスは何やら考え込んでいて、笑ってくれなかった。ムウとミロも同じで、エラく深刻そうな顔をしている。これでは埒が開かない。
「で、此処は何なんだ。聖域とか言っているが、グラード財団のテーマ・パークか何かか」
「いや、それは──」
 こんなにも困惑したアイオロスを見たのは初めてだ。ミロとムウが黙ったまま、一言も発しないというのも可笑しい。どうしたっていうのか?
「なぁなぁ、何話してんだよ。早く沙織さんに会わせようぜ。何だか、アイオリア、随分と忘れてるみたいだし」
 あぁ、これが最初にどうにかしなきゃならん問題だった。一刻も早く『サオリさん』に俺を会わせたいのか、そわそわとしているセイヤに向き直る。
「あ、なぁ、セイヤ。実はな」
「星矢。彼は」
 俺とアイオロスが同時に言いかけた時だった。


☆        ★        ☆        ★        ☆


 周囲にある殆ど全ての人々が息を詰め、体を強張らせた。まるで雷にでも打たれたような、との形容はこんな感じだろうか。
 俺も例外ではなく、言いも得ぬ力のようなものを全身に浴びたような気がして、立ち竦んだ。
「沙織さん!」
 叫んだのはセイヤだ。本当にキド総帥がいたのか。だが、
「アテナがわざわざ、十二宮を下りてこられるとは」
「教皇様までがお出ましに」
 野次馬の間で囁きが漏れる。やはり、アテナとはキド総帥の渾名なのか。グラード財団総帥には案外と相応しいかもしれないが。
 しかし、教皇? ローマ教皇とは別だろうな。それじゃ、聖域ってのはアテナを奉じる教団か何かか? しかし、奉じたアテナがキド総帥と、どうして結び付くのか?
 あぁ、解らないことばかりだ。
 とにかく、ザワザワとしていた野次馬の壁が崩れた。
 灯りはあっても、圧倒的に闇の支配域が多いこの聖域とやらで、その闇を撃ち払うように現れた少女は……。
「キド…、総帥」
 間違いなく、一度だけ直接に会ったグラード財団の総帥だった。ただ、あの時とは違って、やはり古代ギリシャ風な衣装に身を固めている。恐ろしいほどに馴染んで見えるのが不思議だ。 
 彼女の背後には、彼が教皇だろうか? 高位の聖職者に相応しい出で立ちの男が従っている。いや、そればかりではない。明らかに、他の兵士の格好の者たちとは雰囲気の異なる青年たちが幾人も背後に控えているのだ。

 何とも表現し難い雰囲気に呑まれそうになる。若くして死んだ『アイオリア様』は特別な存在だったのだろうか。しかし、その彼に似ているというだけで、俺は通りすがりの観光客に過ぎないんだぞ。
 俺は困惑を隠せず、助けを求めて、アイオロスを見遣る。だが、アイオロスは、それにミロもムウも一歩、下がってしまった。
 入れ代わるように、キド総帥が俺の前に進み出てくる。
「お久し振りですね、リアステッド・ロー捜査官」
 今日は驚きの連続だったが、現実としてはこれが一番の驚きだった。まさか、名前まで覚えているとは思っていなかった。
「……。私を、覚えておられるのですか」
「勿論、忘れるはずがありませんわ。……星矢。残念ですけど、この方はアイオリアではありませんよ」
 やっと、指摘してくれたのがキド総帥とは……。気詰まりだったのが少しは解消されるが、背後でセイヤが捲くし立てるのには参った。
「何言ってるんだよ、沙織さん! どう見たって、アイオリアだろう。アイオリアが戻ってきたんだろうっ」
「似てはいますが、違います」
「でも! 小宇宙《コスモ》だって、アイオリアの小宇宙じゃ──」
 コスモ? 聞き覚えがある。確か『銀河戦争』を演じたセイントたちが操る『気』のようなものだったか?
 深く考えることはできなかった。穴があくほどに凝視してくるセイヤの顔色が変わる。
「……ウソ、だ」
「小宇宙もまた、よく似ています。注意しなければ、混同するほどに。それも道理ですが──しかし、この方はアイオリアではありません。星矢、アイオリアはもう戻らないのです。彼は…、もう……」
 セイヤに歩み寄ったキド総帥は、俯いてしまった少年の肩に手を置き、宥めるように続けた。
 多分、彼女にとっても辛い現実なのだろう。アイオロスやムウたちが、教皇らしき者たちが唇を噛みしめているのと同じく……。
「そんなの……」
 肩を震わせ、ポロポロと涙を零す少年に、胸が痛む。こんなことなら、会った時にちゃんと人違いだと納得させるべきだった。
「あ、あの、セイヤ。済まない。その…、別に騙すつもりはなかったんだ」
「説明するのが面倒だったのでしょう」
 ムウの言葉には少しばかり刺があるように感じられた。
「まぁな。その度に一々、説明するより、最後に一度で済ませようとか考えてしまって……。考えなしだった」
「仕方ありませんよ。本気でアイオリアだと思う者がいるなどと、思えるはずがありませんからね。普通は」
 刺があるくせに、慰めているのか? どうも掴みづらい奴だ。

「それにしても、星矢に会うとは……。この偶然は、或いは必然なのでしょうか。アイオロス?」
「私も驚きました。まだ、聖域《ここ》に招くつもりはなかったのですが……」
「導かれたということでしょう」
「あの…、一体、何のお話ですか」
 また置き去りにされそうなので、食いついてみる。セイヤと会ったのが必然? 何かの導き? 俺が此処に来たことがまるで、予定されていたことのように言う。
 キド総帥は真直ぐに俺を見返してきた。あの夢を、嫌でも思い出す。真摯な眼差しから、目が離せなくなる。
「運命《さだめ》は必然を生むということです。リアステッド・ロー」
 運命ときたか。何とも大袈裟だが、この聖域とやらはそんなに大仰なものなのか? 確かに時代的で、隠された存在のようではあるが。運命などが俺を此処に招いたとでも言うのか。
「正しく、その通りです。貴方は宿星《ほし》の運命に導かれ、この聖域に至ったのです」
「なっ…」
 今、心を読まれたのか? 愕然とする俺をよそに、キド総帥は厳かといえるほどの口調で続けた。

 



 現実のオリュンポス山はアテナから結構、離れた地にあります。リア君はそこまでは知らないようです^^:
 そして、『リア君、遂に聖域に到達☆』の章でした。怒涛の如く、星の運命が動く!
 序でに──本日は『ロス誕』 兄さん、誕生日おめでとう♪ でも、お祝いは冬コミ原稿の入稿が終わってからね;;;

2007.11.30.

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