悠遠なる絆
其の参 大方の官吏は通常の時間割に従っている。昼餉時には思い思いの場所で食事を取る。仕事場の片隅で、さっさと済ませる者もいれば、庭院《にわ》に出て、日向ぼっこをしながら、過ごす者もいる。 弁当持参の者もいるが、多くの独身諸官は外朝内に備えられている庖厨処《りょうリどころ》を利用しており、悠舜もその一人である。元々は手先も器用で、しっかり自炊していたが、入朝してからの生活は一変した。 人よりも動きが悪い分、どうしても何事に於いて、時間を要する。挙句に仕事に追われて、朝廷に入り浸るようで、家に帰れたとしても、寝るだけという日が続けば、弁当を作る余裕など、ありはしない。
外へも持ち出せるような仕出し仕様の弁当を受け取り、用心深く歩く。幾ら弁当仕様とはいえ、放り出せば、惨憺たる結末になろう。拾えば済むという代物でもないのだ。 ところが、この日は妙なちょっかいを出される前に、助っ人が現れた。傍らから伸びた、すらりとした手が、ひょいと悠舜の昼餉を攫うように奪った。 驚く前に、悠舜は顔を綻ばせた。 「──鳳珠」 「わざわざ、外に行くのか。……黎深が一緒か」 「はい。いつもの場所で、待ち合わせしています」 鳳珠も御一緒に如何ですか、と続けると、黎深以上に秀麗端麗な面が微かに歪んだ。それでも、彼の美しさ麗しさを損なうものではない──そう、彼らの代の国試を『悪夢』へと叩き落とした美貌は数年を経ても、全く衰えるどころか、これでもかという程に輝きまくっている。 男ばかりの朝廷に於いてでさえ、『美』による阿鼻叫喚を巻き起こし得る恐るべき悪夢の源泉は只今現在進行形で、周囲を席捲していた。二人を中心に距離を置き、彫像と化した官吏は数人どころではなく、既に憧憬どころか恐怖を覚え、逃げ出す者もまた少なくはない。 尤も、野分の中心には、そよとも風は吹かないもの。あの『悪夢』の国試──受験者の殆どが碌な思考力を放棄してしまった初顔合わせ時でも、動じなかった状元は今も、のほほんと悪夢の源と言葉を交わす。 因に、その声を聞くだけで、卒倒昇天する者もいる。鈴を転がすような、などという形容に真に相応しい声があることを誰もが知るわけだ。 「三人揃うのも久し振りですし……飛翔も探しましょうか?」 「やめておけ。どうせ、無駄骨になる」 大酒飲みの同期を思い起こし、失笑する。確かに、今頃は何処ぞで、隠れて飲《や》っているに決まっている。 とにかく、悠舜を放っておく気にもなれない鳳珠は結局、求めに応じて、付き合った。顔を合わせた時の黎深の反応は大方、想像がつくが──……。 「何で、君が一緒なんだ。鳳珠」 案の定、不機嫌不愉快さを全身で示してくれた。 「まぁまぁ、黎深。偶然、お会いしたので、私がお誘いしたのですよ。折角、三人揃ったのですから……」 「私は、お前と二人きりで良かったんだがな」 傍で聞いていると、何とも友人同士には似付かわしくない会話だ。黎深の場合、『友人』を持ったのは自分達が初めてらしいので、その距離感が他の者とは明らかに違うようだ。というより、掛け離れすぎている。殊に『お気に入り』の悠舜は……などと考えても、余計なことを言うと、大事になるのは目に見えているので控えておく。妙なる響きが告げたのは別のことだ。 「虫除けに、褒美をくれてもいいだろうが」 さっさと座ると、黎深の弁当を勝手に開き、一つ摘む。 「お行儀が悪いですよ、鳳珠」 「フン…。さすがに美味いな。紅家特製弁当か」 「……兄上に食べて頂くつもりだったんだがな」 その時だけ、コソッと小声になる。 それほど、豪勢ではない──のは見かけだけだ。具材は一品、調理は完璧。文句なしに、この朝廷内への持参弁当では最高級品に違いない。しかも、作り立てなのだ。昼時間に合わせて、届けさせているのには眉を顰める者も少なくない。黎深がそんな視線なぞ、一顧だにしないのは無論のことだが。 「申し訳ありませんね」 「どうせ、玉砕するのがオチだろう。いい加減、諦めればいいんだ」 予定変更させてしまったと、済まなそうな悠舜に対し、鳳珠は辛辣だ。勿論、黎深は瞬間沸騰した。 「五月蝿い! というか、勝手に食うなっ。食っておいて、文句を言うなっ! 大体、自分の飯はどうした」 紅家の御曹司(実は当主)とも思えない言葉遣いだ。 「あぁ、まだ昼にするつもりはなかったのでな。室《へや》に置いたままだ」 「だったら、戻って、それを食え」 「戻るのは面倒だ。帰ってくる頃には昼が終わる」 「知るかっ! というか、そのまま、室で食え。戻ってくるな」 剣呑さを帯びるやり取りを、だが、悠舜は鷹揚に微笑みながら、聞き流し、お茶の準備を進めている。 喧嘩しながらも、そんな悠舜を視界の隅に、しっかりと捕える二人は胸を撫で下ろしていた。 〈あぁ…、ちゃんと笑ってくれた〉 どこか張り詰めた苦しそうな笑みではなく、無理せずに──自分(達)の前で笑ってくれた。 それだけで、目前で喚く(一寸気に食わない)友人のことなど忘れられた。
「おや?」 「どうした」 「いえ、これ、水ですね」 とんだ失態に持ってきた(だけの)黎深は幾らか狼狽えた。 すかさず、鳳珠がグサリと一突き。 「黎深、湯を貰ってきたら、どうだ」 「何で、私が」 「お前が間違えたんだろうが」 「用意したのは私ではない! おのれ、彼奴《あやつ》ら、打首にしてくれる」 肩を震わせ、とんでもないことを口走る黎深に、悠舜が嘆息する。この黎深に限っては思わず、口走る言葉程、心底、本気の言なのだ。 「やめて下さい。たかが、水如きで。いいですよ、私が貰ってきます」 「お前は行かなくていい」 ゆっくりと立ち上がろうとする悠舜に、この時だけは二人の声がハモる。上げかけた腰を、悠舜は下ろすしかない。 「鳳珠、君が行け」 「何故、私がお前の過ちの尻拭いをせねばならん」 「鳳珠、別に過ちというほどのことでは……」 悠舜の細やかな抗弁は無視される。 「うちの弁当が食いたいのなら、取ってこい」 どこまでも上から物言うしかない男だ。せめて、「お願いします」とか「頼む」とか言えないのか……言えないのだろう;;; そんな姿、想像もできないし……。 「黎深……大した時間はかかるまい」 「だったら、君が行ったって、いいだろうが。大体、そうでもなければ、ズルいぞ」 「はぁ? 何がズルいって」 「君は此処に来るまで、悠舜の一緒だったろうが」 要するに、ここで自分がこの場を離れると又しても、悠舜と鳳珠が二人きりになるのが我慢ならないらしい。それ以前に、昼の約束をした時、仕事も放り出して、一緒にいたことはどうなったのか……。 鳳珠は内心で、盛大な溜息をつくと同時に、苦笑もしていた。全くこの屈折しまくってた男に、ここまで裏表のない好意を抱かせるとは──相当に判断基準が間違っている気もしないではないが──鄭悠舜とは何と、偉大な人物なのだろう。 「……鳳珠?」 声に出して、笑ったので、悠舜が窺い見ているのに気付く。 「いや…。解った。取ってくればいいのだろう」 「よ、よし。解ればいい」 「黎深……済みません、鳳珠。お願いします」 「何。確かに、この弁当に水出し茶では勿体ないからな」 優雅な所作で立ち上がった優美な男は他の者ならば、卒倒しかねない微笑を残していった。
「黎深、鳳珠が戻ったら、ちゃんとお礼を言ってあげて下さいね」 「何で、そんなこと──」 「黎深……たった一言、ありがとう、ですよ」 やんわりとした穏やかな口調なのに、時として、悠舜の言葉には“力”がある。 「う……わ、解った」 「それと、紅家の庖厨人ですけど、クビになさったりするのは本当にやめて下さいね」 顔を顰める友人を見るにつけ、本気にやりかねないのだと改めて、苦笑する。そのクビとやらが打首か免職になるかは気分次第だろうが。 「私は、この味が好きですよ」 だから、二度と味わえなくなるのは残念だ。 「……解った」 不承不承な様子を隠そうともしない黎深に、にっこりと微笑みかけ、悠舜は碗に注いだ水に口をつけた。 「あぁ…、この水も中々、美味しいですね。さすがに水でさえも一品を選んでいるのですね」 心底からの褒め言葉に、黎深の機嫌はそれだけで良くなった。お世辞ではなく、紅家の庖厨人は煮炊きする水にまで拘っているのだ。 勿体ないので、お茶待ちの間は水で繋ぐ。 ピ〜ヒョロと高い空の彼方を鳥が渡っていく。 「好いお天気ですねぇ」 嬉しそうに青空を見上げる悠舜に、黎深は首を捻る。何が嬉しいのか楽しいのか、彼にはよく解らないのだ。 「気持ちがよくて、解放的になれて……小さなことにクヨクヨしたりするのが馬鹿みたいになるというか。気分も晴れてくるものですよ」 「そういうものか?」 やはり解らないらしい。それはそうだろう。空が高かろうが、暗雲が立ち籠めていようが、天気なぞに左右されるような気分の持ち主ではない。 唯一、紅黎深の気分を左右し得るのはその兄上様くらいなものだ。 それでも、鼻で笑ったりはしないのは「悠舜が言うのだから、そうなのだろう」という認識はあるのだろう。 「腹が減ったな」 「もう直ぐ、鳳珠が戻ってきますよ」 「遅い! 茶は後回しでいい。食うぞ」 「黎深……もう少しだけ」 やんわりと窘めるものの、黎深はとっとと弁当に手を伸ばす。まるで、利かん坊を諭す親のようだ。あーだこーだ、やっているところに、待ちに待ったお湯……ではなく、鳳珠到着☆ 「黎深。又、悠舜を困らせているのか」 「又とは何だ。大体、君が戻るのが遅いのがいけない」 ……どこまでも自覚がない自己中男だった。 好天の下での昼食は穏やかで、気の置けない友人達との語らいは夫々の心に多少なりとも、宿っていた影を払拭していた。 最後の最後、この瞬間までは──……。 其の弐 其の肆
一ヶ月に一章とか進まないんじゃ、この5周年記念作、いつ終わるんだろう? しかも、宣言した張り倒し──もとい、引っ叩きシーンまで到達しなかったし。 とりあえず、彼の『悪夢の国試組』ほのぼのシーンつーことで、自己満足には浸っております。
2006.12.04. |