悠遠なる絆
其の肆 「御馳走様でした、黎深。今日も美味しかったですよ」 「当たり前だ」 「…………調子のいい」 コソッとした鳳珠の呟きは胸を張る黎深の耳には届かなかったようだ。これなら、唯一の失策を犯した庖厨人が罰せられることもないだろう。実は未だに心配していた悠舜だったりする。 良き時間だった。三人の誰もがそう思っていたものを状況はこの後、一変する。 事細かな経緯を黎深は殆ど覚えてはいない。
覚えているのは──じんわりと痺れるような頬の痛みと、少し潤みながらも、キツい瞳で睨み上げている悠舜だけだ。いつもは穏やかに優しい瞳が──何ということだろう。本気で怒りを滲ませることがあるとは!! ただ、同時に酷く悲しげに揺れてもいた。 ひたすらに呆然とする黎深は、それ故に、狼狽えてしまってもいた。 鄭悠舜が紅黎深に平手打ちをかました──驚きは数少ない観客をも捉えていた。鳳珠ですらが二人の傍らに立ち尽くし、口を挟めずにいる。 偶然、通りかかっただろう数名の官吏たちも思わず足を止め、息を呑み、見つめている。誰もがある種の動揺を滲ませていたが、唯一人、全く表情すら動かさない男が冷ややかな視線を送っていた。 水を打ったような静けさとはこのような状態を示すのだろうか。 尤も、そんなことをチラとでも考える余裕なぞ、今の黎深にはなかった。 「いい加減にして下さい。勝手な憶測で、人を侮辱なさるような方とはお付き合いできません」 キツい眼差しの悠舜が紡ぎ出した声もいつになく厳しい。事実上の絶交宣言に、周囲の者が蒼くなった。鳳珠でさえもが驚愕に次ぐ驚愕に、碌な反応もできなかった。 当の黎深は未だ、叩かれた衝撃から立ち直ってもいない。 無意識に握り込んでいたのだろう。ぎこちなく開かれた手が杖を握り直すのに鳳珠が気付いた時、悠舜が目を向けてきた。 「申し訳ありませんが、仕事がありますので、私はお先に失礼します」 それは暗に、一緒に来ないでほしい、と言っていた。 ただ、頷くしかない鳳珠に一礼し、少し離れた所で無表情に成行きを見ていた官吏に、ゆっくりと歩み寄っていく。 「葵《き》官吏。申し訳ありませんでした」 悠舜よりも幾らか年上に見える若い官吏は、しかし、神経質そうな眉を寄せただけで、何を考えているのかは窺い知れない。だが、 「別に…、あのような下らない憶測など、阿呆らしくて怒る気にもならん」 「ですが……」 「大体、鄭官吏が謝ることでもあるまい。莫迦には言いたいことを言わせておけばいいのだ」 余りに露骨な言葉に、普段ならば、激昂しかねない黎深が全く反応しなかった。見れば、まだ茫然と立ち竦んでいる。 「約したことは守らせる。では」 胸を張り、背筋を真直ぐに伸ばした見事な姿勢で歩み去る葵官吏の背中には自信が溢れていた。 その後姿を暫し見送り、小さく息をついた悠舜は鳳珠に一つ挨拶を残し、別の方向へとゆっくり去っていく。少し小さな背中には、容易には前言を覆しそうにない意志の強さが窺えた。 隣で未だに固まっている同期を見遣り、鳳珠はまた嘆息した。 「黎深、いつまで呆けている」 「え…。いや、あれ、悠舜は……」 「もう行った。午《ひる》の始業はもう直ぐだ。私たちも早く戻らないと──」 「ほ、鳳珠。今、何が──何で、悠舜は…、えっと。あれ、何があって」 これはイカン。さすがに倣岸不遜な紅黎深にも、いや、だからこそ、相当な衝撃だったと見える。取っ組合いの喧嘩のようなことは自分も含めて、飛翔やらとも演じることはたまにあるが、あのように、叱りつけられるように叩かれることなぞ、恐らくは未知の体験ではないだろうか。 紅黎深が絶対服従となる唯一の存在、兄の邵可が弟に手を上げたりするようには、まるで想像できないためだ。 それは悠舜にしても同じだったのだが──鳳珠は事の成行きを思い返した。
何事もなく、穏やかに終わると見えた昼時間だったが、最後にもう一つ騒動が待っていた。 黎深、鳳珠と別れたところを見計らったように、悠舜は官吏たちに囲まれてしまったのだ。 「さっきはよくも、ふざけた真似をしてくれたな」 凄まれても返答に困るだけだ。「私が頼んだわけではありません」などと言ってみても、火に油を注ぐのは目に見えている。 彼らは資蔭派──国試によらず、貴族たちの父祖の勲功を以て、官吏に登用される貴族派の者たちだ。父祖以来の家名に誇りを待つ彼らは、碌な身分もなく身一つ頭一つで国試を突破することにより、官吏となる国試派を目の敵にしている。 身分はなくとも、能力は既に示しているだけに目障りで仕方がないのだ。殊に悠舜は『悪夢の国試』とも称された年の状元、更には足が不自由などという見苦しいオマケつきだ。 〈午の始業に間に合わなくなるな……〉 下手をすれば、午後一杯を潰すことまで、ついつい覚悟してしまった。 その時だった。
ガッコーン★ 派手な音を立てて、数人の官吏の後頭部を何かが直撃した。運の悪い数人を悶絶させた代物の成れの果──それだけで、一財産作れそうな異国情緒溢れる超高級品重箱の残骸が無惨にも辺りに散らばった。 それを見て、二つの意味で官吏たちは蒼くなる。勿論、悠舜も──……。 「……黎深、鳳珠」 止めなければ──そうは思っても、咄嗟にそれ以上は言葉が続かない。それほどに、黎深の発する怒気は凄まじかった。 どこかで彼らは高を括っていた。紅黎深が本気で怒ることなどない──高みから全てを見下ろし、誰もが出世するために必死になる朝廷ですら、大した努力も見せずにトントンと出世する。そのくせ、退屈そうにしているのだ。 誰もが羨むような類稀なる能吏でありながら、実はとんと出世になど興味がないのは明らかだった。そんなに詰まらないのならば、辞めてしまえばいいのだ。彩八家でも筆頭の紅家の御曹司が何を好き好んで、宮仕えなど──そんな陰口を叩かれている男だった。 そんな男が同期の状元には、何故か、興味を見せ、代弁するが如く報復を行ってきた。ただ、それもよくよく考えれば、可愛いものだった。 まさか、こんなにも怒りを露にするなどと、想像の範疇ではなかったのだ。 彼らよりはまだ、近しい鳳珠でさえも、視線で相手を射殺しそうな同期には声を失う。気の達人でもある鳳珠には黎深の撒き散らす怒気を全身に痛く感じられるほどだった。それでも、動けたのは彼だけだった。 「落ち着け、黎深」 「離せ、鳳珠。こいつら全員、叩き殺してやる」 抑えようとする同期の美貌なども目もくれず、低く唸る。 普段なら、魂が抜けるような絶世の美貌が目に入っていないのは官吏たちも同じだった。 「黎深…、私は何もされていませんよ」 取り繕うような言葉にしか聞こえなかったのだろう。悠舜の制止はそれこそ、火に油を注いだようなものだった。 「私が来なければ、どうなっていた。さぁ、言ってみろ。悠舜をどうするつもりでいたっ!!」 苛烈な弾劾に答えられる者は一人としていない。本当に殺されるかもしれない、と冷汗をかいた者も少なくなかった。 状元とはいえ、足が悪く将来などないだろう同期のために、紅黎深がここまで怒り心頭に発するなど、計算外も甚だしい。 逃げたい、と全員が真摯に願ったほどだ。だが、竦んだ足は動かない。尤も、逃げ出したところで、疾うに顔は記憶しているだろう。紅黎深が本気で望めば、闇に葬られる可能性すらあるとまで、全員は思い至った。 そして、それは恐らく、思い過ごしなどではないのだとも……。今更ながらに“虎の尾を踏んだ”己の迂闊さを呪う。たとえ、その状元が“虎の威を借る狐”だったとしても、手を出すべきではなかったのだと。 黎深が一歩、前に出ても、やはり彼らは動けなかった。そうして、黎深が悠舜の腕を引き、彼らから離した時だった。 「何をしている。もう午の始業は迫っているぞ」 畏れなど微塵にも感じさせない、怜悧な声が割って入り、官吏たちの呪縛を解いた。 一斉に振り向いた官吏たちは一様に安堵の表情を浮かべ、黎深と鳳珠は微かに顔を歪めた。独り悠舜のみが複雑そうに目を伏せた。一瞬のことではあったが。 「こ、皇毅《こうき》殿」 安堵とともに生色も戻るが、皇毅と呼ばれた青年は彼らに冷たい視線を投げかけた。 「お前たち、いい加減に下らない真似はよせ。多勢で独りを嬲るなぞ、それだけでも醜悪だというのに……相手が状元では所詮、僻みにしかならん」 「皇毅殿…っ」 「示すなら、己が力で示すことだ」 「は、はい──」 悠舜を擁護するような発言をしても、納得させられるだけのものを持っているのだろう。恐らくは彼に睨まれたら、資蔭派の中でも浮かび上がることはできなくなるに違いない。それだけは避けたい、と誰もが思っているのも明らかだった。 「行け。時間がない」 「失礼致します」 官吏たちは目が覚めたように、強張った足に命じて、駆け去った。 後には呆気に取られたような黎深と鳳珠、そして、悠舜が残された。 「鄭官吏、二度とこのような愚かな真似はさせないと、約そう」 「皇…、いえ、葵官吏。有り難うございます。そのようなお気遣いを頂いて」 「気遣いなどではない。我ら資蔭派の沽券に関わる真似は赦せぬだけだ」 「……はい」 穏やかに微笑む悠舜に、葵官吏は片眉を上げたが、それ以上は何も言わなかった。 収まらないのは怒りの鉾先を横から掻っ攫われた黎深だった。 「フン…ッ、調子のいいことを言っているが、貴様が奴らに命じたのではないか」 とんでもない発言に、三人が三様に反応する。当の葵官吏は不愉快そうに僅かに顔を顰めただけだったが、 「黎深。何ということを言うのですか」 「お前がお人好し過ぎるんだ。こいつが命じれば、動く連中は幾らでもいるだろう。現に今も、あの莫迦どもを従わせていただろうが」 「だとしても、葵官吏がそのような真似をなさるはずがありません」 若手資蔭派の中でも有望株の葵皇毅は、勿論、それなりの名家の出だが、別に父祖の功績によってのみ、認められつつあるわけではない。寧ろ、自らの才覚によってのみ、取り立てられているのだ。それだけに、自信と並々ならぬ矜持を持っている。 そんな男が、コソコソと陰で国試状元への嫌がらせを命じたりするわけがない。 だが、黎深にしてみれば、天敵ともいえる資蔭派の若手の中核をよりにもよって、悠舜が庇うような発言をするのが我慢ならなかった。余計に反発してしまう。 ……他の者であれば、黎深が拘ることも全くないのだろうが──拙い成行きになりそうだと、独り鳳珠が案じたものだが、当の黎深は全く頓着しない。 「確かに、悠舜に良い顔をしてみせても益があるとも思えんがな。いや、他の連中に、寛大さを示そうという心積もりでもあるんじゃないか」 「黎深…、止めて下さい」 殆ど泣きそうな顔の悠舜を見るにつけ、僅かにチリッと胸は痛んだが、尚、口は止まらない。 「こいつらに善意なんてものを期待するのが間違っているんだ」 「お願い、ですから……」 「気を許せば、莫迦を見るだけだ。結局──」 そこで、言葉は途切れた。 パァンッッ…… 秋の昊《そら》高くまで、突き抜けた響きが辺りに木霊した。 其の参 其の伍
5周年記念なのに、何ヶ月かかってるのか? まぁ、色々ありましたから??? その間に更に新刊も出て、悠舜さんも結構、出自に謎がある人だとか書かれてしまった……。その辺、輝も色々、考えたんだけどな。 つーか、6周年に入る前にちゃんと終わるんだろうか。甚だ不安だ^^;;; とりあえず、黎深が悠舜に引っ叩かれるトコには達しました(爆)
2007.09.24. |