悠遠なる絆

其の伍


 紅黎深が鄭悠舜に叩かれた上に、絶交宣言までされたという話は瞬く間に広まった。
 反応は様々だ。黎深の倣岸さを憎らしく思っている者は「いい気味だ」と言い、悠舜の存在を疎んでいる者は「紅家の人間に対して、莫迦な真似を」と嘲笑った。
 とはいえ、悠舜へのチョッカイも、これを境にパッタリと影を顰めたのだ。葵皇毅が止めさせたためだけではない。
 どんな成行であれ、黎深に手を上げられる者など殆ど皆無なのだ。為し得た悠舜の芯の強さはセコイ嫌がらせなどに屈したりはしないだろう。そうと察すれば、この上、嫌がらせを続けるても自分が惨めになるだけのことだ。

 ともかく、それから三日が過ぎ、殆どの官吏の耳に入った珍事だが、府庫に籠もりきりの邵可が知らなかったのも致し方あるまい。
 弟から大方の経緯を──多分に弟視点で脚色されまくっているが、弟色を拭うのは兄たる邵可にはお手のものだ──聞かされた邵可は嘆息するよりなかった。
 気付いた黎深が怨めしそうに見上げてくる。
「兄上。何で、溜息なんかつくんですか」
「何でって…。黎深、君ね……」
 これを嘆息せずにいられようか。一つ咳払いをし、
「で、どうするつもりなんだい。私に仲裁でもしろと言いにきたのかな」
 そんなことは天地が引っくり返ってもないだろうと、思いつつ、少々意地悪く尋ねてみた。
 案の定、その手があったか! という顔を跳ね上げたが、直ぐに思い改めたらしく焦り出す。
「いっ、いえっ! そんな、兄上のお手を煩わせるなんて、とても!!」
 たとえ兄であろうとも、いや、愛する兄だからこそ、口が裂けても言えないに違いない。それ以前に、この弟には『人に頼ろう』という発想そのものがないのだろうが。
 しかし、その挙句に、
「もう、いいんです」
「え?」
「いいんです。私はただ、兄上とお話したかっただけです。悠舜なんて、もう知りません」
 どんな顔で言っているのか解っているのかね。大体「もう知りません」は向こうの科白だろうに。つくづく、素直になれない弟に、内心の溜息はどんどん重くなる。

 尤も、第三者が絡んでの『悩める弟』などは『初めての快挙』にも等しく、幾らか前進したのかもしれない。
 兄である自分以外を望まなかったはずの弟の世界が、確実に少しずつ、広がっている。
 その世界の広がりを鎮めぬためにも、ここは一つ、荒療治が必要か。
「黎深」
「はい」
 ニッコリと笑う兄の次の言葉を、ドキドキと胸を高鳴らせながら待つ弟──しかし、

バタン…ッ

「え…」
「君、暫く府庫《ここ》には出入禁止ね」
 如何なる手妻《てづま》の如くか、背後の扉越しに兄の声が──慌てて、振り向き、扉に縋りつく。
「ちょっ…ッ、兄上! どうしてですかっ」
「どーしても、こーしてもないよ。自分で、よぉ〜く考えてみるんだね」
 無情にもガッチリと閉ざされた扉が開くことはなかった。

 暫くは扉の外で喚いていた弟だが、兄である自分の頑固さは百も承知。やがて、諦めて帰っていった。少々、厳しかったかと思わないでもなかったが、これも弟のためだ。
 邵可は幾らか冷めた茶を啜り、息をついた。それはもう盛大に。



 暫く仕事をしていたが、外に近付く気配を感じた。黒狼というもう一つの顔を持つ邵可は、扉の向こうの訪問者が足を引きずっていることを察した。
 となれば、それは彼以外にはあり得ない。手のかかる弟の貴重な友人──鄭悠舜だった。
「これは鄭官吏。御苦労様です」
 邵可は資料を入れた袋を抱えながら、杖をついている若い官吏を迎え、袋を預かると、相手は恐縮する。
「申し訳ありません」
「いえいえ。これが私の仕事ですから」
 府庫の資料、書籍の山の管理・整理が邵可の『表の仕事』だ。貸し出した資料を受け取り、返却の記載をし、元の書棚に片付ける。移動してある場合はきっちり、そちらに。
 私邸の自室の片付けなどは、どうにも手につかないのだが、府庫の整理は何故か、しっかり行えるのは不思議がられている。娘なんて、「父様に書の片付けをさせるなんて、後が怖いわ」とか未だに力説しているくらいだ。
 それはさておき、資料の確認を済ませ、袋を差し出しながら、弟の友人を見直す。こんな使い走りなど、今では、それなりの官位を得ている悠舜自らがすべき仕事ではない。
 ここに来る口実なのでもあるのだろうか。
「少しお休みになりませんか、悠舜殿。お茶を差し上げましょう」
「────有り難うございます。では、お言葉に甘えて」
 微妙な間がお茶のせいだとは夢にも思わない邵可だった。

 滅多なことでは顔色など変えないはずの悠舜が、今は少々、蒼褪めている? やはり、弟のことだと当たりをつけた。それも勿論、間違ってはいないが……。
「数刻前ですが、黎深も此処に来ました。泣き事を言いにね」
 口実すら作ってこなかったのはある意味、真直ぐだろうか。
 窺い見る悠舜だが、それには答えなかった。間を繋ぐように、茶器に口をつけたが、微かに顔を顰めたのは何故だろう。やはり、弟を心配してくれているのだろうか。
「貴方が手を上げるとは正直、意外でした」
「も、申し訳ありません。つい、などと言ってはいけないのでしょうが」
「いいえ。よくやってくれました。そういうことは本当は私がしなければならないことだったのですよ。私こそ、あれの境遇を思って、つい甘やかしてしまいましてね」
 人の身には有り余るほどの才を抱えているためか、感性も思考も人と違いすぎる。余人はその才を畏れ、或いは奇異に思い、距離を取った。実の親でさえ──平気で近付いたのは兄弟の他は数えるほどだ。
 況してや、全くの他人ともなると、同期の中にも数人だろうか。さすがに『悪魔の国試組』というべきだろうか。
「……当たり前と思って欲しくはないのです。黎深が私などを気遣ってくれるのは正直、有り難いとは思います。ですが」
 弟の余計なお世話で、逆に損害を被ってもいるだろうに、人を無視するだけの黎深がとにもかくにも、自分のことは意識の範疇に入れていることを悠舜も大変なことだと思ってくれているのだ。
 邵可は彼の懐の深さには心底、感謝していた。「迷惑だ」と突き放さずにいてくれることを。
「他の者にも、ほんの少しでも意を向けてくれたら、と?」
 とても難しいことだとは思うが、逆に黎深を気遣ってもくれるのには感謝では足りないだろう。望みすぎ、などとは言えない。

 邵可は兄である自分に傾倒する弟を思う。
 己は良い兄ではないとさえ信じている。碌に約束も守ってやれない、平然と嘘ばかりをつく──それが家族を、家を守るためとはいえ、幼い弟を悲しませてしまったのは事実だ。
 そして、今尚…、裏の顔を知ってしまっても尚、自分を愛し、もう止めてくれ、静かに過ごして欲しいという弟のたった一つの真摯な願いをも平気で無視している。
 王命さえあれば、暗殺者『黒狼』と化して、出ていく兄を、家族の中で真実を知る唯一の弟は黙って、呑み込んで見送るのだ。
 もう自分など忘れてくれても構わないのに、その方が弟のためだとも思える。
 けれど、その一方で、どんなに手を汚しても、変わらぬ満面の笑顔と愛情を以て、迎えてくれる弟がいるから、邵可は帰ってこられるのだともいえた。正気を保ったまま、此処に、愛する家族の元に……。
 でなければ、愛する娘をこの汚れた手が抱き上げることも叶わないだろう。
 矛盾しているのだ。酷く。愚かしいほどの、矛盾の塊なのだ。この紅邵可という存在は……。

「邵可様? どうかされましたか」
 僅かな、本当に微かな揺らぎを感じ取られたらしい。内心を表に出さないことでは悠舜以上の邵可だが、悠舜とて、人を見る目に於いては邵可に負けてはいない。将来の宰相候補と今から目されているのは伊達ではないのだ。
「いやぁ、色々と懐かしいことを思い出しましてね。昔の、あの子のことなどを」
「ハァ……」
 あの子、などと黎深を称するのは邵可唯一人に違いない。悠舜が何ともいえない顔をしたのが妙に笑えた。さすがに想像できないのだろう。黎深の子ども時代というものを。
 片手間で受けた国試もあっさりと通ってしまった。それも第二位・榜眼で──状元の悠舜は唯一の上席者ではあったが、恐らく黎深の才が国試などで、量れるものでもないことも見抜いているだろう。
 余人が恐れながらも、嫉妬するほどの才──だが、黎深は己が才に対してさえも、無頓着なところがあった。まず、兄でいる邵可があってこそ、自分もあるのだ。国試を受けた動機さえ、国のためなどではなく、紅州を出て、貴陽に留まるためだった。
 そんな黎深に、余人を慮れ、というのは本当に無理な話かもしれない。それでも、と願ってしまうのは、嘗ては諦めていた友人を、悠舜や鳳珠を弟が得たからだ。

「いつか、あの子も解ってくれるんじゃないかと、望んでしまうんですよね。今度のことは、良い切っ掛けになるかもしれません」
「切っ掛け、ですか」
「えぇ。ですから、余り気にしないで下さい。悠舜殿」
 何ともいえない顔で曖昧に笑うと、また少しだけ茶を啜ったが、微かに顔を顰めたので、
「あぁ、冷めてしまいましたか。淹れ直しましょうか」
「い、いいえ;;; 折角ですが、そろそろ戻らなければなりませんので」
「そうですか。残念ですね」
 心からの残念そうな満面の笑みだったので、悠舜が胸に痛みを覚えているなどとは知る由もない邵可だった。

其の肆 その陸



 五…、五周年記念作……とは、もう言えないよーな;;; 六周年作に追い抜かれるとゆー、とんでもない体たらくTT でも、来月には新刊が出るし……下手したら、謎の悠舜さんの出自も判明するかもしれないからなぁ。(GW前なので発刊が早く、出てるトコはもう出てるらしい)
 あんまりにも放っておくと、原作で真実が書かれてしまうし……;;; 悠舜さんが黎深を殴った?のは一回だけ──書かれちゃったんだよねぇ。だから、このお話は空想とゆーことで^^
 どうやら、邵可様と黎深、悠舜さんを交えたCDドラマもあるようだけど、影響されそうなので、まだ聞いていない。

2008.04.28.

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