悠遠なる絆

其の陸


 黎深は府庫に来たようだが、邵可に泣きついたわけでもなさそうだった。とりあえず、愚痴っただけなのだろう。
〈私が案じるほど、気にはしていなかったということでしょうか〉
 少しばかり、思い上がっていたのかもしれない、と自戒する。
 府庫を出て、所属部署へと戻る道筋──府庫を訪れる者は少なく、普段は人影もないはずが、今日は珍しい日のようだった。見知った背中に、足を止める。コツンと杖の音がやけに大きく響いた。
「皇…、葵官吏」
 仕事中のはずなのに、こんな処にいるとは珍しい。どうしたのだろう、とボンヤリと思う。
 だが、振り向いた薄い色の双眸は苛立ちを含んでいた。これもまた、珍しい。
「いい加減、あの莫迦に言ってやれ」
 いきなり、押さえつけるように、ピシャリと言ってくれた。
「あの莫迦とは……」
「お前の周りには莫迦がそう何人もいるのか、悠舜」
 ……確かに、そう決め付けられるのは一人しか、いないかもしれない。

 だが、久し振りに耳にした名前に、何故かホッとして、肩の力が抜ける自分も笑える。とはいえ、周囲を窺ってしまうが、元々、人の往来の少ない府庫近辺だし、彼が人に聞かれるような迂闊な真似をするはずもない。
 資蔭派の中堅が国試の状元と人目を憚るように……。
「悠舜、聞いているのか」
「は? あぁ、えぇ、勿論です。お気遣いは有り難く──」
「何が気遣いだ。アホらしくて、見てられん。あの莫迦こそ、目障りだが」
「そこまで、仰らなくても」
 ズバズバ斬られるのに、一寸でも擁護しようとしても、ともに一刀両断。斬り捨て御免。
「碌な展望もなく、国のために働く気も毛頭ない。なまじ、頭が良いだけに始末に負えん。私に相応の地位があったら、必ず朝廷から叩き出してやるというのに」
「皇毅殿……」
 本当にやるだろうな、と悠舜は苦笑する。
「あんな莫迦、甘やかしても付け上がるだけだ。お前も迷惑だと、何故、言わん」
「余り迷惑だと、思っていないというか」
「阿呆か、お前も。それでなくとも、目をつけられているというのに、あの莫迦たれが拍車をかけているのだろうが。何のつもりかしらんが、余計な報復をしくさって、跳ね返ってくるのは全部、お前の方にだ。迷惑千万、万万だろうが」
「それはそうなのですが」
「妙な仏心など出すな。お前は何のために、わざわざ国試を受けてまで、朝廷《ここ》に来たのだ。些末な煩わしさなどに時間を取られている暇があるのか」
 それを言われると、何も言えない。散々、反対され、それでも、その反対を押し切って、国試を受けたのだ。

「何故、国試など受ける必要がある。お前なら──」
「私はこのような体ですから、まず最初に、ある程度の力を見せなければならないのだと思うのです」
「力なら、後からでも幾らでも示せる。我らとて、そうだったのだぞ。──お前なら、大丈夫だ。足のことで、下らんことを言うような輩がいたとしても、我々が守ってやれる」
 そう言ってくれるからこそ、甘えるわけにはいかなかった。
 第一、彼らがいるところならば、それでも良いかもしれないが、いつまでも、貴陽にいられるとは限らない。それが官吏というものだ。
 他州に赴き、彼らの庇護の下を出て、本当に一人で立っていかなければならなくなった時、倒れないように己を支える心構えを最初から作りたかったのだ。
 果てしない問答の末、やっと折れ、国試を受けることを一応は納得してくれた。「状元以外は許さんぞ」などという、とんでもない励ましの言葉とともに……。
 勿論、悠舜はそれに応えた。

 だが、国試状元及第となれば、資蔭派とは完全に袂を分かったことになる。
 案の定、色々な莫迦やら阿呆やらもポコポコと湧いて出るようになったが、皇毅は一切、手を出さなかった。守ろうとはしなかった。資蔭派の若手連中こそが最も悠舜を目の敵としても──そう、今日までは。
 黎深が事を大きくしすぎて、皇毅も出てこざるを得なくなった。本当に、資蔭派連中が命の危機まで覚えたほどだったからだが、何にせよ、皇毅が悠舜を庇えたのもある意味、黎深のお陰、と言えなくもない。
 ……などと考えてしまったが、とても口には出せない。更に容赦なく罵声が飛んでくること疑いなかった。
 昔から口が悪くて、言いたいことはポンポン言う。けれど、普段は無口な方だから、悪口しか聞いたことがない気もする。海千山千の朝廷を渡り歩き、磨きがかかっているのだろうな、と悠舜はまた苦笑する。
 認めた皇毅が眉を上げる。更に機嫌が悪くなったようだ。
「何が可笑しい。お前、本当に人の話を聞いているのか」
「聞いていますよ。いえ、貴方もお変わりないのだなと、一寸感慨に耽ってしまいました」
「──大した余裕だな。要するに、忠告を聞く気もないということか」
 忠告だったのか、あれは……一寸、いや、大分違うような気がするが。
「お前がそのつもりなら、それもいい。莫迦に付き合って、足踏みしていろ。私が出世して、叩き出すまで、友だちゴッコでもしていればいい」
 言うだけ言うと、皇毅は背を向けた。
「皇毅殿」
 呼びかけに、だが、振り返りはしない。
「有り難うございます」
 たった一言に、全てを込める。
 口が悪くとも、まだ案じてくれている。その辺りは黎深とも変わらないのかもしれない。全く対極に位置する天敵のような二人だが……。

 それでも、やはり振り返ることはなく、葵皇毅は立ち去った。胸を張った自信に満ちた見事な姿勢で……。
 あの姿に、どれだけ──追いかけているつもりはない。自分は、皇毅や黎深たちとも違う者なのだ。
 異なる道を、異なる速さで、自分なりに歩いていくだけのこと。
 カツン…… そうして、また悠舜は一歩を踏み出した。



「全く、いつまで、呆けているんだか」
「五月蝿いっ。黙れ! 喧しいっっ!! お前なんかに、私の気持ちが解って堪るかっっ」
 いきなり目覚めたか、正気返ったか──とにかく、思わぬところで反応するものだから、鳳珠ですらが、反論も忘れた。
 最愛の兄にまで出入禁止を申し渡され、落武者の如くフラフラしていた黎深を、とにかくも捕まえたのが鳳珠だった。本当なら、鳳珠とて、構いたくないのが偽わざる本音というものだが、万事が傲岸不遜、自信の塊のような紅黎深が半分以上、正気を飛ばして、外朝をフラつき、甚大なる被害を出しているのを放っておくわけにもいかなかった。
 黎深が勝手に暴れているのなら、ともかく、悠舜が絡んでいるので、原因が悠舜だと思われでもしたら、飛火しかねない。それだけは何としても避けたかっただけだ。
 とりあえず、放心状態の同期を強制連行し、鳳珠は初めて、この我儘な同期を邸《やしき》に招いた。
 悠舜ならば、既に幾度か足を踏み入れた邸──その類稀な美貌のために、今尚、友人を殆ど得られず、他の者を呼ぶことのなかった主人が入朝してからは数は少なくとも、その機会も増え、邸の者たちは感慨に耽っていた。さすがに、彩雲国全土から集う者の中には強者もいるのだと!
 ところが、本日の客には「友人などではない。客でもないから、茶は出さんでいい」と素っ気なかった。
 別の意味で、魂を飛ばしている様子の連れを見るにつれ、誰もが近付かない方が良い、との賢明な判断を下したものだ。

 さておき、とりあえずは戻ってきたのなら、とっとと帰って貰いたいもんだ。いや、即行で叩き出そう。決めた。
「解からんな。お前のような戯け者の気持ちなど、解かって堪るか」
 同じ科白で返すが、ここまで意味合いの異なるのも笑えるものだ。
「だが、お前も悠舜が何故、あれほど怒ったのか、本当に解からんのか」
「何だと」
「お前は憶測だけで、葵皇毅を誹謗した。それが何に通じるか、解からなくてもいいから、考えてみろ」
 訝しげな表情だが、何やら考え込む。普段は人の話など、まともに耳も貸さないが、さすがに悠舜に平手を喰らったのは打撃だった上に、兄上様にツレなくされた大打撃も重なり、黎深も少しは気持ちを動かされたのだろう。
「無駄にイイ脳ミソを少しは活用しろ」
 少し考えれば、誰でも解かりそうなものを──明後日の方向にばかり外れる黎深には溜息も出ない。天才とは、斯様なものなのか、と最初は感心したほどだった。尤も、こうまで外れまくると、いい加減にしろと言いたくもなるが。
「誰でも自分を中心にものを考えるものですよ。でも、黎深は、違うのですよね」
 いつだったか、悠舜が漏らした言葉が甦る。どうしようもないほどの自己中男の癖に、思考言動の中核にあるのは黎深自身ではなく、兄や姪だという。そして、恐らくは悠舜もその中核に近いところに紛れ込んだのだろう。
 本来、紅家を継ぐべきであったはずの兄とは対外的には兄弟であることを秘しているようなもので、表立っては何もできない。姪に対してもまた然り。何だか知らんが、遠くから見詰めるだけだったり、家を訪ねても、目の前にすると胸いっぱいで何も言えなくなるらしい。……阿呆か。
 つまるところ、欲求不満にもなるらしい。黎深が悠舜に構うのには、その鬱憤晴らしに近いものもある気がする。全く迷惑な話だ。

「た、ただの憶測ではないぞ。大体、あの男は──」
「黙れ。聞く耳など持たんわ。お前のしたことは、足が悪いというだけで悠舜を量ろうとする連中と、何ら変わらん。ここまで言われても、まだ理解できんか」
「……う」
 見る間に黎深の引きつった顔が蒼褪めていく。
 その様に、こいつにも少しは超限定的ではあっても、他人を思う心はあるのだと、微かに安堵した。
「これ以上、付き合うつもりはない。さっさと邸に帰って、どうすべきか考えろ」
 後は、その答まで教えてやるわけにはいかない。黎深が自分で考えなければ、意味はないのだから……。

 同期の傲慢男は来た時とは別の意味で、少しばかりフラつきながら、帰っていった。ちゃんと、邸に帰りつけるかどうかは、まぁ、案じる必要もないだろう。どうせ、『紅家の影』が付いているはずだし、迎えも飛んでくるはずだ。
「それにしても、私も親切なことだ」
 どうしようもない男だし、友人などとは口が避けても言いたくもないが、それでも、国試以来の貴重な知己であるのも間違いない。
 何より、顔を曇らせたまま、日々を過ごす悠舜を見たくなかったのだ。 良い方に転がってくれることを祈るしかなかった。

其の伍 その漆



 やっとこ、終盤に入ってきました。さて、ここにきて、この話では悠舜と葵皇毅が昔からの知己のように進めましたが、勿論オリ設定です。原作では一言もないどころか、この二人、まともに会話したシーンもありません。
 同じ場面に登場したのは一回だけで、直接には会話もなし。皇毅が妙に悠舜に絡んでいるような感じがしないでもなく、それに対する悠舜の反応もない。……居合わせた黎深の方が激しく反撥したからなぁ。因みに此処には鳳珠もいて、同期三人が揃って、ちゃんと話をした唯一の場面でもあります。
 ただ、場面はないものの、仕事の上で『皇毅が悠舜に会いにいった』ことはあり、何を話したのかも謎のまま。わざわざ、科白に入れるくらいだから、伏線なのかな。と思っていたけど、それらしい話は全く出てこないので、単に状況に必要な行為として書かれただけかもしれません。
 さて、二人のイラストがまともに描かれたのも同じ巻だったのだけど──それを見た時、輝は『何か似てる』と思ってしまった。常に穏やかさを失わない悠舜と、厳しい表情ばかりの皇毅では印象がまるで違うはずなに、妙に似ている、と。
 ま、勝手な印象だとは思っていたのだけど、悠舜も余り背景は解かっていないし、足の事にも何やら、曰くあり気な上に、しかも、悠舜の出自云々やらも出てきて、強ち全く関係がないこともないのか? などと想像を逞しくしている。
 皇毅の方はといえば、前王に殲滅された葵家の唯一の生き残りの上、尚、入朝を許されるだけの能吏だと。
 そんなこんなが今回の話にも反映されてはいるけど、明らかになったら、全然違ったりして、笑える妄想話になる可能性大。でも、まぁ、色々考えるのが楽しいだけかも☆

2008.06.26.

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