黄昏の夢

Dreams


「イテ、頭蹴るなよ」
「おっと、悪い悪い」
「どうだ、行けそうか?」
「んーと、OK。一人上がれよ。二人で引き上げるから」
「よっしゃー」
 と、門限破りはスムーズに進みかけたのだが、
「!? ま、待てっ。上がるな」
 塀の上の影が低い声で制する。彼の視界で、懐中電灯の光がチラチラと動いている。しかも、此方に近付いてくるのに低く毒づく。
「チィッ、巡回だ」
 塀の下の二人が「まさか」と異口同音に呟く。
 この時間なら、丁度、巡回が通過した場所のはずだから、『侵入経路』に選んだのだが、
「時間にルーズな当番なんだろ。ついてない」
「アッテンボロー、早く降りろよ」
 焦った声に、アッテンボローと呼ばれた少年は塀の上に身を伏せ、二人を見下ろす。
「左から来る。お前らはそっちに回れ。見付からずに忍び込めるはずだ」
「お前はどうする気なんだよ?」
「立ったら、見付かりやすいし、音を立てずに降りる自信もない。じっとしてるさ」
「えぇ!?」
「その方が生還確率は高そうだからな。来るぞ。行けよ」
「了解。御武運を!」
 小声で言い、二人はそろそろと離れていった。
 影は息を詰め、身動きせずに、巡回が通り過ぎるのを待つ。
〈頼むから、気付かないでくれよ〉
 無意識に、胸ポケットに忍ばせてある鍵を服の上からまさぐる。それ程の時間ではないはずだが、やたらと長く感じられた。
 何事もなく、影がへばり付いている正面を光がユラユラと通過していこうとしたその瞬間《とき》だった。
 気付かれなかったようなのに、影の少年がホウッと息を抜きかけた瞬間、塀の内側の茂みがガサガサと揺れた。不意打ちに体も揺れる。
「と……っ」
 危うく塀から落ちかけるが、何とか堪える。
 その間に光が激しく動いた。
 茂みを揺らしたのは光に驚いた猫だった。光が反射的に猫を追いかけたが、素早い動きは追い切れず、代わりに別の生き物を浮かび上がらせたのだ。
 眩しさに一瞬、クラッとくる。闇夜に慣れ切った目では当たり前だ。咄嵯に片手で遮ったので、又々、落下の危険に曝された。
 思わず、声を上げてしまい、必死にしがみついたので、事無きを得た──が、
「あ……」
 巡回の懐中電灯は彼を完全に標的と定めていたのだ。
〈あっちゃー、しくじったぁ〉
 彼は早々に観念した。生活指導室に送られ、あの厭味な指導教官にネチネチといたぶられる想像は楽しくもないが、仕方がない。

 だが、どうしたものか、巡回担当の候補生は動かなかった。目が少しは慣れてきたが、逆光の向こうなので、どんな表情《かお》をしているのか、よく見えない。ただ、小首を傾げているようだ。どうも、あちらも対応に困っている?
 気がとおーくなるような沈黙の末、
「今晩は」
「…………今晩は」
 かなり間の抜けた返答であるのは承知の上だが、それ以外の言葉が出なかった。
 大体、あちらさんの問いかけが抜けているのだ。
 そして、次の言葉も予想の範疇を超えていた。
「明朝《あした》も早いんだから、早く寝《やす》んだ方が良いよ。じゃ、お寝み」
「はぁ、お寝みなさい」
 相手は苦笑したようだ。そして、光が逸れる。
 再び、巡回に戻る背中が暗闇の中に溶け込み、遠ざかっていく懐中電灯の光だけを彼は暫く、塀にしがみついたまま、見送ったのである。
 茫然としていたのを現実に引き戻したのは低く抑えられた呼びかけだった。
「アッテンボロー、何やってんだよ」
「見付かんなかったんだろ。早く降りろよ」
 回り込んで、無事に門限破りに成功した二人が戻ってきたのだ。
 今更だが、塀はニメートル半はある。我に返り、態勢を十分に整え、ジャンプ! 見事着地。
「鮮やか、十点!」
 二人が囃したが、彼は何処か茫然としていた。
「……どしたんだ?」
「あ? 別に──早く部屋に戻ろうぜ」
 何だか、狐か狸に化かされた気分だった。勿論、狐や狸が本当に人を化かすわけもなく、間違いなく、あの巡回も人間なのだろうが、もしかしたら、余計にタチが悪いのかもしれない。



 閉ざされたドア・ロックを外から強制解除して、入室を果たすと、照度の落ちた部屋は空気までが澱んでいた。
 澱みの中心に男の影が徴かに身動《みじろ》く。
 これは司令官の役目を引き継いだばかりの若者の最初の仕事だった。

 部屋は想像もつかない程に荒れていた。
 部屋の主の心象風景そのままに……。
 様々なものが散らかった部屋の奥──制服を酷く着崩した男がベッドに、だらしなく寝そべっている。ベッド・サイドには空の酒ビンが何本も林立し、床にまで転がっていた。
 その全てを一人で生産した男は酒の臭いを漂わせ、招かれざる客を迎えたのだ。
「フン、遂に脳にきたか。見たくもない面が見えるぜ」
 声には毒素が混じり、明るかった緑色の瞳には濁った靄がかかっていた。
 女性にも、別の意味では少年少女達にも人気者である青年の洒脱な姿は見る影もない。
 興味を失ったように視線を逸らし、のろのろと酒ビンに手を伸ばす。
「ポプラン中佐、もう止めて下さい。それ以上はお体に障ります」
 ユリアン・ミンツは遮ろうとしたが、それを激しく振り払われた。その弾みで、ビンが倒れ、残っていた液体が流れ出す。
「うるせぇっ!!」
 オリビエ・ポプランはギラギラとした瞳で、スパルタニアンの弟子でもある少年を睨付けた。
「何だって、俺がヤン・ウェンリー以外の奴なんかの命令を聞かなきゃなんねぇんだ!?」
 ユリアンは全身を硬直させていた。ポプランの言葉の重みを受け止めて……。
 ポプランが乱暴に新しい酒ビンを掴む。中の液体が激しく揺れ、幾らか泡立つ。
 それを悲痛な表情で、ユリアンが押さえ込んだ。凶悪な顔で睨む師匠だったが、弟子は怯まず、絶対に放すまいと両手に力を込める。
 が、いきなり、ポプランがビンを放した。
 安堵しかけた目の前で、別のビンを取り上げると手早く封を切る。そして、そのままラッパ飲みで呷ったのだ。
「中佐、ポプラン中佐……お願いですから」
 ユリアンは自分の無力さを痛感しながらも訴えた。ポプランに強制させるだけの資格も器量も自分にはない。だが、中佐が必要だった。どうにかして、以前の中佐と──完全に元通りとはいかないまでも、この先も、一緒に歩んで貰いたかった。
 だが、どうしたら善いのか、ユリアンには分からなかった。

 その時、ユリアンに従っていたもう一つの影が動いた。黙ったまま、様子を見ていたが、ユリアンの手から酒ビンを奪い取る……。
「アッテンボロー中将?」
 ハッと見返したユリアンの視界の中で、ダスティ・アッテンボローは封を開け、その中味を管を巻く男の頭にぶち撒けたのだ。
「ア、アッテンボロー中将っ!?」
 ユリアンの絶叫は無視し、アッテンボローは最後の一滴まで、ポプランに浴びせてやった。
 更に凶悪さを増したポプランだが、アッテンボローは動じない。冷ややかな声で応じる。
「こんな酒が美味いか?」
 役目を終えたビンを放り投げると、転がっていたビンと接触し、甲高い不協和音を奏でる。
「ポプラン中佐、はっきりと言っておく。ヤン・ウェンリー元帥亡き後はこのユリアン・ミンツ中尉が我々の司令官となる」
 ポプランは答えない。険阻な光を発する瞳を向けるだけだ。
「不服か? 不服ならば、イゼルローンを出ていけ。ユリアンの役に立たない奴などに、頭を下げてまで、留まって貰う必要はない」
「中将……」
 顔色を変えたのはユリアンだ。ポプランも少しだけ、表情を変えたように見えた。
「いいか。ヤン・ウェンリーは死んだ。これは事実だ。もう、彼の才能に頼ることはできない」
 それでも、彼らは前に進む。ヤン・ウェンリーの名前だけを頼りにして──だが、過去を懐かしむわけではない。前進の為の力とするのだ。
 それは険しい道だが、その道を選んだ者だけが、このイゼルローン要塞に残れば良いのだ。
「どうせ、これが最後の機会だ。異論があるのなら、遠慮なく言え」
「いや、異論はない」
 腹の底から出しているような唸り声に少しだけ、以前の張りが戻った。
「──結構だ」
 確認すべき事だけを確認したとして、アッテンボローは即座に踵《きびす》を返す。
「ぁ…、中佐、待ってますから」
 後はポプランの自発的意思に任せても大丈夫だと、ユリアンもその後を追った。

第一部 (2)

初出 1997年8月16日発行 『Dreiklang』所収



 えー、『黄昏の夢』第二部開始です。一部の語り部アッテン・パパの息子のダスティ君視点で進みます。
 それも過去と現在が交互に展開していく構成です。元のコピー誌では見開き2Pで、夫々の切り取られた時間(過去であり、現在である)が語られていたのですが、この『2P』に収めるという作業は中々、難しいことでした。
 今回、その枠を外してみると、やはり、制約の元に書かれた文だというのが一目瞭然でした。その上で、そういう制約を感じさせない文を書ければいいんですがね。まだ難しい。

 一番、輝いていたともいえる『過去』と錘のような『現在』──それでも、突破していこうとする『彼ら』を輝なりに想像してみました。

2006.05.20.

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